ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

E.シュリマン氏の講演

 ウクライナの戦争を特集した岩波の『世界』の臨時増刊号を読んでいます。短期間によくぞこれだけの陣容をそろえたなあと感心します。確たる情報が十分にあるとは言えない中で、この執筆陣には、断言することを躊躇し留保したいと思いつつ、それでも何かを伝えなければという思いに駆られて執筆・発言している人が多いと感じられます。なかでも、この3月3日に解散が伝えられたロシアの独立系放送局「モスクワのこだま( Э́хо Москвы́)」の政治コメンテーターを務めていたエカテリーナ・シュリマン氏の講演は、氏のおかれていた状況を思うと胸に迫るものがあります。訳者の奈倉有里さんも、こうしたなかで、たびたびロシアやウクライナの文化人たちの貴重な発言を紹介してくれていて、その姿勢と慧眼には敬服するばかりです。

 以下に「戦争と社会学――これからを生きる人々へ」と題された2月25日(開戦翌日)の講演録から一部引用させてください。これはもともとは「社会科学とその効用――知識社会学はなんの役に立つか」と題した高校生向けの特別講義として用意された話だったそうですが、彼女の話に耳を傾けるロシアの若い人たちと、良識を共有できればと思います。

 いま私たちは、少なくとも21世紀の大部分をかけて取り組んでいかなくてはならない大きな問題に直面しています。未来の歴史家はおそらく、ソ連崩壊から現在までの30年を、いま起きていること[ウクライナ侵攻]に向かう道として分析するようになるでしょう。今日は「責任と罪」と「私たちにできること」についてお話しします。
 まず「責任と罪」についてです。いま、「なぜ私たちはこのことに気づけなかったのか」という後悔の声、「この状況を生み出してしまった人すべてに罪がある」という罪悪感の声がたいへん多くあがっています。

……
 私たちは無論、それぞれに責任を背負って社会を生きています。けれどもいま起きていることの罪をこの社会で生きる「すべての人」に広げてしまえば、その決定に至るまでにほんとうに罪のあった人々への追求を諦めることにもつながりかねません。「私たちみんなが悪かった、みんなに罪がある」というのは、道徳的には理解のできる表明です。けれども基本的なことを理解していなければなりません――権限が大きい人ほど責任は重く、権限が小さい人ほど責任は軽いのです。
 世間では一般的に「自由には責任がつきものだ」「無責任な自由はよくない」などと言われることがありますね。私が言いたいのはむしろ逆で――「自由なき責任はありえない」ということです。人が社会に出て、なにかのポストについて仕事を任されたら、そこには責任があります。けれども選択の余地のない行為を強いられた場合、そこに責任は生じません。もちろん、その行為が明らかに犯罪である場合、「自らの命を危険に晒しても犯罪的な命令は遂行しない」という選択は残されていますが、同時に人が自らの命を守ろうとするのは当然の権利です。
 罪の意識は無気力に、責任感は行動につながります。私たちが各自で「私には罪がある」と認識するのはかまいません。それを言葉にしてもいいでしょう。けれどもあなたが抱える「罪悪感」は、自分の負っている「責任」以上に膨れ上がってしまってはいけません。そうなるとなにもできなくなってしまう。自分が負っているはずの「責任」すら、逆に見えなくなってしまうからです。まずは自分がいかなる「責任」を負っているかを明確に認識することが、なにもできない状態から脱するための第一歩です。
 その「責任」の範囲になにが入ってなにが入らないのか、私たちになにができてなにができないのか、わかりづらくなるときがあります。それでも常に自分の「責任」を負える部分があることを意識し、決して諦めないでください。「なにもかも終わりだ」「戦争が始まってしまった」「もう遅い」といった言葉に身を任せないでください。

