ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

反中感情に思うこと

 X(Twitter)を眺めていると、差別に無頓着な投稿を目にすることがよくあります。最近で言えば、ネットで話題になり、小生も目にしたのは、奈良公園の鹿を足蹴にする人を「中国人」として非難するものですが、その後の情報では、どうもこれは「中国人」かどうかはわからないようです。
奈良公園の鹿〝虐待動画〟拡散の裏で「日本人説」が浮上 | 東スポWEB

もうひとつ、入り口に「中国人・韓国人」の入店を断る文言を掲げているお店の写真もありました。お店でどういう不快な行為をされたのかわかりませんが、「(不道徳な)行為」と民族性(属性)を直結させるのは、さすがに無理があるでしょう。立場を逆転させて、「日本人はこんな非道いことを平気でする人たちだ」と(外国人から)言われたら、同じ「日本人」で一括りにされるのは心外ですし、逆に褒められた場合でも、「日本人はみんな高い倫理感をもった道徳心あふれる民族だ」と(外国の人に)言われたら、わが国の「高徳」なる裏金議員のみなさんのことを思い出して、苦笑(羞恥)しないわけにはいきません。要するに、ちょっと考えれば、(善いことも悪いことも)民族とか国民とか、性別とか、ある属性で一括りにするのはおかしいと気づいてしかるべき話だと思うのです。
https://x.com/okubo_BAR/status/1809231525378248748
「韓国人・中国人おことわり」大久保・飲食店の“差別的”SNS投稿が物議 弁護士が指摘する明確な“違法性”とは?(弁護士JPニュース) - Yahoo!ニュース

 「外国人嫌い」の感情自体は、どこの国にでもあるという点では、おそらく珍しくはないのだろうと思います(海外でいろいろな経験をされた日本の方もいるでしょう)。しかし、この店(店主?)の場合は、単なる「外国人(一般)嫌い」ではなさそうです。想像ですが、おそらく米国人やフランス人の人が不愉快な行為を働いたとしても、すぐにはこうした感情はわいてこないのでしょうし、インド人やヴェトナム人などでも同様ではないかと思います。「中国人・韓国人」だけが「別格」で、お客の行為(悪行)と民族性がすぐに結びつく。他の外国人と比べて「頻度」が違い過ぎるということなのかも知れませんが、それも客観的にどうなのかはわかりません。なぜそう直結するのか、という問題がひとつあります。
 それから、リプで指摘している人もいましたが、入り口に日本語で「お断り」の文言を掲げられても、日本語を解さない中国人や韓国人には意味が解らない(ので入店してくる)かも知れないのです。ということは、これは「中国人や韓国人」に向けたメッセージではなく、おそらくは日本人に向けたメッセージであること、もっと言えば、「スッキリ♪」という文言を付けてXに投稿しているところから、「同胞ウケ」を意図していることが窺われます。「入店お断り」を伝えること=「彼ら」に店に来てほしくないことよりも、ヘイトの発露(だけ)が目的なのではないかと思われるのです。

 この国では、中国人・韓国人(朝鮮人)に対する差別は歴史的に培われてきた(注入・促成されてきた)経緯があります。細かくは略しますが、現在の日本の学校教育では、他の差別や偏見などと同様、いけないこと、なくすべきこととして子どもたちに教えることになっています(「差別一般」と一括りにされて曖昧になっている面もあります)。確かに、お店にも客を選ぶ権利があるでしょうけれど、入店を拒否できるのは具体的な行為をともなう(ないし十分にそれが予期できる)場合であって、属性だけでそれが判断できるはずもなく、それを理由に不特定多数の人の入店を断るというのは差別でしょう。そういうのはおかしいといくら学校で教えたとしても、実社会でこうして公然と覆され、周囲も行政もそれを放置したままでは、現実には差別があってもしょうがないと子どもに教えることになります。社会のあり方としてそれでよいのか。

 かく言う小生の周りでも、こうしたヘイト感情を露わにする例には事欠きません。たとえば、詳細は書きませんが、隣人に「〇〇人のやつらは勝手に日本に住み始めて、やりたい放題だ。この国に来たなら、この国のやり方に合わせるのが当然だ」と怒る人がいました。「でも、〇〇人で一括りにはできないと思いますけれども」と、小生は話のたびに留保を示してきたつもりです。その結果かどうかわかりませんが、最近は、同じ話の冒頭に「日本人の中にもひどいのがいるけれど……」という枕詞が付くようになりましたね(笑)。小生の話も単に上を通り過ぎていたわけではなかったのかも知れません(そう思いたいです)。

