ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

対立から共創へ AIと集団知の実験

 一昨日新聞で、台湾の初代デジタル担当相を務めた唐鳳(オードリー・タン)さんのインタビュー記事を読んで、どうして日本ではこういう知性のある人が政治リーダーを務められないのかと心の底から思いました。いや、おそらくは、日本にもこういう個性は皆無ではないのでしょうけれど、残念ながら表舞台で活躍できるしくみになっていないと思います。
 学校で働いていた経験から何となくわかります。今は変わってきていると思いますが、かつて学校で(というか教員の間で)最も好ましい生徒というのは、おそらく「明朗快活」で「従順」で「挨拶ができる」子だったでしょう(社会全体にも当てはまります)。これがそのまま生徒に「伝染」すれば、個性的で能力が高くても、「空気を読めない」子どもは「いいやつ」とはみなされないかもしれません。隠れた(隠した)まま、「埋もれて」いる子がいそうです(その後に、目利きする人に出会えればよいのですが)。
 昨日のブログではありませんが、議員の職が家業と化して2世3世と続くうちに「特権階級」となり、たまにそうでないのが現れたと思ったら、経歴詐称や似非右翼、パフォーマンス詐欺師の類ですから(これ、全てに当てはまらないと総理大臣になれないんですかね 笑)。

 さて、人工知能(AI)は進化のスピードが速すぎることだけでも脅威ですが、それが世論操作に利用され、対立を助長する道具と化し、民主社会を破壊しかねないという懸念や警戒心も高まっています。けれど、唐鳳さんは、AIが個人ではなく、コミュニティーの中で人を結びつける役割を果たせれば、(日本人が厭う)意見対立を創造に転換できると言っています。AIの素養に欠け、個々の用語の意味がわからない小生にも、言わんとしていることがわかると「感動的」です。毎日新聞の9月4日(金)付けの記事から引用します。
AI新世紀・脅威と向き合う:台湾初代デジタル担当相 オードリー・タン氏 対立を創造に変える 民主主義への活用提唱 | 毎日新聞

 AIには、特定の見解や既存の信念を強化してしまうというリスクがある。
 SNSには広告収入を基盤とする「アテンションエコノミー」(閲覧数が多いほど運営事業者や投稿者が金銭的利益を得られる構造)があり、AIが使われている。AIは人々を刺激するコンテンツが配信競争で有利になることを学習し、怒りをかき立てる投稿が広く拡散されるようになった。
 異なる集団に互いの好ましくない姿ばかりを見せることでゆがめられた相手像が当然のものとして受け入れられるようになり、社会の分断につながった。

 一方、対話型生成AIは、サブスクリプション(定額利用)によって収入を得ている。するとAIは、定額利用を継続してもらうためにユーザーが聞きたいことに迎合して回答するようになる。
 自分の考えること全てがAIに肯定され、AIはユーザー自身を映し出す鏡となる。誰もが別々の「泡」の中に閉じ込められ、私たちは互いに引き離されてしまう。

 このように、収益構造の違いによって二つの異なるリスクが生じる。そこで私が提唱するのが、三つ目の選択肢だ。AIが私たちの間に立ち、人々の関係を良くするのだ。AIが個人ではなく、コミュニティーの中で人を結びつける。
 シンギュラリティーには、AIが人間の知能を超える特異点という意味に加え「単一性」という意味がある。私は、それに対する対抗軸として「プルラリティー」(多元性)という概念を経済学者のグレン・ワイル氏と共に提唱している。
 対立を創造に変えるための道しるべがプルラリティーだ。AIは分断を助長したが、技術は本来、信頼と協働の仲介者であるべきだ。
 日本では、多くの人がイデオロギーや意見の対立を「調和を乱すもの」と感じている。一方でプルラリティーでは、対立を共創に転換するエネルギー源として捉える。

