ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

戦争をしようとする国家は戦争の前に何をするか

 ロシアのウクライナ侵攻開始後、ロシアの文化人たちの語りを精力的に翻訳してきた奈倉有里さんのインタヴュー記事が、5月29日付朝日新聞にあります。
 ロシアで現在、一般の人々がどういう状況におかれているか、職を失ったり、徴兵の恐怖におびえたり、ウクライナの祖父母の身を案じて泣いたり、……著名人の出国などの具体例に続けて、「(ロシアは)戦争をしようとする国家が戦争の前に何をするのかのお手本の山です。……(我々は)学んだ方がいい」と、こう話しています。

ロシアの中の抗議、沈黙の意味を翻訳する 歴史が示す「今の危険度」 [ウクライナ情勢]:朝日新聞デジタル

……私はロシアの友達とメールやSNSで連絡は取れますが、できるだけ誰かに見られてもかまわない表現で会話をし、相手はすぐ消しています。警察が街頭で携帯電話をチェックしており、実際に何がチェックされるかより、それ自体が恐怖として働いています。最近まで、独立系の放送局もありましたし、日常の会話やインターネット上の言論まで規制できるはずがないと、希望を見いだしていました。今になって、限られた幾つかの情報源に押し込められていて、そこをつぶされてしまえば一網打尽だったことを思い知らされています。

 政府が「戦争」という言葉や批判を禁止すると、歴史を語る人が急増しました。現在と共通点のある出来事を語ることで意思疎通しようとする行為です。しかし状況がさらに悪化した今は、歴史を知っているからこそ今がいかに危険かを感じ取れてしまい、侵攻に反対する人の多くが沈黙か出国かの二択を迫られています。アメリカに滞在している作家のドミトリー・ブィコフは、スターリンの時代ですら「戦争」という言葉そのものが禁じられることはなかった、と言っています。それもそのはずで、ロシアの歴史上、今ほど馬鹿げたことはやっていないわけです。たとえば第2次世界大戦は、攻められたから守るという一応の大義名分がありました。今政府は人々を説得できる理由を何も持たないので、暴力的に黙らせる以外にない。やっていることの悪さに比例して国内の弾圧がひどくなっています。

 街で白い紙を掲げたり、トルストイの『戦争と平和』を持って立ったりしただけで拘束された人たちがいました。彼らはそんなことで侵攻が止まると思っているわけではない。身を危険にさらしてまで訴えているのは、社会の異常さと恐ろしさです。私たちは、「そういう社会にしてはいけない」という彼らの訴えを受け取らなくてはいけません。

 日本では、「戦争反対を訴えるのは簡単だけれどそれだけでは何も変えられない」と言われますが、本当は「訴えるのは簡単」ではありません。現に「反対」と言っただけで大変なことになる場所がある。プーチンが大統領になった2000年代以降のロシアの動きは、戦争をしようとする国家が戦争の前に何をするのかのお手本の山です。権力者の親しみやすさのアピール、我が国は侵略戦争をしたことがないという歴史観の教育、軍隊の賛美……。その一つが平和・人権運動に対する冷笑的な世論作りであったことから学んだ方がいい。日本は、戦争に反対することへの冷笑や批判が危険なレベルに高まっていると思います。笑っている人は、政府が強権国家を作るのに非常に都合がよい状態を生みだし、笑っている自分自身の首を絞めていることに気づいていません。

 留学で初めてロシアを訪れた02年ごろは、ソ連崩壊の混乱の雰囲気がまだ少し残っていました。その分自由で、教育や民主主義についてたくさん議論しました。ところがチェチェン紛争に関わるテロの頻発、警察組織の強化や中央集権化によりどんどん息苦しくなりました。報道機関や文化施設の上層部は政府に都合のいい人材に入れ替えられました。文芸誌の編集部もモスクワ中心部から移転させられました。

 ロシア正教会と政府の距離が近くなると、「宗教心の侮辱の禁止」をはじめ言論弾圧にまつわる奇怪な法律が次々とできていきました。通っていた国立ゴーリキー文学大学は四六時中思想や信仰の話をしている所なので、仲のいい友達とは、また変な法律ができたね、どうしたらいいんだ、という話はよくしていました。ただそういう大学でさえ、授業で先生が、詩の中の聖職者の描写を当時の社会の退廃と結びつけただけで、それを「宗教心の侮辱」と受け止めて教室を出て行く学生がいました。国定教科書の検閲が厳しくなり、国の利益や軍の賛美という視点が重視されるようになりました。文学史の教授が「ロシア語の方がウクライナ語より優れている」と話すこともありました。規制が生活のさまざまな面に及び、身動きが取れなくなっていきました。
<以下略>

 先日酒の席で酔っ払った人にからまれました。詳しくは書きませんが、日本の歴史の先生は、授業でウソばかり教えていると言うのです。小生が、「後から史料が出てきたりして、新しい事実がわかって、歴史が書き換えられることはよくあります。でも、その時点でウソだと承知しながら授業で教えているわけではありませんよ(失礼な!)」と言うと、「いや、日本で教えられている歴史は占領軍によってねじ曲げられた歴史だ。それに気づいていない」と言うのです。ほら来た、と思ったので、ここで止めとけばよかったのですが、「どこがねじ曲げられていると思うのか?」と聞いてしまったために、延々と「与太話」に付き合わされることになりました。しかし、出てきた話は荒唐無稽なものばかりです。最初は「自分は分厚い書籍を何冊も読んだ」と言っていたので、何に依拠しているのか、出典を逐一確認していくと、結局、活字などはほとんど読んでなくて、与太動画を見ただけなのです。あげくに、保守論客の「ジャーナリスト」と称される某女性の名前を出して、彼女の話を聞いていると、胸がすーっとすると言ったので、これはもう無理だなと思い、そこで話を止めました。

 これも奈倉さんが指摘した「戦争をしようとする国家が戦争の前にするお手本」と重なります。「我が国は侵略戦争をしたことがないという歴史観の教育」、「軍隊の賛美」、「平和・人権運動に対する冷笑的な世論作り」……。これらに加えるなら、「外国への敵愾心」でしょうか。

 奈倉さんは「笑っている人は……笑っている自分自身の首を絞めていることに気づいていません」と述べていますが、最近読んだヴァレリーの『精神の危機』の結語も「彼らは自分のしていることが分かっていない」でした(恒川邦夫訳、岩波文庫、429頁 ※元は新約聖書ルカによる福音書」)。

 作家の山田詠美さんが、「たとえ、千人の読者は誤魔化せても、たったひとりの目利きは誤魔化せない」という宮本輝さんの言葉を紹介していました。
私のことだま漂流記:/50止 山田詠美 黒田征太郎・え | 毎日新聞

 「目利き」になっていかないといけないし、それが一人や二人ではまずいと心底思います。




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