 次に、私たちができる行動についてお話ししましょう。……
 私たちがなにか社会に対して声明をだそうとするとします。著名人は単独で「公開書簡」という形の声明を出すこともありますが、大抵の場合は、複数の人間が署名し団体として出しますね。……それが小規模な団体で反響が少なくても、なにかを組織できる団体が存在していることが大事なのです。
 だからこそ現在の政府は、市民の組織したあらゆる独立団体をことごとく敵視しているのです。これまで、すべての団体は、国家の下部組織に組み込まれるか、さもなくば潰されるということがなされてきました。
 みなさんはなぜ巨大な国家にとって、ごく少数の趣味のグループまでもが、そんな「敵視」に値するものだと思いますか。それはまずひとつは、人間が、小さくてもどこかの団体に属することで、その人たちと仲間意識や連帯感を持ち、自分は間違っていないという自己肯定感を得られる存在だからです。もうひとつは、団体の行動力は人間一人とは比べ物にならないくらい大きいからです。もし声をあげたいと思っても、「街に出れば警官に逮捕されるかもしれない、どうしよう」と考えている状態のとき、普通の人は街に出ません。でも、もし団体がそれを組織し、役割を決めて互いを守り合うと決めれば安心感が生まれます。
 ところが国家の下部組織以外の独立した団体がまったく存在しない空間にひとりぼっちでいると、人は常に不安でよりどころがなく、いつ周囲からつまはじきにされるかと怯えるようになります。強権国家にとって、これほど都合のいいことはありません。
 そうした社会では、プロパガンダが容易に浸透します。プロパガンダはまず仮の「多数派」を装い、いまどういう考えが支持されているかを演じてみせようとします。はじめはどんなに荒唐無稽に思える主張でも、それがすでに支配的思想であり、社会に浸透しているかのように見せかけるのです。その後、不安でよりどころのない人々が沈黙しているうちに、偽りの「多数派」を鵜呑みにした主張をする人々が出てきます。すると強権国家は強く人々に同調を求めるようになります。
 ほとんどの人は、自分がその目で見たわけでもなく、専門的に学んだわけでもなく、直接接点もないことについて、揺るぎない意見を持ってなどいません。それ自体まったく正常なことです。……
 人は周りの人にとって「いい人」であろうとします。とりわけ法律だとか国際政治だとか、普段はほとんどの人が興味を持たず、理解もできないような問題については、周りが「いい」と認めている考えに従おうとします。
 あるいは予想もしていなかった恐ろしいことが起きたときも、人は早く心を落ち着けたくて、なるべく短くて耳あたりがよくわかりやすい、標語のような言葉を手に入れたがります。
 あなたたちにとって、それは愚かな行為のように思えるかもしれません。けれども社会科学を学ぶことで、それらの行為をしている身近な人々を断罪しなくともよいことがわかるのです。
 これは大変重要な、大切なことです。私たちは、ひとたび「自分罪がある」という強い罪悪感に悩まされると、その後は「あの人も間違っている」「この人もおかしい」という思考に陥りがちです。けれども社会学の基礎を理解することで、自分に対する行き過ぎた罪悪感も、身近な他者に対する断罪も避けることができます。それが、私たちが共になにかをするうえでの基盤になっていくのです。
 それは決して、許されざる者を許せということではありません。では、本当に責任を追及しなくてはいけない相手はどこにいるのでしょうか。すでに述べたとおり、大きな権力、声、責任を負っている人にあるのです。

……
 いまがどんなに絶望的な状況でも、私たちがこれまでの20年間に、読んだもの、書いてきたこと、世界のさまざまな知識を得てきたことがすべて無駄だったとは、決して思わないでください。いかに閉ざされたように見えようとも、世界はつながっています。世界に開かれた学問が本領を発揮するときは必ずきます。
 人は、高校や大学を卒業したあと、…「新たな交流」が始まり、…新しい人間関係を築いていくでしょう。さらに世の中に出ると、上に言われたとおりに動かなければならない局面や、いま社会で起きていることを肯定し、そこに同調して「これでいいんだ」と言いたくなる場面も出てくるでしょう。でもそれだけはちがいます。これでいいわけがありません。そのことを、なにも知らない人に説得するのは困難です。あなたたちには少なくともここで学んだ経験があり、これからも学び続けることができます。それは今後とても大切な支えになります。学問を精神の基盤とする人々は、最も強い人々です。それはものを考えるうえで、大切な、社会的指針となります。テレビから流れる甘言や「多数派」の偽装に惑わされないための思考を持つことができます。今後いかなる「新たな交流」のなかに投げ込まれようとも、その指針を忘れず、それを基準に生きてください。

          (2月25日 ノーヴァヤ・モスクワ、寄宿学校レトヴォにて)

(奈倉訳、『世界』臨時増刊 ウクライナ侵略戦争 154-159頁 一部略)




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