ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

政倫審を見て 訂正

※まちがいがあったので訂正しました
 むかし数学の集合のところか何かで「命題」の真偽とか、「十分条件」・「必要条件」というのを習いましたが、今考えると、別に数学でなくともよかった気がします。数学が苦手な(といより単にこういう形式論理が苦手な)小生などには、いつも数学の延長のような感じが残ってしまって、頭が混乱してしまうのですが、AならばBが成り立つとき、AはBであるための十分条件、BはAであるための必要条件……という話のようですから、例を考えれば、「千葉県に住んでいる人は日本に住んでいる」という文(命題)が嘘でなく成り立つとすれば、千葉県に住んでいることは日本に住んでいることの「必要十分条件」ではありますが、日本に住んでいたとしても、千葉県に住んでいるかどうかはわかりませんから、逆は成り立ちません。千葉県< 日本はあり得ても、千葉県 > 日本はあり得ないわけです。※すみません、逆になってました。前後も含めて訂正しました。
 でも、それがわかって何の役に立つのか、よくわからないまま数学の世界とはサヨウナラになってしまいました。しかし、最近思うに、政治の世界では、こういう数学というか論理学の話がねじ曲げられることが多い気がしています。「十分条件」が「必要条件」のように(故意に)変換されたり、逆にすると成り立たないこと(命題)を通そうとしたり。先の例で言えば、「日本に住んでいれば千葉県に住んでいるのと同じだ」というのですから、それは無茶というものです。
 
 昨日も政倫審がありましたが、裏金議員衆の各自が疑惑を晴らす弁明の場であるのに、「何も知らない」「自分はかかわっていない」と(結論を)いうだけで、たとえばキックバックの再開が決まったとかいう安倍派幹部の会合について、具体的な説明をほとんどしないのですから、余計に怪しさが増すばかりです。世耕氏などは、先週の政倫審で、自分は検察に呼ばれていろいろと聞かれたが結局立件はされなかった、「不起訴、嫌疑なしだから真っ白」だなどと発言していて、驚きました。“証拠不十分で不起訴” という話が、氏に言わせると「真っ白」になってしまうのです。
 上の話で言えば、「真っ白な人ならば不起訴である」は成立するかもしれませんが、「不起訴の人ならば真っ白である」は成立しないでしょう。警察や検察も忙しいので、世の「犯罪行為」をすべて立件する余裕がないことくらいは誰でも理解できます。たとえば、制限速度40㌔の道路を50㌔以上で走っている車の運転手をみんな捕まえようとしたら、警察官の数を10倍に増やしても全然足らないでしょう(そもそも普通の幹線道路を50㌔くらいで走っている車を「違反」だ「犯罪」だと言って取り締まることに治安上大きな意義があるとも思えませんし)。小生も以前に盗難にあって警察に相談に行ったことがありましたが、(被害額が少な過ぎて?)被害届を出すまでには至りませんでした。要は、世の中に検察から立件されない「違反行為」はいくらでもあるわけで、立件されていないからと言って「真っ白」という強弁は通らないでしょうということです。
 自民党の裏金議員たちの多くは今回ほとんど立件されていません。個々の裏金の額に差はあるものの、決して小さな額ではありませんし、立件しないこと自体も問題ですが、それを「根拠」に、世耕氏と同様みんな「真っ白」だと言ってよいのか、議員たちもみんなそう思っているのか、ということです。
 「悪いことをしても捕まらなければいい」式の処世術は安倍政権から始まった自民党議員の悪しき「風習」です。それだけにとどまりません。実は裏で、捕まえる側(検察)の人事にまで手を回して、自分たちは「絶対に捕まらない」よう画策をしていたのですから、世耕氏の強弁など、何ともはやの話でしょう。自民党を「犯罪者集団」のように言うのは言い過ぎでしょうけれど、自浄できなければ、そうみなされてもしかたがありません。それくらい今の自民党(中枢)は悪事にはまって抜け出せない感じがします。
 こんな醜悪な状況を毎日見せられても、世論調査をすると20%くらいの人は自民党を支持すると答えるわけですから、これは「岩盤層」というか、もう信仰のレベルでしょう。選挙が近づくと、また、体制選択の選挙だ、とか、自民党が潰れたら日本も潰れるとか(「私がいなければ日本は立ちゆかない」と言ってた幹事長もいましたが)、そんなようなことを言っとけば有権者はビビって?自民党に投票すると思っているのでしょうか。20%の方々には自民党と「心中」することよりも、国の未来と子どもたちのことを考えてほしいです。



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トニー・ブレアの回顧録より

 X(Twitter)を眺めていたら「過激ダンスショー」というTrendが立っていて、何のことかと思って見てみると、自民党青年局の醜態を咎める記事録でした。これは産経新聞の記事に端を発しているようですが、確か3月8日の今日は「国際女性デー」のはずです。「出来事」自体は去年の11月の話のようですが、このような日にこうした記事をぶつけてくるのが産経だと知って、何とも言えぬ気分になりました。
<独自>自民党青年局近畿ブロック会議後の会合で過激ダンスショー 口移しでチップ渡す姿も 費用は党が支出 - 産経ニュース

