先月発刊した雑誌『地平』の今月号(8月号)を入手しました。先月の創刊号は執筆陣からしてボリュームがありましたから、それと単純に比較するわけにはいきませんが、今号も(私的には)「名のある人」の論考が目に付く感じがします。そんな中で、沖縄の作家・目取真(めどるま)俊さんの小論がありました。「腐り日本の多数意思に抗う」――タイトルを見ただけでうっときます。しかし、小生としては、目取真さんが「腐った」と書かなかったところに真意というか、ほんの一縷でも希望を見出したい気持ちはあります。少し引用させてください。
2014年7月、辺野古沿岸部にV字型滑走路を持つ新基地の建設工事が始まった。市民は工事用の重機や資材が搬入されるキャンプ・シュワブゲート前に集まり、阻止行動を開始した。最初は十数人でゲート前を往復してデモ行進し、私服刑事のほかには民間警備員が数人いる程度だった。
資材搬入が本格化するにつれて、現場に駆けつける市民も増えた。阻止行動によって工事車両が立ち往生するようになり、市民を強制排除するため沖縄県警・機動隊が動員される。道路上に座り込んだり、工事車両の前に立ちはだかる市民を機動隊が暴力的に排除する。連日ゲート前では激しい行動が繰り返された。
一方で沖縄防衛局は、市民が座り込めないように山形鋼を溶接した鉄板(殺人鉄板と呼ばれた)をゲート前に敷き、さらに阻止行動の範囲を狭めるため、車道に近づけて仮設のゲートを設置した。それらの措置に市民の怒りは拡大し、ゲート前の行動は激しさを増していく。
沖縄の強い日差しのもと、連日の阻止行動は過酷をきわめた。市民はゲート脇の歩道にテントを設置して日陰を作り、集会を開きながら工事車両が来ればすぐに対応できるようにした。さらに、夜間の資材搬入を警戒してテントに泊まり込むようになり、24時間の阻止体制がとられた。……<中略>……
こうやって始まった辺野古新基地建設は、この7月で10年の節目を迎えた。この間、辺野古の海・大浦湾でカヌーを漕ぎ、海上で阻止・抗議行動を行いつつ、キャンプ・シュワブゲート前や埋め立て用土砂をガット船(運搬船)に積み込む名護市安和の琉球セメント桟橋出入り口、本部港塩川地区での行動にもできるだけ参加してきた。
同時に、工事や市民の動きをカメラで撮影・記録することも位置づけ、ブログで発信してきた。辺野古側海域の埋め立て工事の様子も高台から定点観測し、護岸に囲まれた海が消えていく過程を撮影してきた。
辺野古の新基地建設工事が今、どのように進められていて、各現場で何が起こっているか。そのことを自分の目で確かめ、自ら行動するだけでなく、記録し、伝えることの重要さを考えた。昼間の行動で疲れた体に鞭打って、夜は写真を整理しブログを書く。寝るのが午前1時、2時になるのはざらだった。
現場に通うということは、辺野古の海やキャンプ・シュワブ内の森が破壊されるのを見続けることでもあった。ゲート前の座り込みでは、機動隊に排除されたあと、資材を載せた工事車両が基地内に入っていくのを見送って終わる。工事が行われる現場の様子を目にすることはない。
しかし、カヌーに乗って海に出れば、目の前に捨て石が投下され、護岸建設によって海が破壊されていく様子を見ないといけない。ゲートから入ってきたダンプトラックが荷台を傾け、モッコに捨て石を下ろし、大型クレーンがそれを吊り下げる。ゆっくりと旋回し海に石が投下されるとき、大きな音が響くとともに粉塵や飛沫が舞い上がる。カヌーに乗ってその音を聞き、護岸が伸びていくのを目にするのは、精神的にきついものだ。