 最近読んだ『ハマータウンの野郎ども』に、文化と社会構造の関係に迫るためのスタンス(実践的心構え)として、こう書いてありました。

* 現象の表面的なことがら、しばしば個人の人格的な弱点をあげつらうことになるようなことがらに目を奪われることなく、多少なりともまとまりをもった文化的なものの位相をそれ自体として識別すること。
* それだけを個別に取り出せば厳しく断罪すべきであるような態度や行動にも、往往にしてその背後に別の可能性や意味が潜在していることを認識すること。……
                     (同書、ちくま学芸文庫、433頁)

 反中・反韓感情(や、もちろん「反日感情」)には、学究的にそういう視点が必要だと思いますし、そうした分析を疎かにしてはいけないと思います。ただ、その一方で、素朴な感情のレベルに迫るには、何か足りないものをも感じています。

 先月下旬、中国・蘇州で、日本人学校のスクールバスが刃物を持った男に襲われ、日本人親子が負傷し、男を止めようとした中国人の女性が死亡する事件がありました。背後に中国における「反日感情」を見る人もいますが、
日本人学校バス襲撃 死亡した中国人女性を「美談」として語ることの危うさ(ニューズウィーク日本版) - Yahoo!ニュース

亡くなった女性に「反日感情」があろうがなかろうが、日本人親子を守ろうとして「犠牲」になったこと自体は事実のようなので、もし中国人がすべからく不道徳で倫理観の低い人たちだったら、こうはならなかったでしょうし、さすがに日本の「中国人嫌い」の人であっても、亡くなった彼女に同じ感情を向けるわけにはいかないと思います。

 先の店主も「多様性とか寛容とか 色々言われている昨今ですが……」と前置きしています。「多様性」にヘイトを肯定することまでは含まれていないと思いますが、世間で言われる文言が気にならないことはないのでしょう。それよりも(自身が)「嫌な思い」をしない方が「優先」事項だということです。小生のように、親の都合で日本に渡ってきた中国人や朝鮮人の子どもを幾人も教えてきた立場からすると、有無を言わさず嫌悪感情を向けられる側の「嫌な思い」も想像してほしいところですが、ひょっとすると、「相手の立場に立つ」という物言いが説得力をもたなくなっているかも知れません。その点では、「人権侵害」とか「ヘイト」という「用語」も同様で、ある人々には「リアルな感覚(説得力や共感)」を失っている可能性があります。そんな場合、どんな言葉を紡ぎ出したらいいのか、記事を書きながら、考えてしまいます。


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トランプ狙撃事件と銃規制

 米国のトランプ氏が共和党大会で大統領候補に指名されました。3日前(7月13日)、演説中に狙撃されて負傷し、右耳にガーゼを当てた痛々しい姿で党大会の会場に現れ、拍手を浴びました。いつものごとく「吠える」ことなく、わりと静かにしているように見えたのは、(本人にも周囲にも)事件の記憶がまだ生々し過ぎたせいか、それとも陣営の「戦略」か。タレントの東国原英夫氏がSNSで、当初この銃撃事件を「やらせ」と投稿して批判を浴びたようですが、小生もかなり「不自然」な感じをもちました。BBCの取材では、演説会場近くの住民の話として、ライフルを持って建物の屋根に上がっていく不審な人物を見たと警察に知らせたのに、警察は全然取り合わなかったという話が伝えられていましたし、事件後に負傷したトランプ氏がシークレットサービスに抱きかかえられながら演壇を下りる際、拳を上げる姿が撮られた写真のバックに星条旗が翻るという構図が、あまりにも出来すぎの感じがして、これは「合成写真」ではないだろうかと思ったからです。
東国原英夫氏、トランプ氏銃撃めぐる不適切投稿を謝罪「軽々な判断・発言でした」 - 芸能 : 日刊スポーツ
「ライフル持った男が屋根に」 トランプ氏銃撃、聴衆がBBCに証言 | 毎日新聞
トランプ氏「星条旗と拳」写真 「英雄待望の米国人つかむ」「まるで宗教画」 欧州も震撼 - 産経ニュース
トランプ前米大統領の暗殺未遂、容疑者はどういう人物か - BBCニュース

 トランプ氏を銃撃した容疑者はシークレットサービスによってその場で射殺されたようです。共和党員の20歳の若者がどうしてそうした行為に及んだのか。これはこれで問題ですが、この日本でも、2年前に安倍元首相が襲撃された事件があり、容疑者はその場で取り押さえられました。こうした事例でお国柄を持ち出して比較するのは、状況も違いますし、短絡的との誹りはまぬがれませんが、しかし、容疑者がその場で射殺されてしまうところや米国の人々の反応などに、トータルとして何となく(日本とは異質の)アメリカの「暴力性」を感じないではいられません。

