ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

プーチン崇拝の精神的風土論について

 ロシア文学研究者・亀山郁夫氏のインタヴュー記事を読みました。大変興味深かったのですが、部分的に承服できないところもありました。
 3月13日付毎日新聞の記事から一部引用させてください(聞き手は大野友嘉子・記者)。

ロシア文学者を「絶望」させたプーチン氏の「最後の夢」 | 毎日新聞
「強権の中での自由」 プーチン氏を生んだロシアの土壌 | 毎日新聞

――ウクライナとロシアの民意のへだたりを感じさせます。しかし、21世紀のロシアになぜプーチンのような政治家が現れたのでしょうか。
 プーチン崇拝を理解するには、まず、ロシア人のメンタリティーを理解する必要があります。
 彼らは、基本的に政治に無関心なのです。というより、むしろ神と大地に忠実なのです。(ロシアの哲学者)ベルジャーエフは「終わりの民」といい、(ロシアの美術史家)ヴェイドレは「成熟を知らない民だ」と言いました。まさに、ゼロか1かの2進法が彼らの歴史のリズムです。そうした彼らの精神性を称して、20世紀を代表する作家の一人、ワシーリー・グロスマンは「千年の奴隷」と言い切りました。
 ロシアの人々の間では、個人は全体の中にあってこそ自由だという考えが根強くあります。歴史的には「全一性」という言葉で表現されます。それに対して西欧における「個人」の理解は、人は集団から出て個人になった時に自由で自立するものだという考えに立脚しています。
 つまり、先ほども言いましたように、個人としての自立の意志がとても弱い。それはそれで、ロシア人の素晴らしい特性だと思うし、彼らの芸術の根源に潜む魅力の正体でもあります。そこが、最大の謎なのです。私は、最近、19世紀の詩人チュッチェフの言葉を頻繁に思い出します。
 「知もてロシアは解しえず/並みの尺では測りえぬ」
 西欧的な「知」では、ロシア精神の根本にあるのは分からない、ということです。私は、この謎と(ママ)解くカギが、マゾヒズムと犠牲への欲求にあると見ています。
 このメンタリティーは、当然、政治にも反映され、強力なリーダーを求める傾向が生まれます。ロシアの精神風土において、強大な権力は、地水火風のように自然になじんでいるのです。

 ロシア人の「メンタリティー」というか、国民性や民族性というのは、あると言えばある、とは思います。同じ外部刺激(インプット)に対して、ロシア人(の大多数)と日本人(の大多数)とでは反応(アウトプット)が異なると感じることはあるでしょう。そんなことを経験的に語れるほど、場数を踏んでいるわけではないのですが、たとえば、挨拶について言うと、一般にロシアの人は女性から男性に向かって先に挨拶するというのは失礼に感じるようです。これは年齢や立場の上下に関係なく。だから、日本に来たロシア人女性は、何で挨拶してくれないのかと日本の男性に釈然としない思いを抱いているかもしれません。

 しかし、こうした習慣、エチケットの話を政治の世界にまで拡大させるのはさすがに躊躇します。プーチン大統領を長期にわたって支持するロシア人の「メタリティー」(国民性)とこうした習慣の類いがどう連続しているのかはわかりませんが、しかし、そのプーチンウクライナへの侵攻を選んだからといって、ロシアの人びと全体が総意としてこの侵攻を支持しているわけではありません。多くのロシア国民が政治に無関心であることと、個人としての自立の意志がとても弱く、「神と大地に忠実」なロシア人の「精神性」とを結びつけるのにはやはり違和感を覚えます。独裁者を生む精神的風土と独裁の背景はイコールなのか、むしろ、イコールでないところに焦点を合わせるべきではないのか。これは、先日引用した米国のジョン・ダワー氏による「日本特殊論」への異議にも通じる話です。もう一度その箇所を引用してみます。

……これまでアメリカ人は「真珠湾にいたる道」にばかり焦点を当ててきました。その通説的、一般的な日本人観は、「西洋の合理性の観点から、日本人の思考を理解することはできない」、「この国はつい最近まで封建時代だった」、「日本が対米戦争に突入したのも、日本固有の何か(文化や歴史、思考様式)による」というものでした。
 たとえば、アメリカ海軍の研究者であるサミュエル・E・モリソンは、「真珠湾攻撃は戦術としてはすばらしかったが、戦略的には愚かだった」、「歴史上にもないほどの愚かな戦略だ」とし、その理由は「日本人がとても変わっているからだ」と言っています。しかし、イラク戦争におけるアメリカの泥沼を目の当たりにした私たちには、70年前に日本のしたことが日本特有の話ではないことが分かります。これは他の多くの社会でも見つかることで、日本の文化とは無関係なのです。
 イラク攻撃に至るアメリカ・ブッシュ政権の意志決定過程を調べると、それは、真珠湾攻撃に至る日本の意志決定プロセスと非常によく似ていることが分かります。私たちは真珠湾以前に日本で行われた連絡会議と御前会議一年分の資料にあたり、また、アメリカがイラク戦争に関わっていく過程についての文献を細かく読んだのですが、この二つはとてもよく似ているのです。どちらも、理性ある人間と見られるメンバーがとんでもなく不合理な決定を下しています。一同が「国家の安全保障のため」、「我々の大義は正当だ」と主張します。また、「我々がやっていることは、中国に(アメリカは中東に)平和をもたらすためだ」と。それに異議を唱える者が出ると、「愛国心が欠落している」と糾弾する。「ちょっと待て、それは無茶だ」などと言えば排除されるのです。しかし、こうしたことはほとんどの社会の意志決定レベルで起こりうることなのです。
 また、西洋人が第二次世界大戦における日本人を評してよく使うお気に入りの言葉があります。それは今日まで使われている「日本人は従順な民で、みな右に倣えをする」というものです。確かに、日本人はそういう形で戦争に身を捧げました。しかし、それと同じことが9.11(同時多発テロ)以後のアメリカでも起き、イラク戦争のときにも起こっているのです。アメリカでは、こういった「集団思考」が自国の社会に組み込まれていると考える人はいないのに、日本社会には組み込まれていると考える。それは思い違いです。戦争へと至った道を、日本文化の特殊性によって説明するのは価値がないのです。

(NHK取材班編『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』、149-151頁、要旨)
歴史は何の役に立つのか? - ペンは剣よりも強く

 戦争への道を日本文化の特殊性で説明することに「価値がない」とまでは思いませんが、小生にとってはダワー氏の話の方が説得力があります。問題を国民や民族の特殊性に帰すやり方は、お互いに理解できないのだから仕方ない、ということになって議論封じになりかねません。もしかりに、ロシア固有の精神性があったとして、また、それを他国民が理解するのが難しかったとしても、プーチン独裁のしくみや彼の判断のプロセスは、ロシア人にしか理解できない類いのものではないでしょう。もし、そうなら、我々がその適否を判断し、責任を追及することは当然できなくなります。
 最終的には「好み」の問題になってしまうかも知れませんが、このケースは特殊論よりも普遍論に比重をおいて語るべきだという思いは消えません。毎日ウクライナの惨状を目にしていたら、なおさらです。これをロシア固有の精神性の「産物」で、ロシア人以外の人には理解できないなどと一体誰が思うでしょうか。



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