 記事に会を企画運営した県議の「釈明」がありますが、このダンスショーのどこが「多様性」なのか意味不明な上に、そもそもLBGTの権利はおろか夫婦別姓も容認できない党の人間に「多様性」などと言われると、笑止千万、かたはらいたし、です。個々の議員の意見までは知りませんが、党全体としては自民党にとって「多様性」という語は、他人や他団体の考えや価値観を尊重するのではなく、自分たちの言い分を尊重しろ、批判するなという意味の方便でしかありません。裏金問題といい、このような下劣なことができてしまうのは、恥じる気持ちがないというよりも、精神の深い部分がシニシズムに蔽われているからでしょう。石原伸晃が言ってましたよね。(世の中)いくらきれい事を言ってても、「最後は金めでしょ」と。要は、自分の利得や出世に興味はあっても、社会とその未来に希望をもっていないから、こういうことができるのだと思います。自己顕示欲はあっても、真の自信(プライド)はないのではないか――でも、そんな議員は、こちらにとっては願い下げです。

 2007年までイギリスの首相だったトニー・ブレア回顧録を読んでたら、こんなことが書いてあります。

……私は人生のいろいろな局面で多くのことを学んだ。政策や意思決定の類いの話をしているのではない。……言いたいのは、人間としてどう人生に取り組むか、ということである。私の息子のリオ(執筆当時11歳)ほどの年齢の生徒たちに話をするチャンスと栄誉を与えられたときに、彼らにぜひ理解してほしいと思っていることがある。自分のような人間――首相を10年務めた――は、出来合いでもなければ運命づけられてそうなったわけでもないということだ。信じられないかもしれないが、私もかつては彼らと同じような子供だったと説明する。成功とともに、実現しなかった夢、挫折した希望、失望に終わった期待などが皆と同じように入り交じっていたということだ。私は成功した人を見てこう考えたものだった。自分にはあの人のようになれる確信はない、と。自信を失うこと、失敗すること、二番目になること、人を失望させ、自分を失望させることがどんなことか知っている。成功は、生まれつきの才能、勤勉、判断、そしてそう、途中で多少の幸運に恵まれることの混合である。すべての人がトップにまでのぼれるわけではない。のぼりつめた人ですら、そこでつねに満足を見出すわけではない。
 とはいえ、一つ学んだことがある。消極的な心の持ち主には何一つやってこないということだ。……毎日を自分の祝福を数えることによって始めてほしい。悲惨なこと、憂鬱なこと、悲劇的なことを考えたり経験したりする時間はたくさんあるだろう。どんな人生にも、そうした感情は存分にある。しかし、人生は贈り物だということを理解しなければならない。人生にこのような心構えで取り組めば、どれほど暗い日々に見えようとも、一条の光をつねに見つけることができる。そしてその日に向かって動くことだ。
……われわれに必要なのは、自信を回復すること、困難な問題に直面しても、それを克服する能力と勤勉さが備わっているという自己への信頼を取り戻すこと、それに尽きるのである。
                    (『ブレア回顧録』上、42-43頁)

 何度でも書きますが、自民党のみなさん、子どもたちが見てることを忘れないように。
 

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盛山文科大臣をめぐる記事

 昨日の毎日新聞の「日曜くらぶ」に掲載されている2つのコラムに偶然同じ政治家のことが取り上げられていました。編集者的には、重複するのは好ましくないという思いがあるかもしれませんが、事が事だけに敢えて掲載したというところでしょうか。
 まず、俳優・松尾貴史さんの記事「ちょっと違和感」。3回に2回くらいは政治がらみの松尾さんの「違和感」が綴られますし、毎週楽しみにしながら読んでいるので、小生としては特に「違和感」はありませんが、もう一人の、心療内科医の海原純子さんの記事「新・心のサプリ」の方は、政治家の名前が出て来ることはあまりないので、これはある意味「深刻」な事態と受け止めています。問題は、その「深刻」さを当事者達がまともに受け止める気がないということです。

松尾貴史のちょっと違和感:文科相の重責 「過去はともかく」では済むまい | 毎日新聞
新・心のサプリ:情けない発言=海原純子 | 毎日新聞

 松尾さんの記事から一部引用すると、
……宗教法人の解散命令請求を申し立てた文科省のトップが、問題になっている宗教団体と密接につながっているという異常さを、与党の議員は屁(へ)とも思っていないのだろうか。
 盛山文科相は、旧統一教会の関連団体との事実上の「政策協定」に当たる「推薦確認書」に署名したかどうかについて国会で追及されると「記憶にない」を10回以上も連発するなどして逃げている。しかし、証拠(自身の署名入り)の「推薦確認書」の写真を見せられると「うすうす思い出してきた」などと答弁をしたり、あるいは「内容をよく読まずサインしたかも」などととぼけたり。その翌日には「記憶にない」との答弁に戻ったりと、頭の中が混濁しているようだ。こんなに記憶力がなく、書類の内容をよく見ずにサインをしてしまうような人物が、大臣でいていいわけがない。
 岸田首相による「過去の関係はともかく、現時点では当該団体と一切関係がない」などというかばい方は、あまりにも稚拙かつ乱暴だろう。暴力団との密接なつながりがあっても「もう付き合わないから」と言って公的な重責を担う人がいたら、問題なしとはならないだろう。ましてや、現在大問題の焦点になっている宗教団体が相手なのである。政治家は「過去の関係はともかく」で済まされる仕事ではない。
 そして今度は、旧統一教会と盛山文科相がまだつながっていることが早々と明らかになってしまった。教団系の機関誌「世界思想」が毎月、神戸市にある盛山氏の地元事務所に「無料で」届けられていることが分かった。旧統一教会の関連団体から衆院選で推薦状を受け取っていたとされる問題を巡り「旧統一教会との関係は既に断ち切っている」と否定していたのは真っ赤な大うそではないか。機関誌の受け取りは「記憶にない」では言い逃れられない。
 しかしそれでも、与党と維新は盛山文科相不信任決議案を否決した。……