……多くの対立がある台湾で、プルラリティーを実現した事例を紹介しよう。
 2024年、オンラインで生成AIを使ったなりすましなどの詐欺広告が急増した。
 そこで、私たちが行ったのは熟考型世論調査だ。一人一人に意見を聞くのではなく、参加者を10人ずつのグループに分け、オンライン上で議論してもらった。興味深いことに、個別に見ると良さそうに見える案の多くが、グループでの議論の後には、あまり良い案ではないと判断されるようになった。
 例えば、なぜ詐欺広告が広がったのかを知るために、政府はSNSを運営する企業に対し、広告の投稿に使われたアルゴリズムを公開するよう義務付けるべきだという意見が出た。
 しかし、議論の中で「犯罪者もアルゴリズムを見られるようになり、悪用されるのでは」という指摘が出た。熟議の結果、この案への支持は約25㌽落ちて55%程度に低下し、圧倒的多数の支持ではなくなった。
 一方、広告主の本人確認の義務付けや、プラットフォームの責任を強化する案は生き残り、法律となった。実際に、ピーク時から98%以上の詐欺広告を減らすことができた。

 議論の中で、AIをたくさん活用した。リアルタイムの文字起こしや要約をすることで、内容の確認が容易になり、中国語のアクセントが違っても理解しやすくなった。AIを組み込んだSNSによって、人々の立場や、異なる考え方をつなぐ意見を可視化した。
 
 汎用型のAIはAGI(Artificial General Inteligence)と呼ばれ、各社が開発を競っている。一方、私が目指すべきだと考えるのは別のAGI(Argumented Group Inteligence=拡張された集団知)だ。
 人間の集団はすでに非常に賢く、集合知はいかなる個人の知性よりも高い。AIが個人ではなく、私たちの結びつきに忠実であれば、互いをより深く理解し合う手助けとなり、AGI(拡張された集団知)を実現できる。
……

集合知はいかなる個人の知性よりも高い」――人間が高度な社会を形成できる根拠、すなわち、人間が人間であるための重要な拠り所です。唐鳳さんは、人間の集合知・集団知を高めることなく、AI知だけを高めてどうするのかと問うています。分断対立ばかりになるとは、そういうことなのだと思いました。


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二つの「法治主義」

 今朝の毎日新聞1面の「余録」にこんな記事があります。「不敬罪」という語が出てきます。
余録:衆院議員に連続25回当選し… | 毎日新聞

 衆院議員に連続25回当選し「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄は戦時中、不敬罪で検挙されたことがある▲1942年、翼賛体制下の衆院選。明治、大正、昭和と歩んだ憲政の危機を嘆いた際の「三代目」という言葉が天皇への不敬にあたるとして拘束、起訴された。翼賛体制を批判していた尾崎への露骨な政治弾圧だったとみられる。尾崎はそれでも当選し、無罪となる▲思想統制に悪用され、戦後に廃止された不敬罪である。その復活と受け取られかねない動きが自民党議員らの間にあるという。SNSなどを通じた皇族らへの中傷に厳しく対応するため、刑法を改正しようとする議論だ。当事者の告訴なしで名誉棄損罪とする案などである▲SNSによる中傷を巡る問題は確かに重要だ。だが、当局が恣意的に用いかねない処罰規定を設けることは表現の自由を脅かし、尾崎の受難を再現しかねない▲さきの皇室典範改正も絡むようだ。養子として皇族になることが可能になった旧宮家の男系男子も保護の対象にする想定という。国民の理解が得られたとはいえない養子入りだ。罰則による批判封じで環境整備をしたいのだろうか▲皇室典範改正を巡っては「愛子さまが天皇になったら結婚する人もいない」と発言した自民党議員もいた。それこそ皇室や象徴天皇制への敬意を欠くように感じたが、党内からあまり批判は聞かれなかった。今回の議論を関係議員は「不敬罪の復活ではない」と説明しているという。何を目指したものだろう。

