ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

O.ファイジズ『ナターシャの踊り』

 上下巻合わせて800頁を超える力作。原著は2002年刊行ですが、日本語訳が出たのは昨年2021年8月です。訳者の鳥山さんによれば、途中から巽さんと中野さんの二人に応援を頼んだとのことで、よくぞあきらめずに(抄訳にせずに)最後まで訳しとおしてくれたと、感謝、感謝です(笑)。
 副題は「ロシア文化史」で、この文言を目にしなかったらたぶん読まなかったと思います。表題の女性「ナターシャ」は、トルストイの『戦争と平和』に出てくる貴族(ロストフ家)の令嬢で、なぜ彼女の「踊り」がロシア文化史と関係するのかのタネあかしは、本書の序章にあります。これは沼野充義さんが新聞の書評で触れているので、ここでは割愛しますが、「ロシア精神」とか「ロシア性」、「ロシア的」なるものが人々の間にどのように内面化されているか、その輪郭を示唆する話です。
 美術や音楽の素養がないので、せっかくの該博な内容なのに、その方面でわからないところが多々あるのが残念ですが、全体として長編小説を読んでいるような面白さがあり、長いのも特に苦にはなりませんでした。全部読むのに一ヶ月近くかかってしまいましたが、読み終えた満足感はひとしおです。

今週の本棚:沼野充義・評 『ナターシャの踊り ロシア文化史 上・下』=オーランドー・ファイジズ著… | 毎日新聞

 本書巻末に訳者の鳥山さんによる解説がありますが、その一部がWeb上に紹介されています。いくつか事実誤認が指摘されているようですが、学識上からも、卓抜した著作であることがうかがえます(ファイジズさん当人の専門は必ずしも文化史ではないようですが)。

『戦争と平和』の貴族の令嬢ナターシャは、なぜ農民の踊りを踊れてしまうのか?|じんぶん堂

 今、ウクライナとロシアは戦争の最中にあります(戦場になっているのはウクライナです)。両国は、ともに古い大国キエフ・ルーシを源流とする兄弟民族の国と言われ、ウクライナとそれを擁護する側からは「どうして兄弟同士なのに戦わなければならないのか」という当然の言説が出ていますが、かたやロシアの側は(プーチン大統領もそう言っていたと思いますが)「兄弟同士だから離れる(NATO側に行く)のは許されない」などと言い出します。こうなると、ルーシの「伝統」なるものも、恣意的に自分に都合のいいように使い回されます。本書のテーマである「ロシア性」や「ロシア的」なるものも、各々の時代の “政治性” を抜きにしては語れないところがあります。そもそもがフィクションでしょうから。しかし、「フィクション」も、それによって(それが人に内面化されて)ものごとが動くとなれば「実体」がないとも言えません(実際、往々にして人も歴史もそれで動いてきたのですから)。不可思議というか、人と歴史の奥の深いところだと思います。

 しかし、「ロシア性」に限らず、「民族性」や「国民性」と言われるものの実体は「コスモポリタン」で雑種的なことの方が多いと思います。たとえば、今もロシア文学史上の巨星とみなされるプーシキンは、「イスタンブールオスマン帝国スルタンの宮殿で見いだされ、ロシアの大使によってピョートル大帝に献上するために購入されたアビシニア(エチオピア)人」奴隷のひ孫にあたります(下111頁)。作家のゴーゴリが、実はウクライナ生まれであることは、知っている人にはおなじみですが、その家系を遡ると、実はテュルク(トルコ)系のゴーゲリ家に行き当たります(下103頁)。ボリシェヴィキの指導者でロシア十月革命の立役者レーニンも、遡ればモンゴル系の先祖がいることもよく知られています。ロシア人、ウクライナ人と呼ばれる人の系図を紐解いて、例を挙げたら、たぶんきりがないでしょう。
 ロシアの歴史の上では、異民族のモンゴルに支配されていた時代は「タタールのくびき」と呼ばれ、否定的(屈辱的)に見られがちだったようですが、実はこの時代に、民族混交とともに文化の混交も起こっていて、それは実体として否定できない大きな遺産となって現在のロシア(あるいはウクライナ)の文化にも引き継がれているはずです。しかし、その時々の政治性が関与すると、「ロシア性」にも正統と異端のような齟齬が出てきてしまう。
 その最たる例がソ連時代です。実は「タタールのくびき」より、こちらの「くびき」の方が深刻です。下巻の第7・8章にはこのソ連時代(特にスターリン時代)の様子が描かれていますが、読んでいて辛いものがあります。ここでは、正統・異端よりも、各自の権力との距離感が問題です。ソ連権力中枢との確執にさらされて「放逐」された文化人の姿が痛々しい。一人だけ例を挙げれば、不遇な境遇から名をなした文字通りのプロレタリア作家ゴーリキーは、その来歴(労働者階級出身)がソ連にとって非常に利用価値が大きかったと思われます。彼について、筆者はこう書いています。