 月刊誌『地平』を読んでいたら、ジャーナリストでドキュメンタリー映画監督の大矢英代さんの「立ち上がるアメリカの学生たち」という記事の冒頭にこんな文章があります。

 「他人(ちゆ)んかいくるさってー寝(に)んだりーしが、他人(ちゆ)くるちぇー寝(に)んだらん」
 他人に叩かれても眠れるが、他人を叩くと眠れない。沖縄のことわざだ。自分が誰かに殴られたり、傷つけられたりしたとしても、その晩は眠ることができる。でも、自分が誰かを傷つけてしまったら、こころが痛くて、苦しくて、その夜は眠ることができない。他人を傷つけるということは、つまり、自分自身の良心を傷つけることでもある。だから暴力をふるってはならない、という教えである。
 私がこの言葉を初めて知ったのは、2012年、沖縄のテレビ局で報道記者になったばかりの頃だった。6月、沖縄の「慰霊の日」が近づく頃、地獄の沖縄戦を生き抜いたお年寄りたちは、戦争体験を語る中で、この言葉の大切さを私に教えてくれた。
 「だから、米軍基地は沖縄にも、本土にも、いらないさ。あれは戦争のための、人殺しのための基地なのに」「いくさで、あんなに苦難したうちなーんちゅ(沖縄の人)が、なんで人殺しのための基地を許すか?」と。沖縄の反戦平和運動の原点には、絶対的な平和への信念があった。
 取材を通じて受け取った戦争体験者たちの言葉のひとつひとつが、やがて私の血肉となっていった。これまで戦争と国家の暴力をテーマにした報道を続けてきたのも、現在、米国・カリフォルニア州立大学で教員となり、アメリカでジャーナリスト育成に携わるようになったのも、原点には、沖縄の教えがある。戦争で最も傷つくのは、一般市民である。もし戦争を支えるような報道に加担してしまったら、私だってこころが痛くて、夜は寝られないだろう。
 「実は、アメリカでもね、人を殴った夜は眠れないんです。でも、沖縄の人たちとはまったく別の理由からです。何だと思いますか?」
 先日、大学時代の恩師……とお会いした時、そう問いかけられた。様々な答が私の脳裏をよぎった。自分も怪我をして痛いからだろうか。巨額の賠償訴訟が怖くて不安だからだろうか。
 ……先生は言葉を続けた。「相手の仕返しに備えて、起きていなくてはいけないというのです。これは怖いことで、そんなふうに考えるなら、安眠のためには、結局、相手を殺してしまうしかありません」。
 米国に移住して6年が経つが、暴力をめぐる価値観に触れるほどに、大きなカルチャーショックを覚えてきた。暴力を止めるためには、より大きな暴力を行使するという暴力肯定論は、米国のカルチャーの隅々に染み渡っているように思う。安心のために、相手を撲滅する。それはテロとの戦いを掲げて乗り込んだイラクアフガニスタンでの米軍の殺戮破壊行為、そして今、この瞬間もイスラエルパレスチナ・ガザで行っているジェノサイドと共通する。……
                  (『地平』2024年8月号、104-105頁)

 「安眠のためには、結局、相手を殺してしまうしかない」――ちょっと「衝撃」的な文言です。やられたらやりかえすどころか、復讐を見越してさらにやる、攻撃と反撃の連鎖というのか、相手の息の根を止めることが「最終的解決」というのですから。これでは「(相手を)殺せない」ような人間はダメ人間だいうことになりかねません。怖ろしいことです。一定の法の下に人々の安全が守られる社会を当たり前とすると、何と野蛮で殺伐とした世界でしょうか。そんな蛮力で安眠を確保するんだったら、そもそも「殺しの道具」がなければいい、武器を根絶すればいいはずだと、どうしてそういう発想ができないのか、なぜそうした方向に話が進まないのか。これは不思議というより、脅威です。

 大矢さんの記事の論旨は、アメリカよりもイスラエルの暴力とどう向きあうかにあるのですが、やはり同じことです。他人を傷つけることは自分の良心を傷つけることでもあるのだとしたら、「彼ら(彼女らなど)」の良心は一体全体どうなっているのか。少なくとも「戦争嫌い」の多いわが国の人と同じ「良心」が「彼ら」にはないのだと極論でもしなければ理解できないのです。でも、本当にそうなのでしょうか。
 大矢さんが書いているように、ガザの人たちのために米国の学生は立ち上がりました。4月にコロンビア大学で始まったデモで、学生たちは大学に対して、イスラエルと関係する企業や戦争で利益を上げている企業と関わりを持つなと叫びました。大学側が警察を導入してこれを鎮圧すると、反戦の声は全米へと拡大しました。銃規制に賛同する声にも同じ良心が働いていないことはありません。もちろん、これまでも長きにわたって不幸な銃撃事件が繰り返され、何度も法規制が試みられながら、その度ごとに「骨抜き」にされてきましたが。