 他方、海原さんは、こう書いています。
 1986年に施行された男女雇用機会均等法の成立など日本女性の地位向上に力を尽くし「均等法の母」と呼ばれた赤松良子元文相が2月はじめに亡くなった。
 その日の新聞には現在の文部科学相盛山正仁氏が2021年の衆院選で旧統一教会側と事実上の「政策協定」に当たる推薦確認書に署名したとされる問題が掲載されていた。報道によると、「サインしたかもしれない」と述べたという。ただこの発言は、その後「記憶が全くない」と修正されている。
 なんだか情けない感じがしたのは私だけではないと思う。たくさんの人と会っていると記憶にないことはあるだろう。記憶力がどんなに良くてもすべての人を覚えていることなどありえない。ただ仕事上の大事な契約相手となると話は別だ。
 政策協定は政治家にとり最も大事な自分の基盤だと思う。自分の考え方、自分の生き方の基盤になるものだ。そんな大事なことを覚えていないというのはどういうことだろう。
 人間の記憶には限界がある。本当に覚えていないなら考えられる理由はいくつかあるがひとつは、政策協定より大事なことに意識が集中して政策など二の次になっていた場合だ。政策より大事なことというのは何だったか、というと選挙の支援をしてもらうことだろうか。理由はどうあれ大事な政策に関する内容を忘れる人が大臣なのか、と思うと情けない気持ちになってきた。
 同じ日の紙面で赤松元文相の訃報を知り、当時、政治に対して私たちは、希望と期待をもっていたなあと思い出していただけに、このままでいいのだろうかと思った。……

 盛山文科相不信任決議案が否決されたので、「負け惜しみ」というか「腹いせ」ついで言うと、政治的な「損得?」を考えれば、このまま盛山大臣に大臣を続けてもらっても、野党側にとって「損」にはならないかもしれません。万一、盛山大臣や文科省がウラで統一教会に有利に働くようなことをしでかせば、「それ、見たことか!」と批判できますし、統一教会側からは今後も盛山大臣、岸田首相、その他関係議員の過去の醜聞を暴露する情報リークが続くでしょう。ダメージは今後も引きずられていきます。
 盛山大臣を「続投」させるのは、野球でストライクが入らないノーコンのピッチャーを替えず、四球・押し出しが連続していくようなものです。勝負に関しては相手チームは全然困りません。ただし、それでは選手はやる気が失せますし、観客もそんな試合は見たくもないでしょう。監督がピッチャーを替えない限り、まともな野球の試合にはなりえません。それでも観客の関心を散らしながら(ゲームからそらして)、ピッチャーを替えない監督というのが今の岸田首相なのでしょう。

 松尾さんは、「子どもたちの教育について最も責任ある立場に、こんな人物を就かせ続ける岸田首相も無能と言わざるを得ない」とキツい一言で結んでいます。「無能」というのが、言いすぎでもないと感じたのは、先日の衆院予算委で、答弁に立った鈴木財務大臣が、政治資金収支報告書に記載されず、政治活動に使わなかった収入について、納税するかどうかは、「疑義を持たれた政治家が……判断されるべき」と述べたというニュースを見たからです。まったく常識を疑う発言です。これも任命したのは岸田首相です。
鈴木財務相 政治資金問題 “納税行うかは議員が判断すべき” | NHK | 政治資金
鈴木財務相「納税行うかは議員が判断すべき」発言に怒り爆発の人続出。「国民も納税は自己判断でいいってこと?」 | ハフポスト NEWS

 むかし、1989年の東欧革命後、ポーランドで行われた総選挙の集計の(たぶん)途中経過の模様を映す衛星中継を見ていた時、いわゆる「与党」候補の当選がゼロで驚いた記憶があります。この国で、そんなことは起こらないのかも知れませんが、そういうことにでもならないと、自民党はこの腐敗・堕落を自ら正せないのだろうかと思ったりします。

 海原さんの結びの言葉も引用させてください。
 改革と前進することができたのは政治家の決断と変えようとした一般人の声があったからだと思う。
 いま報道で見聞きしている答弁は政治に対する希望を失わせる内容ばかり。こんな時代、自分なりにできることは、「それはダメです」と声をあげることかと思う。



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