ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「開戦記念日」と「愛国心」

 昨日12月8日は「太平洋戦争開戦の日」。
 作家の伊藤整は、80年前1941年のこの日、報せを聞いて昂奮し、夕刊を買うために新宿へ出かけた。「太平洋戦争日記」にはこう記されているという。

……午後一時出かけると田中家の裏の辺でラジオが日米の戦争、ハワイの軍港へ決死的大空襲をしたこと、タイに進駐したこと等を報じている。はっと思い、帰るかと考えたが、結局町の様子を見たくて出掛ける。……杉沢家の裏の風呂屋の工場の所で四五人がのん気にトラックに物を積んでいる。変な気がする。
……速達を出しながら変に自分がこわばっているのを感ずる。
……バスの客少し皆黙りがちなるも、誰一人戦争のこと言わず。自分の側に伍長が立っていて体を押し合う。鉄ぶちの眼鏡をかけた知的な青年なり。押しながら、「いよいよ始まりましたね」と言いたくてむずむずするが、自分だけ興奮しているような気がして黙っている。
新宿駅の停留場まで来たが、少しも変わったことがない。そのとき車の前で五十ぐらいの男がにやにや笑っているのを見て、変に思った。誰も今日は笑わないのだ。……
……日劇地下室に入る。割にしんとしていて、皆がラジオを聞き、新聞を開いている。ラジオで軍歌、『敵は幾万ありとても』をやるとわくわくして涙ぐんでくる。……
自分はハワイ空襲はよくやったと思いうれしくなる。……ハワイで落ちた人たち、死に甲斐あらん。……
……感想――我々は白人の第一級者と戦う外、世界一流人の自覚に立てない宿命を持っている。

(『太平洋戦争日記(一)』/https://ameblo.jp/kouran3/entry-11722940749.htmlより孫引き

 中国文学者の竹内好は「支那事変に何か気まずい、うしろめたい気持ちがあったのも、今度は払拭された」と記した。
 詩人の高村光太郎は「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた」と書いた。
 評論家の小林秀雄は「宣戦詔勅」の放送を直立して聞き、「眼頭は熱し、心は静かであった。畏多い事ながら、僕は拝聴していて、比類のない美しさを感じた」という。
 新聞もこぞって開戦を支持し、多くの文筆家がこれに同調した。言論統制が進む中、「反戦」を口外することは危険で、日記に書くことさえ憚られた。だから、彼らの記述がどこまで「本音」かどうかは何とも言い難い。昭和史家の保阪正康さんは「そういうことを書きそうな人間は、いつ特高特別高等警察)に踏み込まれるか分からないから用心する必要があった」と言っている。
覚え書:「太平洋戦争:日米開戦から70年 運命の12・8 作家らはどう記したか」、『毎日新聞』2011年11月30日(水)付。 - ujikenorio’s blog

 それから80年――いつか来た道にまた迷い込みそうな雰囲気は確かにある。

 戦争に終わりがあれば、当然始まりもある。8月15日には、「終戦記念日」として様々な式典が行われるが、12月8日を「開戦記念日」として大々的に報道するようになったのは、私的な印象では、早くても1990年代の後半、実際上は21世紀に入ってからではないかと思われる。それは、太平洋戦争の「開戦日」だけを特定すると、中国で(と)の戦争の「開戦」はいつかという話になるし、そもそも開戦=日本側が先にしかけた戦争=加害責任が問われると、やぶへびになるという判断も働いたのではないかとも想像する。だから、広島・長崎の原爆による惨禍とともに「犠牲者ナショナリズム」「被害者意識」に結びつくメモリアル事業は大々的にやらせても、「加害」を意識させるものはできるだけ避けてきたのではないか。
 しかし、国民意識が内向きになり、「戦争」=「悲惨」という等式が定着してくると、戦争の原因と加害責任を国民の共通認識にすることは曖昧にされて、戦争の結果にばかり目が向くようになってきた。さらにまた、戦争を体験した世代人口が減るにつれ、過去の戦争を都合よく美化することが容易になってくると、戦争史跡や戦争記念日がいっそう「ナショナリズム」と直結させやすくなってきたとも考えられる。これも雑駁な印象に過ぎないが、3月10日の東京大空襲を「記念日」にする動きは、もちろん以前から一部にはあったが、大々的に知られるようになったのはこの10年くらいのことだと思う。

 「ナショナリズム」や「愛国心」と呼ばれるものが、スポーツ観戦で自国を応援する程度の話ならいいが、これが他国や他民族への攻撃に火を付けたり、正当化するものとなるのは困りものだ。「被害者意識」であっても、それは何かのきかっけで「加害者意識」に容易に転化する。「犠牲者ナショナリズム」と「攻撃的ナショナリズム」の距離は半歩に過ぎないことは過去の歴史が証明する。そもそも過去の戦争の開戦理由はだいたいが「自衛のため」だった。

 トルストイの『文読む月日』の12月9日のテーマは、奇しくもこの「愛国心」であった。辛辣である。
……
 (五) 悪党の最後の隠れ家――それは愛国心である。
                        (サミュエル・ジョンソン
 (六) 愛国心は美徳ではない。国家という時代遅れの迷信のために自分の生命を犠牲にすることが、われわれの義務である道理はない。     (テオドルス)
 (七) 現在愛国心は、あらゆる社会的な悪や個々人の醜業を正当化する口実となっている。われわれは祖国の幸福のためという名目で、その祖国を尊敬に値するものとするいっさいのものを拒否するように教え込まれる。われわれは愛国心の名において、個々の人々を堕落させ、国民全体を破滅に導くあらゆる破廉恥な行為に従事しなければならない。                      (ビーチェル)
 (八) 人々は自分自身の欲のために多くの悪を行ない、家族のためにさらに多くの悪を行うが、愛国心のためには最も恐るべき悪虐行為、たとえばスパイ行為、民衆に対する苛斂誅求、悲惨極まる人間虐殺である戦争等を行ない、しかもそれを行う人がそうした悪虐行為を自慢しているのである。
 (九) 現在のように全世界の諸民族間に交流が行われているときに、単に自国のみに対する愛を説き、いつなんどきでも他国と戦争をする心構えでいるようにと説くこと――それはちょうど現在睦まじく暮らしている人々のあいだにあって、単に自分の村だけを愛せよと説き、各村に軍隊を集め、要塞を築くようなものである。以前は一国の国民を一つに結んだ祖国への排他的な愛も、人々がすでにあらゆる交通機関や、貿易や、産業や、学問や、芸術や、ことに道徳的意識によって結ばれている時代では、それは人々を結合せしめず、むしろ分裂させるだけである。
 (十) 自分の祖国への愛情は、家族への愛情と同様に人間としての自然な性質であるが、それはけっして美徳ではなく、それが度を超して隣人への愛を破壊するようになれば、むしろ罪悪と言わねばならない。
 (十一) 現代の人々にとって愛国心はあまりにも不自然で、無理矢理鼓吹されねば生じない代物である。
 それで政府や、愛国心が自分の利益になる連中が、やいのやいのとそれを鼓吹するのである。……

(北御門二郎訳、下巻、395-396頁)



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