 事件直後、拳を振り上げたトランプ氏にはUSAコールが鳴り止みませんでした。全米ライフル協会から支持を受けるトランプ氏は、もし今秋の選挙に勝利し、大統領職に返り咲いたら、バイデン政権が導入した「銃規制」をすべて撤廃するとの意向です。銃撃されて危うく命を落としそうになった人間が、それゆえに?銃が必要だと訴えるのですから、これは人によっては妙に「説得的」に響くかも知れません(小生にとってはたちの悪いブラックジョークですが)。しかし、USAコールは、負傷しても俺は負けないと拳を突き上げる人間に対してではなく、それでも銃規制・銃廃絶をあきらめずに闘っている米国の市井の人々にこそ向けられるべきと思っています。そういう日が来るでしょうか。


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「腐り日本」と書かれて

 先月発刊した雑誌『地平』の今月号(8月号)を入手しました。先月の創刊号は執筆陣からしてボリュームがありましたから、それと単純に比較するわけにはいきませんが、今号も(私的には)「名のある人」の論考が目に付く感じがします。そんな中で、沖縄の作家・目取真(めどるま)俊さんの小論がありました。「腐り日本の多数意思に抗う」――タイトルを見ただけでうっときます。しかし、小生としては、目取真さんが「腐った」と書かなかったところに真意というか、ほんの一縷でも希望を見出したい気持ちはあります。少し引用させてください。

