12月15日、赤木さんの損害賠償請求訴訟を国が「認諾」という卑劣な手を使って強引に終了させた件は、当事者の赤木さんでなくても、「ふざけるな」という思いだが、ジャーナリストの神保哲生さんが興味深いTweetをしていた。
なるほどと思い、調べてみた。この憲法83条は財政民主主義、すなわち(何か授業をしてるみたいだが)、国家が財政活動(支出や課税)を行うには、国民の代表からなる国会の議決が必要であるという考え方を示した条文だ。続く、第84条は収入面(課税)から、第85条は支出面から、これを述べている。
<憲法83条>
国の財政を処理する権限は、国会の議決に基づいて、これを処理しなければならない。
<憲法84条>
あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。
<憲法85条>
国費を支出し、又は国が債務を負担するには、国会の議決に基づくことを必要とする。
神保さんは財政民主主義を包括的に述べている憲法83条を挙げたが、認諾によって国が赤木さんに賠償金を払うとすれば、国の財政支出の適否が問題になるので、85条の方がよりふさわしいかも知れない。
さらに言えば、この賠償金、まさか、国側は最初から「認諾」する気満々だったとは思えないが、ある程度「負け」は予想していただろう。お金は、一応「賠償償還及払戻金」という目はあるにしても、おそらく予備費からの支出になるのではないか。憲法87条には予備費の条文がある。
<憲法87条>
予見し難い予算の不足に充てるため、国会の議決に基いて予備費を設け、内閣の責任でこれを支出することができる。
/② すべて予備費の支出については、内閣は、事後に国会の承諾を得なければならない。
二項に書いてあるとおり、事後に国会の承諾を得なければならない以上、国には国民の理解が得られるよう説明が必要だし、その適否が国会で判断されなければならない。これは多数派与党が数の力で押し通す類いの話に貶めてはならないと思う。
原告の赤木雅子さんは、昨日12月17日、直筆の抗議文を財務省に提出した。
一時騒いですぐに忘れ、結局不正を放置してきたがために、こういう国家運営が許されると勘違いする輩を跋扈させてきた。赤木俊夫さんはその巻き添えにされたのだ。我々にも責任がある。
森友訴訟終結 赤木さん妻「あまりにひどい」抗議 | 毎日新聞
毎度のトルストイ『文読む月日』の12月18日の記述。
(三) よく、今までの生活を変え、悪を根絶して正義にかなった生活を打ち建てるための努力など全然無益で、そんなことは人類の進歩にしたがっておのずから行われるものである、と言う人がいる。それはまるで、人々がボートに乗っていて、そのうち漕ぎ手たちが岸辺に着いて陸に上がってしまったのに、ボートに残った人たちが、以前ボートが動いていたようにこれからも動くだろうと思ってオールを握ろうとしないようなものである。
……
(七) もしわれわれが、物事はそれが現在あるがまま以外にはありえないと認めるならば、われわれは世界を以前のままの状態に引き止める力への参加者となるであろう。
もしもわれわれがその力に負けなければ、われわれは世界を変える力の一部となるであろう。(ソリテール)
(八) 大多数の人々が、考えることをしないで生きている。大多数の人々が、生存競争のために力を使い果たして、考える時間というものがなく、単純に現在あるものをあるはずのものと取っている。社会改革者の課題が非常に困難で、その進路が険しいのもそのためである。なんらかの偉大な真理を擁護するために最初に声を上げた人々が、上流階級の人々の嘲笑と一般庶民の呪詛を浴びせられるのもそのためであり、人々に迫害され、苦しめられ、堅衣を着せられ、イバラの冠を被せられるのもそのためである。(ヘンリー・ジョージ)
(九) この世の中の生活を全般的に良くしようという事業に対する君の参加が、どんなに目立たぬ些細なものであっても、それは是非必要なことである。なぜなら多くの人々のそうした些細な目立たぬ努力からこそ、君の享受する幸福への運動のすべてが生ずるからである。それゆえ、たとえ誰一人見ていなくても、誰から催促されなくても、ごまかさないで真剣に引き綱を引くがよい。
(北御門二郎訳『文読む月日(下)』、431-434頁)
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