内田樹さんが昨日(5月2日)のブログで、ロシアと日本に共通しているのは「未来のあるべき姿」を提示できないことだと書いています。
……外形的な数値ではまだ日本の方がまさっているけれど、長期低落傾向に伴う社会的閉塞感は両国に共通している。
システムの刷新が行われず、権力が一握りのグループに排他的に蓄積し、イエスマンしか出世できず、上司に諫言する人は左遷され、「オリガルヒ」や「レント・シーカー」が公共財を私財に付け替えて巨富を積む一方、庶民は劣悪な雇用環境の下で苦しんでいる・・・列挙すれば共通点はいくらでもある。
安倍晋三元首相がプーチン大統領に「ウラジーミル。君と僕は、同じ未来を見ている」と満面の笑みで語りかけたのは、今にして思えば、あながちリップサービスでもなかったのである。たしかにこの二人の権力者が見ていた未来はかなり似ていた。それは「未来がない」ということである。
ロシアと日本に共通しているのは「未来のあるべき姿」を提示できないという点である。どちらの国でも指導者が語るのはもっぱら遺恨と懐古と後悔である(「あいつのせいで、こんなことになった」「昔はよかった」「あのとき、ああしておけばよかった」といった文型が繰り返される。)
その怒り悲しみは主観的には切実なものなのであろう。だが、それがどれほど本人にとって切実であっても、未来を胚胎しないメッセージは他者の胸には響かない。「ああ、そうですか。それはたいへんでしたね」という気のないリアクションしか返ってこない。
……
ウクライナ侵攻が始まって1ヶ月がたった3月下旬、ロシアの独立系調査機関(レヴァダ・センター)が実施した世論調査では、回答者(1,632人)の81%が「戦争」を支持する(「明らかに支持53%」/「どちらかというと支持28%」)と回答していて、ロシアに暮らす人びとの大半はこの「戦争」(特殊作戦)に賛同しているとみられています。
The conflict with Ukraine – Levada-Center
政府のプロパガンダがあるとはいえ、太平洋戦争開戦直後の日本は、おそらくこれ以上の「支持」モードだったことでしょう。戦況が悪化し、自分たちも爆撃されて死に直面する危機が迫っても、なお為政者に文句も言えず、ひたすら耐えるしかなかった。亡くなった両親もそんな感じで話していました。親の兄弟や親類で命を失った人は何人かいました。日本全体では300万人もの人が亡くなっています。旧ソ連では桁がひとつちがいます。戦争が終わって、生き残った人びとのなかに小生の両親も運よく入れました。父親は飛んできたグラマンの掃射を受けてあやうく死にかけたと言っていました。もう二度と戦争はごめんだと思うのは当然のことだと思います。
戦後、戦争放棄や戦力不保持の憲法9条ができたのは、もう戦争はしない、したくないという声の現れでしょう。これを、アメリカの「押しつけ」で「自主憲法」でないからダメだと言う人がいますが、たとえば、麻薬中毒の人が、覚せい剤取締法なんぞを俺に「押しつけるな」、自分は自分だ、麻薬を手に入れて何が悪いんだと言い張ったら、やはり「押しつけ」はよくないから覚せい剤取締法はなくした方がいい、と思うのでしょうか。
特に憲法9条の条文を意識して、みんなが戦後を生きてきたわけではないでしょう。しかし、何をおいても平和であること、爆撃で死なないこと、それだけでも明日への希望です。戦後の日本社会もそうだったのではないかと思います。日本の憲法9条はその体現です。ウクライナの人びとの様子を知ると肌身でそう感じます。
しかし、病気で(自称 診断書なし)総理大臣の職を辞したはずが、なおも憲法を“変える”ことを至上命題にして発言なさっているこの方は、それでいったいどんな「未来」を描いているのでしょうか。我々を巻き込んで、その先にどんな希望が見出せるのかと、以下の動画を見ていると、痛切に思います(Dr.ナイフさん、借用をお許しください)。
それでいて、この方が、追慕というか、懐古する昭和30年代、「ALWAYS 三丁目の夕日」が現すような日本の姿は、乱暴なことを言えば、「防衛」をアメリカに任せて「自国経済」に専心できたという意味では、多分に “憲法9条のおかげ“ と称してもいいような時代です。憲法9条を変えて、「大日本帝国」のような時代にした方がいいということなのでしょうか。
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