今日は短く。
トルストイの『文読む月日』の3月27日の欄を見ていて、一昨日の「ヤジ排除訴訟」判決のことを連想しました。改めて、原告の二人と弁護団、関係者、そして、当たり前の判決を出してくれた裁判長に、心から敬意を表します。
3月27日…
(四)…人びとの賞賛のなかにではなくて自分の仕事のなかに支えを見出している人、世間に目立たず、目立とうとも思わない人――そんな人を尊敬するがよい。そのような人は、前もってそのために苦しみを受けることがわかっていながら、世人に罵られるような善行を選び、それを滅ぼすために、それまでてんでんばらばらだったすべての敵が一丸となって襲いかかるような真理を選んだのである。至高の善は常に俗世の掟に反するものである。 (エマスン)
(五)偉大な真理というものはすべて、人類の意識のなかへ浸透するには、三つの段階を経なければならない。第一段階は、“馬鹿馬鹿しくて、話にもならない”、第二段階は“それは不道徳で、宗教に反する”、そして第三段階は“そんなことはもうずっと前からわかりきっている”というのである。…
(七)俗世間から非難される人びとのなかに、すぐれた人を探し求めよ。
(八)いかなる名誉をも期待することなく、汝がなすべきと思うことをなせ。愚者は善き行為の悪しき批判者であることを忘れるな。…
ついでに翌28日のところもめくって読んでいると、相変わらずテレビで舌好調の元知事、意気揚々とインタヴューに応じる元首相など、何人も思い当たる人が頭に浮かびますが、まずは自戒を込めて、と思います。同じく引用します。
3月28日
(一)叡智は孤独裡の精神活動によって、また人なかで汝自ら思うことによって獲得される。
(二)他人の言葉に耳を傾け、注意深くあれ、しかし少なく語れ。
問われない場合はけっして話すな。もし問われたらただちに簡潔に答え、問われたことを知らない場合は、恥ずかしがることなく知らないと言うがよい。
論争のための論争はするな。
ホラを吹くな。
高い地位を求めず、それを提供されても受けるな。
どうでもいいような事柄、つまりいずれにせよ自分の義務に反することや、しなくていい事柄の場合は、世間の習慣や、ともに暮らす人々の希望に従って行動するがよい。
自分の義務でもないことで、ともに暮らす人々にも利することのない事柄に、ことさら手を染めないがよい。そうした習慣は往々偶像となってしまう。われわれはみんな、己の偶像を破壊しなければならないのだ。 (スーフィー)
(三)他人の眼を借りてはじめて、われわれは自分の欠点を見ることができる。
(中国の諺)
(四)われわれはみんな、他人のなかに、自分自身の罪悪や欠点やいろんな悪癖やをはっきりと映しだす鏡を持っている。しかしその場合、われわれのほとんどが、自分が映っている鏡を見て、ほかの犬だと思って吠える犬のように振る舞うものである。 (ショーペンハウエル)
(五)“汝自らを知れ”というのは根本的な原理である。しかしながら、はたして諸君は、自分を眺めることによって自分を知ることができると考えるのか? 否。自分以外の者を眺めてはじめて、諸君は自分自身を知ることができるのだ。…
(ジョン・ラスキン)
(六)われわれが三人寄れば、私はそこに必ず二人の教師を発見する。そのなかの善き人にはこれを倣うように努め、悪しき人を見れば、人の振りを見てわが振りを直す。 (中国の諺)…
(九)「人間のなかの悪魔を打とうとして、彼のなかの神を傷つけないように注意するがよい」。この言葉は人を批判する際、その人のなかに神の霊が存在することを忘れるな、と言っているのである。…
(十二)人々とともにいるとき、孤独のときに学んだことを忘れぬがよい。孤独の内にあるとき、人々の交際によって学んだことを思うがよい。
(以上、トルストイ『文読む月日(上)』、ちくま文庫、337-342頁)
ロシアによるウクライナ侵攻が始まってからもう1ヶ月です。破壊された風景の映像を見ていると、1ヶ月前にはそこで普通に暮らしていたはずの人びとがいたことを想像しないわけにはいきません。何という、取り返しのつかないことをしてしまったのか。プーチン大統領には一刻も早く“正気”を取り戻してほしいと切に思います。
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