ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

『文読む月日』 まとめ読み

 一日ひとつずつ読み進めるはずが、怠けてたまってしまったトルストイ『文読む月日 上』の5月下旬部分をまとめ読みしました。来月からは、中巻(第二分冊)です。
 この部分に限らず、本書全体に、神への信仰を通じてより良く生きるべきという話が多いのですが、たまに出てくる人生訓や社会批判の視点には、ハッとさせられることがあります。5月27日の下りは、21世紀の現代社会でも全然違和感がありません。

<5月27日>
 (一)しばしば人智の活動が全部、真理の解明にではなくて、真理の隠蔽のために用いられることがある。そのような人智の活動こそ、もろもろの誘惑の最大原因である。

 (三)あらゆる道徳上の実践的命令には、同じ根拠から出たほかの命令と矛盾する可能性がある。
 節制をせよ! それじゃ、何も食べないで、人々に奉仕することもできなくなっていいのか?……酒を飲むな! それでは聖餐を受けても、医療に使ってもいけないのか? 純潔であれ! それでは人類の滅亡を望むのか? 暴力をもって悪に抗するな! それでは自分もほかの人も一人の男に殺されていいのか?
 こんなふうにいちいち抗弁するというのは、抗弁する人が道徳的規律を守りたくないと思っている証拠である。
 論法はまさに十年一日、結局医療に酒が必要なただ一人のために泥酔に反対せず、人類が絶滅するのが心配だから、色欲に耽ることをやめず、ひょっくりみんなに襲いかかる乱暴な男がいるかもしれないから、殺したり処刑したり、投獄したりする、ということになる。

 (四)人間は何もかもできるものではない。しかし何もできないからといって、悪いことをしなければならないことにはならない。           (ソロー)

 (七)いったいなぜあの人は、宗教的・政治的・学問的に、あれほど奇怪で不合理な立場を擁護するのだろうと、不思議で仕方がないことがしばしばあるが、よく調べてみれば、ただ自分の立場を擁護する保身術に過ぎないのである。

 (八)人が自分の行為を複雑な理屈で説明するときは、その行為が悪事であることを信じていい。良心の決定は簡明率直である。

(北御門二郎訳、ちくま文庫、600-602頁)


 「一週間の読み物」には、裁判で死刑を宣告されたソクラテスの直後の弁明が引かれています。プラトンからの引用と明記されていますが、トルストイの脚色が含まれているかもしれません(手元にプラトンの書いたものがなく、確認できませんが)。遠い昔に読んで、心を揺さぶられた記憶が甦ります。

……今に人々は、あなた方アテネ市民は、いわれなく賢人ソクラテスを殺したと言うでありましょう。私は全然賢人などではないのですが、あなた方を非難するためにも彼らはそう言うでありましょう。あなた方が私を殺したのは馬鹿なことだった、私はこんなにも死期が近い老人であるから、しばらく待っていれば、死は自然に訪れたであろうのに、と言うでありましょう。さらにもう一つ、私に死刑を宣告した諸君に言いたいのは、自分たちが死刑を宣告すればこの私はもう死を逃れる術を知らないとお考えであれば、それは間違っているということなのです。私はそれをしっているけれど、そんなことをするのは自分の品位を傷つけると思うからしないだけです。もし私が泣いたり喚いたり、いろんなみっともないことをしたり言ったりすれば、諸君が喜ぶであろうこともわかっています。しかし私にしても誰にしても、不当な方法で死を免れようとすべきではありません。どんな危険に遭遇しても、自尊心さえ棄ててしまえば死を逃れる方法はあります。死を逃れるのはさほど困難ではなく、悪を逃れるほうがはるかに困難です。悪は死よりも早く、たちまちわれわれを捕らえます。私は年老いて体の動きも鈍く、こうして死に捕まってしまいました。しかしながら私に死を宣告した諸君は、まだ若くて身も軽いのに、死よりも素早いほどの悪に捕まったのです。つまり私は諸君の宣告によって死に捕らえられたが、私に宣告をした諸君は、真理の宣告によって悪と汚辱に捕らえられたのです。私は死刑になり、諸君は諸君で罰を受ける。これも因縁ずくであれば、それでいいでしょう。