 この記事を読んでいて「法治主義」とか「法治国家」の「法治」について考えました。専門家からは異論を挟まれそうですが、巷で言われる「法治主義」には、種類が2つあると思っています。
 「法治主義A」は中国古代の諸子百家の時代に法家が主張したような考え方で、世の中をどういう理念、というか、「しかけ」でもって統治するのが最善かという話です。その際、対極とまではいえませんが、別立てで対抗視されるのが儒家の「徳治主義」と考えるとわかりやすいと思います。要するに、為政者は民をどういう原理で治めるかが問題で、それは徳ではなく法であり、さしあたってその法に従うのは(為政者ではなく)民です。
 もう一つの「法治主義B」は近代ヨーロッパ出自の考え方で、もちろん世の中は法をもって統治されるべきという根本理念は「法治主義A」と変わりませんが、対概念が「人治(主義)」であるように、為政者も(一般民と同様)法に服すべきという立場で、「法の支配」の名の通り、為政者を縛る近代の憲法理念にその特徴がよく表れていると思います。
 もちろん、「法治主義A」であっても、為政者が法律を自ら破れば民から不興を買うでしょう。違法者には厳罰を科すという法律をたよりに、厳しい刑罰をもって統治にあたっていた者が、自分がつくったその厳しい刑罰で最期を迎えれば、人々は因果応報というか自業自得というか、皮肉な結果だと受け止めるでしょう。法家の李斯が刑死したことなど、まさにそうかもしれません。だから、為政者は自らの裁量で法を制定できたとしても、自身が法を超越した存在になれるわけではない、そこが法の「力」と「権威」なのだと思います。

 上の「余録」の記事で言えば、(今「不敬罪」という法律はありませんけれど)皇族(とその候補?)に対する名誉棄損を法によって取り締まるべきだと(本気で)考えているのだとしたら、愛子さんに対していわれなき暴言を吐いた自民党の世襲議員、元外務大臣にして元文科大臣に対し、相応の対処があってしかるべきですが(対処の「処」は処分の「処」です)、平議員ならばともかく、総理大臣の息子だったりすると、そういうことが免除される「特権」持ち議員になれるかのようです。
 ということは、自民党議員らが、記事にあるように立法を「画策」している皇室に対する名誉棄損罪(不敬罪)が、今後かりに成立し、この「特権」持ち議員、その他が(凝りもせずにまた)暴言を吐いたとしても、お咎めなしで流されることも想像できないわけではありません(だって、懲りずに何度も何度も「暴言」を繰り返して反省もしないし、お咎めもないという高齢者が、引退することもなく、なおキングメーカー気取りで副総裁を務めている党ではないですか)。皇室に「不敬」なことを言ったりやったりしても、人によっては許される可能性があるとしたら、記事を書いた人が最後に添えているように、「何を目指したものだろう」と訝しく思うのも無理はありません。

 しかしながら、「法治主義A」のように、法を守るのは一般の民だ、為政者(議員)は法をつくる特権層であって、おのずから(お前らとは)立場が異なるのだと、この自民党議員らが、そのような認識であるとすれば、多少は辻褄が合う感じです。実際、この党の方々が何か違法行為をしでかしても、わりとへっちゃらなのは、この「認識」があるせいかもしれません。
 一昨日の文春報道ですが、小野田紀美・経済安全保障相が公選法に反し、選挙事務所を2か所使用していたという問題も、当人は使用した「事実はない」「誤って家賃を収支報告書に記載した(から訂正する)」と言い張っていますが、順法精神にもとるというか、そもそも、(周辺スタッフを含めて)そういう法律があることを知らなかったのではないか、という感じさえもちます。
【公選法違反の疑い】小野田紀美経済安保相が“ヤミ選挙事務所”を作っていた《現役市議が証言》 | 文春オンライン