 2014年7月、辺野古沿岸部にV字型滑走路を持つ新基地の建設工事が始まった。市民は工事用の重機や資材が搬入されるキャンプ・シュワブゲート前に集まり、阻止行動を開始した。最初は十数人でゲート前を往復してデモ行進し、私服刑事のほかには民間警備員が数人いる程度だった。
 資材搬入が本格化するにつれて、現場に駆けつける市民も増えた。阻止行動によって工事車両が立ち往生するようになり、市民を強制排除するため沖縄県警・機動隊が動員される。道路上に座り込んだり、工事車両の前に立ちはだかる市民を機動隊が暴力的に排除する。連日ゲート前では激しい行動が繰り返された。
 一方で沖縄防衛局は、市民が座り込めないように山形鋼を溶接した鉄板(殺人鉄板と呼ばれた)をゲート前に敷き、さらに阻止行動の範囲を狭めるため、車道に近づけて仮設のゲートを設置した。それらの措置に市民の怒りは拡大し、ゲート前の行動は激しさを増していく。
 沖縄の強い日差しのもと、連日の阻止行動は過酷をきわめた。市民はゲート脇の歩道にテントを設置して日陰を作り、集会を開きながら工事車両が来ればすぐに対応できるようにした。さらに、夜間の資材搬入を警戒してテントに泊まり込むようになり、24時間の阻止体制がとられた。……<中略>……
 こうやって始まった辺野古新基地建設は、この7月で10年の節目を迎えた。この間、辺野古の海・大浦湾でカヌーを漕ぎ、海上で阻止・抗議行動を行いつつ、キャンプ・シュワブゲート前や埋め立て用土砂をガット船(運搬船)に積み込む名護市安和の琉球セメント桟橋出入り口、本部港塩川地区での行動にもできるだけ参加してきた。
 同時に、工事や市民の動きをカメラで撮影・記録することも位置づけ、ブログで発信してきた。辺野古側海域の埋め立て工事の様子も高台から定点観測し、護岸に囲まれた海が消えていく過程を撮影してきた。
 辺野古の新基地建設工事が今、どのように進められていて、各現場で何が起こっているか。そのことを自分の目で確かめ、自ら行動するだけでなく、記録し、伝えることの重要さを考えた。昼間の行動で疲れた体に鞭打って、夜は写真を整理しブログを書く。寝るのが午前1時、2時になるのはざらだった。
 現場に通うということは、辺野古の海やキャンプ・シュワブ内の森が破壊されるのを見続けることでもあった。ゲート前の座り込みでは、機動隊に排除されたあと、資材を載せた工事車両が基地内に入っていくのを見送って終わる。工事が行われる現場の様子を目にすることはない。
 しかし、カヌーに乗って海に出れば、目の前に捨て石が投下され、護岸建設によって海が破壊されていく様子を見ないといけない。ゲートから入ってきたダンプトラックが荷台を傾け、モッコに捨て石を下ろし、大型クレーンがそれを吊り下げる。ゆっくりと旋回し海に石が投下されるとき、大きな音が響くとともに粉塵や飛沫が舞い上がる。カヌーに乗ってその音を聞き、護岸が伸びていくのを目にするのは、精神的にきついものだ。
 すでに埋め立てられた辺野古側の海域は、かつて何百回とカヌーで行き来した場所だ。そこにはジュゴンやアオウミガメが食べる海草が茂り、魚介類の産卵と生息の場所となる藻場が広がっていた。その上をカヌーで漕ぎながら、海に生きる生物やアジサシなどの鳥類を観察するのが楽しみだった。キャンプ・シュワブ沿岸の砂浜には、夏になるとウミガメが産卵に訪れた。
 その場所はもうこの世界から抹殺され、記憶と記録の中にしか残っていない。海草・藻場をはじめそこで生きていた生物は土砂で生き埋めにされ、護岸の外側には消波ブロックが連なっている。青く澄んだ海に伸びる醜悪な壁。この10年間、工事を止めようと海上やゲート前で膨大な時間を費やしたが、辺野古側の海域は埋め立てが終わりつつある。ここまで海の破壊を許してしまったことに怒りと痛苦な思いがこみ上げてくる。……<中略>……
 ……辺野古での行動は費やす時間や金銭、肉体・精神両面での負担の大きさが違う。それを10年続けるために、どれだけ多くの市民が献身的な努力を続けてきたか。いや、名護市民・沖縄県民は1997年の市民投票から27年も、この問題で行動を続けてきたのだ。
 この間、沖縄の反戦・反基地運動を担ってきた人が亡くなり、あるいは体力が衰えて現場に来られなくなった。私が学生時代、1970年代後半から80年代前半にかけて、反戦・反基地の集会に労組の青年部で参加していた皆さんが、70代、80代になって、辺野古のゲート前の座り込みに参加しているのを目にしてきた。ああ、ずっと志を貫いているのだ、と思ってきたが、その姿がしだいに見られなくなるのは寂しいものだ。
 私もそれだけ歳を取ったのだが、沖縄ではなく米軍や自衛隊の基地がない地域に生まれていたら、こういう問題に振り回されずに、自分がやりたいことに集中できただろうに、と思うことがある。それは私だけでなく、沖縄で生まれ、両親や祖父母から沖縄戦のことを聞いて育ち、米軍基地がもたらす犠牲に黙っていられず、若い頃から反戦・反基地運動を行ってきた沖縄人の多くが考えることではないか。
 国体護持と本土決戦準備のために沖縄戦を長びかせ、住民の犠牲を拡大させただけでなく、敗戦後はサンフランシスコ講和条約で沖縄を切り捨て、27年にわたり米軍支配下に置いたうえで、施政権返還後も日米安保条約の基地負担を沖縄に押しつける。東京や大阪など大都市に住んでいる圧倒的多数の日本人は、そういう自分たちの沖縄に対する仕打ちに疑問すら抱かず、米軍基地の問題に悩まされることもなく日々暮らしているだろう。
 北朝鮮や中国の脅威を口にしたところで、自分たちの住んでいる地域が戦場となり、ミサイルの標的となることを想像し、危機感を抱いている日本人がどれだけいるか。「台湾有事は日本有事」と煽られても、戦場となるのは沖縄で、自分たちの所までは波及しないと考えている日本人が大多数だろう。
 その上で、中国と対抗するために沖縄は米軍だけでなく、自衛隊の強化を進めるべきだ、という世論が形成されていく。日本「本土」を守る盾として沖縄を利用し、いざとなれば「捨て石」として切り捨てる。日本人の暗黙の多数意思は79年前と変わらない。……

                    (『地平』2024年8月号 14-19頁)

 沖縄に限らず、マスメディアによる報道は多分に操作されていると思いますが、普通の人にとっては、報道されない事実は起きていないことと同じです。だから、「本土」の多くの日本人は「知らないだけ」だと言い訳することは可能でしょう。しかし、じゃあいつまで「知らなかった」で通すつもりなのかと。そして、一番肝心なのは、知ったら「腐り」ではなくなるのかということです。
 「……沖縄ではなく米軍や自衛隊の基地がない地域に生まれていたら、こういう問題に振り回されずに、自分がやりたいことに集中できただろうに、と思うことがある。」という目取真さんの一言が胸に堪える感じがします。



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