雑誌『地平』8月号の論説から引用を2つ。1つめは、NHKのETV特集の制作ディレクターだった大森淳郎(じゅんろう)さんの「『時はきた』と言わせない」から。
誰にでも、この人は裏切れないと思う人がいるだろう。私もいる。とりわけ政治の右旋回が顕著な昨今、思い出すのは、その戦争体験をテレビカメラの前で話してくれた人々の顔だ。……〈二人省略〉
……ムンピルギさん(1996年当時71歳)は、ソウル郊外のアパートでひっそりと暮らしていた。清掃の仕事をしながら、毎週水曜日には日本大使館前の抗議デモに参加していた。ムンさんには日本軍の「慰安婦」だった過去がある。18歳で中国東北部の戦線に送られ、そこで3年間、日本兵の相手をさせられた。戦後は「慰安婦」だった過去が発覚することに脅えながら、ソウル、マサン、チョンジュなどの大都市を転々とし、飲み屋や工事現場で働いてきた。「慰安婦」だったことを名乗り出たのは1992年のことだった。デモの時は、拳を突き上げて声を上げる支援者たちと少し離れた所で、うつむきかげんに力なく手を動かしていた。
アパートで話を聞いたのは、もう夕闇が迫る頃だった。私は、スケッチブックとマジックペンを用意して、慰安所の様子を描いてもらった。そして一日に何人の相手をさせられたのか、さらには壁や布団の色まで聞き出そうとした。「もう聞かないで、そんなこと」。ムンさんはそう言って台所のほうに行ってしまった。洗い物をする音が聞こえてきた。日常に戻って気持ちを落ち着かせようとしているのだろう。細部のリアリティーが証言に力をもたらすはずだ、そんな理由で私はひどいことをしてしまった。気まずい沈黙が部屋を包んでいた。そんなとき、ムンさんが台所から声をかけてくれた。「ここは夜景がとっても綺麗なのよ。カメラで撮るんだったら窓を開けてあげるよ」。とっくに日は暮れていた。遠くにソウル中心街のまばゆい光が見えた。
誰だって戦争の体験など思い出したくないのだ。忘れることができるのなら忘れてしまいたい。テレビカメラの前で、ぶしつけな質問に答えなければならない謂れなどないのだ。それでも彼ら彼女らは話してくれた。二度と戦争を繰り返さないために自分の証言が役に立つのなら、という思いからだ。
そういう人たちを裏切るようなことはできない。託されたバトンを落としてはならない。まして放り投げたりしてはならない。同時代を生きる人々、次世代を担う人々に渡していかなければならない。
戦後日本が、なんとか、まがりなりにも、平和主義を手放さずにこられたのは、戦時中の被害の記憶、加害の記憶を語ろうとする人々がいたからだ。彼ら彼女らの勇気によって、戦争の記憶が社会の中で広く深く共有されてきたからだ。でも、戦争体験者は年々少なくなり、遠からずいなくなることは必然だ。高市総理大臣から見れば、まさに「時はきた」のだ。
戦争の記憶を掘り起こし、広く伝えることについてメディアは一定の役割を果たしてきた。しかし今、メディアは新しい方法を模索しなければならない。
戦争体験者、そして戦争による死者たちが置いていったバトンを、どう拾い上げて生き生きとしたものに更新してゆくのか、考えなければならない。「時はきた」などと誰にも言わせないために、だ。……
(『地平』・2026年8月号、80-83頁)
2つめは、「長生炭鉱の水非常(落盤事故による不幸)を歴史に刻む会」の代表を務める井上洋子さんへインタビュー記事「骨の声をきく」から。
――何が井上さんを突き動かしているか?
井上 私はいま76歳です。戦争直後に生まれ、悲惨さを直接みていませんが、その影を感じながら、小学校では平和と民主主義の大切さを教わってきました。父親は傷痍軍人で、障害を負っていて、酒を飲むと必ず「戦友」という悲しい響きの歌をうたいました。父親の悲哀を背に感じ、戦争というものがよくないものだと幼い頃から感じてきました。私たちは実際に戦争のない社会を生きてきて、繁栄を謳歌し、けれどそれは朝鮮半島の人たちの犠牲の上にたっています。
日本は裕福ではなくなりましたが、飢えるようなこともなく、平和に幸せを生きているといえると思います。そこで70代も半ばを過ぎた私が思うのは、子や孫に残せるものはお金じゃない、平和なんだということです。
しかし、今はどうか。そして未来はどうなっていくのか。これは戦前に近づいているのではないか、そう感じざるを得ません。世界ではトランプ、プーチン、ネタニヤフが気に食わなければ叩き潰せばいいとなって、戦争への歯止めはありません。日本は、中国に対するといって武器をもとうとしています。けれど、そんなことをしたって巨大な中国に勝てるわけもありません。原発がやられればそれでおしまい。赤子の手をひねるようなものです。
私は、子や孫、その世代を悲惨な目に遭わせたくありません。残り少ない人生を使って、この今の世を少しでも変えていけるような流れをつくりたい。日本の戦争加害の愚かさを世に伝えてくれる「生き証人」が遺骨です。過去の過ちを繰り返さないようにするためにその声をきく。
偶然にもここ2か月の間に、長生炭鉱をモチーフにした演劇が二つ上映されました。一つは花園神社で上演された新宿梁山泊の『沈黙の海、骨は語る』で、もう一つは座・高円寺で上演された日本と韓国の劇団が共同で製作する『長生炭鉱―生きたかった』です。どちらも遺骨が語る物語といえます。長生炭鉱が演劇にまでなる、こんなことは「刻む会」が発足した時には考えも及びませんでした。しかしいま全国で、国境、民族を越えて、遺骨を通じて過去に学び、同じ過ちを繰り返さないための試みが行われています。戦争の足音が近づいている今こそ、その声に耳を傾けて、平和をもう一度取り戻すために歩みを続けていかなければなりません。
(同上、92-93頁)
「国境、民族を越えて」というのは、潜水調査に外国人ダイバーが参加してくれたことをも含意しているでしょう。不幸にも台湾人ダイバーのヴィクター・ウェイ・スーさんが事故で亡くなり、この悲報には「刻む会」だけでなく、内外に衝撃が走りました。
井上さんの話によれば、台湾で行われた葬儀に、韓国の政府関係者は参列したのに、日本政府は花一輪すらなく、ヴィクターさんの遺族に対し、正式な弔意も示されなかったとのこと。日本全国から弔慰で300万円超のカンパが集まったこととは、あまりに対照的です。冷酷というか、恥知らずというか。残念ながら、これがわが国の政府なのです。
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