すでに埋め立てられた辺野古側の海域は、かつて何百回とカヌーで行き来した場所だ。そこにはジュゴンやアオウミガメが食べる海草が茂り、魚介類の産卵と生息の場所となる藻場が広がっていた。その上をカヌーで漕ぎながら、海に生きる生物やアジサシなどの鳥類を観察するのが楽しみだった。キャンプ・シュワブ沿岸の砂浜には、夏になるとウミガメが産卵に訪れた。
その場所はもうこの世界から抹殺され、記憶と記録の中にしか残っていない。海草・藻場をはじめそこで生きていた生物は土砂で生き埋めにされ、護岸の外側には消波ブロックが連なっている。青く澄んだ海に伸びる醜悪な壁。この10年間、工事を止めようと海上やゲート前で膨大な時間を費やしたが、辺野古側の海域は埋め立てが終わりつつある。ここまで海の破壊を許してしまったことに怒りと痛苦な思いがこみ上げてくる。……<中略>……
……辺野古での行動は費やす時間や金銭、肉体・精神両面での負担の大きさが違う。それを10年続けるために、どれだけ多くの市民が献身的な努力を続けてきたか。いや、名護市民・沖縄県民は1997年の市民投票から27年も、この問題で行動を続けてきたのだ。
この間、沖縄の反戦・反基地運動を担ってきた人が亡くなり、あるいは体力が衰えて現場に来られなくなった。私が学生時代、1970年代後半から80年代前半にかけて、反戦・反基地の集会に労組の青年部で参加していた皆さんが、70代、80代になって、辺野古のゲート前の座り込みに参加しているのを目にしてきた。ああ、ずっと志を貫いているのだ、と思ってきたが、その姿がしだいに見られなくなるのは寂しいものだ。
私もそれだけ歳を取ったのだが、沖縄ではなく米軍や自衛隊の基地がない地域に生まれていたら、こういう問題に振り回されずに、自分がやりたいことに集中できただろうに、と思うことがある。それは私だけでなく、沖縄で生まれ、両親や祖父母から沖縄戦のことを聞いて育ち、米軍基地がもたらす犠牲に黙っていられず、若い頃から反戦・反基地運動を行ってきた沖縄人の多くが考えることではないか。
国体護持と本土決戦準備のために沖縄戦を長びかせ、住民の犠牲を拡大させただけでなく、敗戦後はサンフランシスコ講和条約で沖縄を切り捨て、27年にわたり米軍支配下に置いたうえで、施政権返還後も日米安保条約の基地負担を沖縄に押しつける。東京や大阪など大都市に住んでいる圧倒的多数の日本人は、そういう自分たちの沖縄に対する仕打ちに疑問すら抱かず、米軍基地の問題に悩まされることもなく日々暮らしているだろう。
北朝鮮や中国の脅威を口にしたところで、自分たちの住んでいる地域が戦場となり、ミサイルの標的となることを想像し、危機感を抱いている日本人がどれだけいるか。「台湾有事は日本有事」と煽られても、戦場となるのは沖縄で、自分たちの所までは波及しないと考えている日本人が大多数だろう。
その上で、中国と対抗するために沖縄は米軍だけでなく、自衛隊の強化を進めるべきだ、という世論が形成されていく。日本「本土」を守る盾として沖縄を利用し、いざとなれば「捨て石」として切り捨てる。日本人の暗黙の多数意思は79年前と変わらない。……
(『地平』2024年8月号 14-19頁)
沖縄に限らず、マスメディアによる報道は多分に操作されていると思いますが、普通の人にとっては、報道されない事実は起きていないことと同じです。だから、「本土」の多くの日本人は「知らないだけ」だと言い訳することは可能でしょう。しかし、じゃあいつまで「知らなかった」で通すつもりなのかと。そして、一番肝心なのは、知ったら「腐り」ではなくなるのかということです。
「……沖縄ではなく米軍や自衛隊の基地がない地域に生まれていたら、こういう問題に振り回されずに、自分がやりたいことに集中できただろうに、と思うことがある。」という目取真さんの一言が胸に堪える感じがします。