 ……五か年計画は工業化の計画だけではなかった…。それは文化革命にほかならず、すべての芸術が国家によって新しい社会を建設するための運動に動員された。計画によると、ソヴィエト作家の主たる目標は、肯定的な理想として労働者たちが理解し、共感することのできる社会的内容の本を書くことで彼らの意識を高め、「社会主義建設」のための闘争に彼らを積極的に参加させることであった。……このソヴィエト文学のモデルとしてゴーリキーは称賛された。ゴーリキーは一九二一年、革命が暴力と専制へ姿を変えたことにショックを受け、ヨーロッパに逃亡した。しかし、彼に亡命生活は耐えられなかった。彼は受け入れ先のイタリアでファシズムの勃興に幻滅した。そして、ゴーリキーの見方では革命の失敗の原因であった農民の後進性を五か年計画で払いのけてしまいさえすれば、彼はスターリンのロシアでの生活はもっと耐えられるものになるだろうと自分を納得させた。一九二八年からゴーリキーは夏をソヴィエト連邦で過ごすようになり、三十一年には永遠に祖国に帰還した。放蕩息子は雨のように降り注ぐ名誉で迎えられた。通り、建物、農場や学校に彼の名前がつけられた。彼の人生についての三部作の映画が制作された。モスクワ芸術座はゴーリキー記念劇場に改称された。そして彼の生まれた町(ニジニ・ノヴゴロド)には彼の名前がついた。彼は作家同盟のトップに選ばれた…。
(下巻 253-254頁)

 ……ゴーリキーは当初…スターリンの目標をおおむね支持しつつも、彼の極端な政策を抑制しようと試みた。だが、しだいに、彼は自身がスターリン政権に反対であることに気づいた。ゴーリキーは何かに嫌悪感を覚えると、沈黙を保っていられるような種類の人間であったことは一度もなかった。彼は…いまやスターリンの側にとっても悩ましい存在であった。彼は、…スターリンについての聖人伝的なエッセイを書くというクレムリンからの指示を断りすらした。一九三〇年代のゴーリキーの日記は、彼の死に際して内務人民委員部のアーカイヴに閉じ込められたが、そのなかでゴーリキースターリンを、プロパガンダや大衆の恐怖によって「信じがたい規模にまで拡大された」「巨大な蚤」にたとえた。
(同 391-392頁)

 ゴーリキーは1936年に亡くなります。病死とされていますが、妻は、夫はスターリンのスパイによって殺されたと言って譲らなかったといいます。

 「スターリン体制」と呼ばれる異常な時代でも、人が生きているかぎり「文化」がなくなるわけではないでしょうが、異様な警察国家の下、密告や忖度が当たり前になっている社会で生まれる「文化」よりも、自由で闊達な社会で育まれる「文化」の方が何百倍も好ましく、また種々の可能性があることに、誰も異論はないでしょう。それは現在の「文化」も同じです。
 今のウクライナを戦場とする戦争が、当事国や周辺地域はもちろん、世界に今後どんな刻印をすることになるのかわかりません。繰り返しにはなりますが、とにかく一刻も早い停戦を求めるのみです。

白水社刊 2021年8月 上巻411頁/下巻431頁 ※註等を除く)




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