昨日の米国大統領選はトランプ氏の再選・返り咲きが確実な情勢となりました。個人的には溜飲が(下がるではなく)逆に上がってくるような、何とも言えぬ不快感を覚えています。そもそも民主党のハリス氏が勝てばOKというような単純な話ではありませんが、米国独特の州ごとの選挙人総取り方式で勝つのみならず、全体の得票数でもハリス氏を上回るとすれば、アメリカ世論は単純多数決でもトランプを支持したわけで、この「現実」はなかなか重いものがあります。何と言ってもトランプ氏は現在刑事訴追されている身です。そういう人を国民総意は大統領に選ぶのですから。
早速、トランプ勝利を受けて、大統領任期中は裁判がストップするのではないかとか、検察は訴追を取り下げるのではないかという報道が続々上がっています。中には、トランプ氏は大統領に就任すれば自身を「恩赦」にするのではないかとか、あるいは、特別検察官をクビにするのではという話もまことしやかに語られています。法治国家とか、権力分立の理念がガラガラと音を立てて崩れていくようです。
トランプ氏の4件の刑事裁判、在任中はストップか 大統領返り咲きで | ロイター
トランプ氏、刑事事件は? 復権で特別検察官「首」公言―米大統領選:時事ドットコム
金融市場はトランプ再選には概して「歓迎ムード」ですが、日本のメディア報道はトランプ再選には総じて警戒・不安を引きずったままのように感じます。ただし、「(トランプは)何をするかわからない」という一部報道には違和感を覚えます。確かに、彼が再び大統領になって、今後の対中国の関税政策について、その程度や規模は「わからない」かも知れませんが、移民政策について柔軟な対応をとることはまずあり得ませんし、彼自身の白人至上主義と女性蔑視が変わることもないでしょう。総じてマイノリティーには配慮のない言動、態度、姿勢を今後ともとり続けると思われます。それから、対外政策では、イスラエルは支援してもウクライナは支援しないでしょうし、地球温暖化対策には後ろ向き(無関心)で、再び米国はCOPから離脱するかもしれません。一期目の就任前ならいざ知らず、経験上予測できることは多々あるのに「何をするかわからない」などと、前政権時の所業を「リセット」するような物言いは、メディアとして無責任な感じがします。もしかしたら、トランプ氏の虚飾と実務能力の間に差がありすぎる(つまり、言っているとおりにできやしない)と言いたいのでしょうか。
今年は世界的に選挙イヤーで、各国で既存の政権が退場し、政治の潮流が変化してきています。英国ではスナク保守党政権が敗れ、日本でも岸田政権から替わった石破新政権が先日の衆院選で与党過半数割れの大敗を喫しました。今回の米国の大統領選挙も同じ流れに位置づけて考えた方がいいのかも知れません。「共通項」はあるのか、あるとすれば、それは何か。
雑誌『地平』12月号で、9月のオーストリアの総選挙で極右勢力が地滑り的勝利を収め第一党となったことを取り上げた記事がありました。その中にこう書いてあります。
……6月6~9日の欧州議会選挙では全般的に、前回選挙から5年の間に、コロナ・パンデミック、ウクライナ戦争とそれに端を発するインフレ、難民の持続的流入など、次から次へと危機に襲われ無力感を覚えた有権者の政治意識が多分に内向きかつ感情的・近視眼的になり、ますます広がる貧富の格差を前に、自らの「帝国的生活様式」を維持したいという「本音」に突き動かされた。そして基底的な権力構造には目を向けず、すべての社会矛盾の原因を移民・難民に押し付けて、「自国ファースト」を掲げる極右勢力が躍進、「欧州保守改革」(ECR)や「アイデンティティと民主主義」(ID)など、欧州統合に否定的な勢力がほぼ二割の議席を得た。……
(9月の総選挙で第一党となった極右・自由党の党首)キックルは「君たちが主人で、自分は君たちの道具だ」と有権者の歓心を買いつつ、「体制」(System)を絶え間なく攻撃した。本来価値中立的なはずの「体制」は、戦間期ドイツで、ヴェルサイユ条約・ヴァイマル憲法を拒否する右翼勢力の怨嗟の的であった。そして今、自由党は、リベラルな議会制民主主義を標的に「体制政党」「体制政治家」「体制新聞」を断罪するのである。ナチ党ばりの政権奪取に成功すれば、彼らは、……権威主義的な国家改造を図ろうとしている。……
……一部憲法や欧州法に違反する政策を断行できるのは「国民による、国民のための自由な国民宰相」だという。この「国民宰相」(Volkskanzler)とはほかでもない。1933年1月30日ドイツ首相となったアドルフ・ヒトラーの呼称である。「国民宰相」になればキックルは、まず憲法裁判所を無力化し、教育・文化・警察・軍隊の道具化に乗り出すであろう。……
(木戸衛一「「国民宰相」の再来? オーストリア国民議会選挙を振り返る」)
9月のテレビ討論会でトランプ氏は「スプリングフィールドでは、ハイチから来た不法移民が住民の犬や猫などのペットを食べている」と発言しました。テレビで司会者から「根拠がない」と指摘され、まったく馬鹿げた話だと一蹴されたのかと思いきや、いったん公的空間でこのような「感情」が吐露されると、その後も通奏低音のように消えることなく残響し続けているかのようです。移民に対するこうした不快感や嫌悪感がトランプを押し上げる力になっているのはたぶん間違いありません。それは米国に限らず、上に引用したオーストリアでも、ドイツでも、……総じて世界で「富裕国」側に分類される国々には共通する現象なのでしょう。ここ日本も、程度の違いはあれ、先の総選挙で「保守党」なる(言葉の正確な意味で全然「保守的」ではありませんが)政党が議席を得ましたが、彼らの外国人に対する見識にも同様のものがあります。日本の場合は、まだ極少数ですが、「右派」に分類される人々の中で存在感を示しているのは確かです、こうした潮流は今後さらに強まっていくのでしょうか。
それにしても「再びアメリカを偉大な国に」とか「日本をもう一度世界のてっぺんに」とか――これは、上に木戸氏が書いているように、自らの「帝国的生活様式」に拘泥して、それを失いたくないと思う特権意識の現れでしょう。しかし、山の「てっぺん」に一人で立って「どうだ、俺はすごいだろう」と悦に入るよりも、みんなで登って互いに「おつかれさま」と言う方が楽しいんじゃないかと思うのですが。あるいは(一人で山登りをするのは趣味の話だとしても)、自分だけ(あるいは自分の一族だけ)うまいものを食べて、周りじゅうが腹を空かしていたら、うまい料理もうまくなくなるのではと思うのですが、こういうのは一人で山登りをするのと同種の価値観の問題なのでしょうか。もし、自分たちがうまいものを食べられればそれでいいとするならば、それは切羽詰まった状況におかれて(一時的にせよ)近視眼になっているか、なんだかんだきれい事を言っても所詮はみんな自分のことしか考えないものだという、身も蓋もないシニシズムに侵食されているからではないかと思います。冷静に考えて、そういうのだけで世の中がうまく回るはずもありません。……話がちょっと別方向を向いてしまいました。
ヴィレッジ・ピープルのYMCAはいい歌なのに、テレビから曲が流れてくると、昨日からイヤーな感じがしています。
YMCA 歌詞の意味 和訳 ヤングマン 原曲