 さらにもう一つ、私を告発した諸君に言っておきたい。人間は死の直前には将来のことがよりはっきり見透せるようになるものです。そこでアテネ市民諸君、諸君に予言しておくけれども、諸君は私の死の直後に、諸君が私に下した宣告と比べてはるかにひどい罰を受けるでしょう。つまり、諸君が期待したことと正反対のことが起こるでしょう。私を殺すことによって諸君は、諸君は気づかないけれど私がこれまで慰撫していた、諸君に対する批判者たちの鉾先を、諸君に向けさせることになるでしょう。その批判者たちはまだ若いだけに諸君にとっては厄介であり、彼らの攻撃に堪えることは困難だと思います。それゆえ諸君は、私の死によって自分らの悪しき生活への非難を免れることはできません。これが私を告発した諸君に予言しておきたいことです。人を殺しておいて、非難を免れるわけにはゆきません。非難を免れるための一番簡単な、一番実際的な方法をただ一つ――より善く生きることなのです。

 さてこんどは法廷で私を有罪と認めず、弁護をしていただいた諸君にご挨拶したい。諸君との最後の会話にあたり、今日私の身に生じた驚くべき事柄、私がこの異常な事件から導き出した推論について、語りたいと思います。私は今日までの全生涯において、非常に重大な局面の場合も、日常茶飯事の場合も、いつも心のなかにある神秘な声を聞き、その声が私に警告して自分に不幸を招くような行動をとらせないようにしむけてくれました。ごらんのとおり、今日私には、通常最大の不幸と見なされている事態が生じましたが、それにもかかわらずその声は、私が朝家を出たときも、この法廷に入ったときも、こうして話しているときも、ちっとも警告を発せず、制止もしませんでした。
 これはいったい何を意味するでしょうか? 今私の身に生じていることは悪でないばかりか、むしろ善だといことを意味していると思うのです。実際に考えてみれば、死は二つのうちのどちらか一つ、意識が完全に消えてなくなることか、それとも古来の言い伝えのように、霊が変化して、甲の場所から乙の場所へ移ることかなのです。もしも死が完全な意識の消滅であって、夢も見ないでぐっすり眠った夜のようなものであれば、死は疑うベからざる幸福と言わねばなりません。なぜなら誰にしてもそんなふうに夢を見ないでぐっすり眠った夜を思い出し、その夜と、自分が現実に、あるいは夢のなかで経験したような、さまざまな恐怖や不安や不満に満ちた夜とを比較すれば、みんな夢も見ないで眠った夜ほど幸福な日、幸福な夜はめったになかったであろうと信じて疑いません。それゆえ、もしも死が、そのような眠りであるならば、少なくともそれは幸福だと思うのです。またもしも死がこの世からあの世への移住であって、あの世にはわれわれより先に死んだ賢者たちや聖者たちが住んでいると言われているのが本当であれば、あの世でその方々と一緒に住むこと以上の幸福がありうるでしょうか? そんなところへ行けるものなら、私は一度どころか百度でも死んでもいいと思うのです。

 ですから裁判官諸君も一般の人々も、けっして死を恐れる必要はなく、ただ善人にとっては生のなかにも死のなかにもなんら悪は存在しないことを忘れないでいればいい、と思っております。
 それゆえ、たとえ私を裁いた人々の意図が私に悪をなすことであったとしても、私を裁いた人々にも告発した人々にも腹を立てません。それにしてももう別れる時間です。私は――死ぬために、諸君は――生きるために。われわれのどちらが幸福か――それは神様のみがご存じです。

(同書 596-599頁)




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