米国のトランプ氏が共和党大会で大統領候補に指名されました。3日前(7月13日)、演説中に狙撃されて負傷し、右耳にガーゼを当てた痛々しい姿で党大会の会場に現れ、拍手を浴びました。いつものごとく「吠える」ことなく、わりと静かにしているように見えたのは、(本人にも周囲にも)事件の記憶がまだ生々し過ぎたせいか、それとも陣営の「戦略」か。タレントの東国原英夫氏がSNSで、当初この銃撃事件を「やらせ」と投稿して批判を浴びたようですが、小生もかなり「不自然」な感じをもちました。BBCの取材では、演説会場近くの住民の話として、ライフルを持って建物の屋根に上がっていく不審な人物を見たと警察に知らせたのに、警察は全然取り合わなかったという話が伝えられていましたし、事件後に負傷したトランプ氏がシークレットサービスに抱きかかえられながら演壇を下りる際、拳を上げる姿が撮られた写真のバックに星条旗が翻るという構図が、あまりにも出来すぎの感じがして、これは「合成写真」ではないだろうかと思ったからです。
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「ライフル持った男が屋根に」 トランプ氏銃撃、聴衆がBBCに証言 | 毎日新聞
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トランプ前米大統領の暗殺未遂、容疑者はどういう人物か - BBCニュース
トランプ氏を銃撃した容疑者はシークレットサービスによってその場で射殺されたようです。共和党員の20歳の若者がどうしてそうした行為に及んだのか。これはこれで問題ですが、この日本でも、2年前に安倍元首相が襲撃された事件があり、容疑者はその場で取り押さえられました。こうした事例でお国柄を持ち出して比較するのは、状況も違いますし、短絡的との誹りはまぬがれませんが、しかし、容疑者がその場で射殺されてしまうところや米国の人々の反応などに、トータルとして何となく(日本とは異質の)アメリカの「暴力性」を感じないではいられません。
月刊誌『地平』を読んでいたら、ジャーナリストでドキュメンタリー映画監督の大矢英代さんの「立ち上がるアメリカの学生たち」という記事の冒頭にこんな文章があります。
「他人(ちゆ)んかいくるさってー寝(に)んだりーしが、他人(ちゆ)くるちぇー寝(に)んだらん」
他人に叩かれても眠れるが、他人を叩くと眠れない。沖縄のことわざだ。自分が誰かに殴られたり、傷つけられたりしたとしても、その晩は眠ることができる。でも、自分が誰かを傷つけてしまったら、こころが痛くて、苦しくて、その夜は眠ることができない。他人を傷つけるということは、つまり、自分自身の良心を傷つけることでもある。だから暴力をふるってはならない、という教えである。
私がこの言葉を初めて知ったのは、2012年、沖縄のテレビ局で報道記者になったばかりの頃だった。6月、沖縄の「慰霊の日」が近づく頃、地獄の沖縄戦を生き抜いたお年寄りたちは、戦争体験を語る中で、この言葉の大切さを私に教えてくれた。
「だから、米軍基地は沖縄にも、本土にも、いらないさ。あれは戦争のための、人殺しのための基地なのに」「いくさで、あんなに苦難したうちなーんちゅ(沖縄の人)が、なんで人殺しのための基地を許すか?」と。沖縄の反戦平和運動の原点には、絶対的な平和への信念があった。
取材を通じて受け取った戦争体験者たちの言葉のひとつひとつが、やがて私の血肉となっていった。これまで戦争と国家の暴力をテーマにした報道を続けてきたのも、現在、米国・カリフォルニア州立大学で教員となり、アメリカでジャーナリスト育成に携わるようになったのも、原点には、沖縄の教えがある。戦争で最も傷つくのは、一般市民である。もし戦争を支えるような報道に加担してしまったら、私だってこころが痛くて、夜は寝られないだろう。
「実は、アメリカでもね、人を殴った夜は眠れないんです。でも、沖縄の人たちとはまったく別の理由からです。何だと思いますか?」
先日、大学時代の恩師……とお会いした時、そう問いかけられた。様々な答が私の脳裏をよぎった。自分も怪我をして痛いからだろうか。巨額の賠償訴訟が怖くて不安だからだろうか。
……先生は言葉を続けた。「相手の仕返しに備えて、起きていなくてはいけないというのです。これは怖いことで、そんなふうに考えるなら、安眠のためには、結局、相手を殺してしまうしかありません」。
米国に移住して6年が経つが、暴力をめぐる価値観に触れるほどに、大きなカルチャーショックを覚えてきた。暴力を止めるためには、より大きな暴力を行使するという暴力肯定論は、米国のカルチャーの隅々に染み渡っているように思う。安心のために、相手を撲滅する。それはテロとの戦いを掲げて乗り込んだイラクやアフガニスタンでの米軍の殺戮破壊行為、そして今、この瞬間もイスラエルがパレスチナ・ガザで行っているジェノサイドと共通する。……
(『地平』2024年8月号、104-105頁)
「安眠のためには、結局、相手を殺してしまうしかない」――ちょっと「衝撃」的な文言です。やられたらやりかえすどころか、復讐を見越してさらにやる、攻撃と反撃の連鎖というのか、相手の息の根を止めることが「最終的解決」というのですから。これでは「(相手を)殺せない」ような人間はダメ人間だいうことになりかねません。怖ろしいことです。一定の法の下に人々の安全が守られる社会を当たり前とすると、何と野蛮で殺伐とした世界でしょうか。そんな蛮力で安眠を確保するんだったら、そもそも「殺しの道具」がなければいい、武器を根絶すればいいはずだと、どうしてそういう発想ができないのか、なぜそうした方向に話が進まないのか。これは不思議というより、脅威です。
大矢さんの記事の論旨は、アメリカよりもイスラエルの暴力とどう向きあうかにあるのですが、やはり同じことです。他人を傷つけることは自分の良心を傷つけることでもあるのだとしたら、「彼ら(彼女らなど)」の良心は一体全体どうなっているのか。少なくとも「戦争嫌い」の多いわが国の人と同じ「良心」が「彼ら」にはないのだと極論でもしなければ理解できないのです。でも、本当にそうなのでしょうか。
大矢さんが書いているように、ガザの人たちのために米国の学生は立ち上がりました。4月にコロンビア大学で始まったデモで、学生たちは大学に対して、イスラエルと関係する企業や戦争で利益を上げている企業と関わりを持つなと叫びました。大学側が警察を導入してこれを鎮圧すると、反戦の声は全米へと拡大しました。銃規制に賛同する声にも同じ良心が働いていないことはありません。もちろん、これまでも長きにわたって不幸な銃撃事件が繰り返され、何度も法規制が試みられながら、その度ごとに「骨抜き」にされてきましたが。
事件直後、拳を振り上げたトランプ氏にはUSAコールが鳴り止みませんでした。全米ライフル協会から支持を受けるトランプ氏は、もし今秋の選挙に勝利し、大統領職に返り咲いたら、バイデン政権が導入した「銃規制」をすべて撤廃するとの意向です。銃撃されて危うく命を落としそうになった人間が、それゆえに?銃が必要だと訴えるのですから、これは人によっては妙に「説得的」に響くかも知れません(小生にとってはたちの悪いブラックジョークですが)。しかし、USAコールは、負傷しても俺は負けないと拳を突き上げる人間に対してではなく、それでも銃規制・銃廃絶をあきらめずに闘っている米国の市井の人々にこそ向けられるべきと思っています。そういう日が来るでしょうか。