 どうして知らないのか、というより、なぜ知らなくてもいいと思うのかは、「法治主義B」の意識が欠如しているからでしょう。しかも、「議員特権」でもあるかのごとく、自分たちは(一般人とちがって)違法行為が不問に付されると思っているのだとしたら、個々の法律を知らないといけないという気にさえならないでしょう。こういう人たち(立法者です!)がつくる法律がどういうものになっていくかは、先の通常国会のありさまを持ち出すまでもありません。専門家に言わせれば、皇室典範、国旗損壊処罰法、副首都法等々、法律の「体裁」が整えられているかどうかさえ疑わしいものです。

 今月中旬に予定されているという内閣改造人事の情報も、連日漏れ伝えられていますが、党幹事長留任、副総理留任、官房長官留任、財務大臣留任と来て、今朝は外務大臣も留任……だそうです(農水大臣も留任の噂あり)。これって、わざわざ「改造」する理由があるんでしょうか? ――総理大臣だけ留任でなかったら大サプライズですけど(笑)。高市内閣、何かさらに無茶苦茶になってきた感じです。

 

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「アジアはひとつ」の包摂と排除

 今月の19日から愛知県でアジア大会(第20回アジア競技大会 オリンピックのアジア版)が開催されます。W杯サッカーもそうでしたが、(参加資格国の中に)交戦中の国がある中で、この種のスポーツ・イベントをしれっとやることにはそもそも強い違和感を覚えます。大会が「IMAGINE ONE ASIA ここで、ひとつに」をスローガンに掲げていることを、今朝新聞を眺めていて(初めて)知りました。「一つのアジアを想像しよう」という日本大会の呼びかけは、どんな意味を帯びるのでしょう。
 「一緒に仲良くやろう」と呼びかけて、何か問題なのかと、一般の日本人はもちろん、主催する当事者もあまりピンときていない感じがしますが、まずは、こういうフレーズが交戦中のイランやレバノンや、……その他、「戦時下」にある人にどう響くのか。短時間想像をめぐらしても「時間の無駄」ではない感じです。

 百歩譲って、これは世の中に平和を求めるイベントで、最近の日本のアスリートやファンがよく口にするところの、「人々に勇気を与える」機会になるんだと、そう仮定することにしましょう。日ごろから事あるごとに「One Team」を口にし(同質集団であることを前提として)、心一つになることがいいことだと信じて疑わない人たちが、その延長上に「一つのアジア」を称するとき、そこにどんな包摂と排除の力が働くのか、この機会に少し我に返るというか、見つめなおすことの方にも意義があるように思います。

 今朝の毎日新聞の論点の記事からの引用ですが、スポーツ史研究者の金誠(キム・ソン)氏はこう言っています。
論点:「アジアは一つ」なのか | 毎日新聞

 「一つのアジア」はメッセージとして強い言葉だ。そこには前提として一つになるのはいいという考えがある。だが、アジア大会の歴史を振り返ると、日本が掲げる言葉として適切か疑問が残る。
 アジア大会の源流は1913年、米国統治下のフィリピン・マニラでの極東選手権にあるといわれる。開催国のフィリピンのほか、中国と日本が参加した。大会は34年の第10回まで続いたが、解体のきっかけは日本のかいらい国家である「満州国」の参加を巡る日中の対立だった。「アジアの盟主」然とした日本の覇権的な振る舞いが分断を引き起こした。
 戦後アジア大会は51年に始まり、第1回大会がインドのニューデリーで開かれた。フィリピンは当初、日本の参加について「戦争中日本が何をしたか、再び思い出さなければならない」と強く反対した。第2回大会は3年後、そのフィリピンのマニラであったが、当然ながら戦争で多大な被害を受けた人々の対日感情は悪かった。戦争の記憶は生々しく、大会報告書には「バカヤロー、カエレ」と罵声を浴びせられたことが記されている。当時、日本がアジアからどのように見られていたかその一端が垣間見られる。
 にもかかわらず、当時団長だった田畑政治はニューデリー大会を「国際的田舎大会」と酷評し、マニラ大会に参加する理由として「アジアのスポーツ界を日本の手により、しっかり一本にまとめ上げて、少なくも『アジアの青年は一つなり』という悲願を実現したい」とつづっている。田畑は64年東京オリンピック招致の立役者でもあるが、そのアジア認識は日本を中心とする戦前の「アジア主義」から抜け出ていないように映る。
 「アジア主義」には日本独特の二面性がある。欧米にはアジアの国として武士道をはじめとした日本独自の文化を強調する一方、アジアの国々には「盟主」としての顔をのぞかせて、自らの価値観を押し付ける。そこには戦前からのアジア蔑視が無意識に刷り込まれている。
 今回のスローガンは言語や文化、国境を超えて人々を結びつける「スポーツの力」を生かし、「一つのアジア」を想像することで絆を深め、未来に向けて進んでいけるようにとの願いを込めたという。水を差すつもりはないが、歴史的な文脈に照らせば、戦前からの「アジア主義」が潜んでいるようにも感じられる。
 在日コリアンという私のルーツも関係するが、「一つのアジア」を想像する時、そこには日本で暮らすマイノリティーは含まれているのだろうか。複数性を認めない言葉からは、差別的な言動や排外主義につながる恐怖がある。

 金さんが最後に付言した「差別的な言動や排外主義につながる恐怖」というのは、決して珍奇で特殊な感情ではないように思われます。金さんの記事の右隣には台湾出身の社会学者林怡蕿(リン・イーシェン)氏の記事もありますが、彼女もまたこう述べています。

……アジアとの交流をうたうならば海外の選手や観客ばかりでなく、「内なるアジア」に目を向けられないか。愛知県は製造業が盛んで、ベトナムやフィリピン、インドネシアなど東南アジアの人々が多く暮らす。大会を通して、多文化的な現実を照らし出せないものか。あるいは戦後、解決されないままの歴史問題でもいい。化粧で飾った「顔」ではなく、互いに「素顔」の見える関係を築けないか。
 この数年、日本国内で排外主義の高まりを感じる。中国系の人々の間には、子どもに外では中国語を使わないようにさせている親もいる。スローガンには「多様性」への思いなどが込められているということだが、このような雰囲気の中で「一つのアジア」を掲げることに日本で暮らすマイノリティーの一人として違和感を覚える。

 戦前・戦後の「アジア主義」にかかわる古い話を持ち出さずとも、愛知・名古屋と聞けば、5年前の2021年3月、名古屋入管に収容中のスリランカ人女性、ウィシュマ・サンダマリさんが適切な医療を受けさせてもらえずに亡くなった事件があったことを思い出す人は少なくないでしょう。中には、その過程で「発現」したこの国に脈打つ「アジア蔑視」と差別を思い起こし、不快な思いがよみがえった人がいるかもしれません。これは、この地で暮らす人ばかりでなく、日本全体にとっても不名誉なことです。「アジアはひとつ」というフレーズを思いついた人、これに「いいね!」で応えた人たちには、こういう痛ましい事件が頭をよぎることはなく、そもそも関心がないのかもしれません。それとも、これを「汚名挽回」の機会にでもしたいということなのか。
 
 スポーツ・イベントやお祭りの勢いで、政治の失態や不祥事、被災地の惨状などを一時的に忘れさせたり、塗り消したりというこれまでの「慣例」にしたがって、アジア大会も同じ役割を踏襲することになるのでしょうけれど、戦争や災害に見舞われ、支援が必要な人たちや、この国でマイノリティーとして生きている人たちの肩身の狭い思いや不安に、上からふたをし、化粧で飾った「顔」だけを見せて、こうした行事をつつがなく完遂させれば「成功」というか、「世の中は安泰」というあり方には、疑念や心のざわつきが拭えません。




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