ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

歴史は何の役に立つのか?

 明日は3月11日。
 あの日の夜、真っ暗になった道を灯りがひとつ、またひとつと、学校に向かってきて、最後の生徒を送り出してから慌てて自宅に戻ると、家の中は無茶苦茶になっていましたが、家族は無事でいてくれました。津波原発のことを知ったのはその後のことです。懐中電灯をテーブルに置いて父親と母親と一緒に遅い夕食をとりました。戦中を知る二人は、何てことはないという構えで、頼もしくさえ感じられました。しかし、11年が過ぎて、二人とも今はもういません。小生にとっては、それなりの時間が過ぎたように思いますが、あの日から時間が止まったまま明日を迎える人もいます。
 昨日、精神科医香山リカさんの新聞コラムを読んでいて、そのことを考えました。香山さんのおっしゃるとおり、「何十年前のことでもつらいことはつらい」、震災から何年たとうが、「悲しいまま」の人たちを忘れてはいけないと思いますし、それは、小生にとっては、今のウクライナの人たちを思うことにもつながっています。
香山リカのココロの万華鏡:つらいままでいい /東京 | 毎日新聞

 もうひとつ、科学史家の杉本舞さんが学生さんから「歴史は何の役に立つのか(いや、役に立たないのでは…)」と問われたという3月7日付のTweetにも目が留まりました。引用させていただくと、

大学で歴史学の授業をしていると、毎年必ず「歴史は何の役にも立たない分野だと思うのですが…云々」という枕詞の質問が学生さんから出る。そのたびごとに「そんなことはない。歴史学の成果は何度も、色んな(政治的)主張を正当化するのに利用されてきた。科学史もそうだった。
歴史が『役立つ』ような場面こそ、よくよく立ち止まって考えないといけないし、授業ではそういうときにどうするかを学んで帰ってほしい」と言ってきた。

<以下略>
https://twitter.com/MaiSugimoto4/status/1500823759242297344

 小生は高校生くらいまでは、歴史ではなく数学に、その学生さんと同じような思いをもっていました。高校1年の数学の最初の授業で、先生は授業のガイダンスや自己紹介をするではなく、いきなり黒板に数式を書いて因数分解を始めたので(笑)、高校ってすごいところだと驚きました。その後、3年間、数学は自分の中ではほとんど暗号の解読かパズル解きの繰り返しで、これが何の役に立つんだろうかとずっと思っていました。少し数学という学問の俯瞰的な話や実際に数学が「役に立っている世界」の話でもあればちがったかもしれません(いや、話はあったのに小生が聞いていなかっただけかもしれませんが)。ですから、こういう疑念が出てくるのはわかりますし、これは必ずしも理系の学生さんだから出てきた質問(クレーム?)というわけではないと思います。「すぐに役に立つものは、すぐ役に立たなくなる」(経済学者・小泉信三氏?)などと、わかったような顔をしてみても、生徒や学生相手に何かを教える立場になると、この種の問いには、歴史や数学に限らず、相応に答える必要がでてくるのは確かです。

 歴史は「暗記科目」なのでしょうか――これについて、ヴェトナム史が専門の桃木至朗さんは著書の『わかる歴史・面白い歴史・役に立つ歴史』(2009年)で、概略こう書いていました。

……歴史教育における暗記の話をすると、人名や事件、年代に関する一定の「知識」は確かに必要です。重要な知識については暗記しておかなければ、詳しく調べたり考えたりすることは不可能でしょう。しかし、それが単なる知識で終わったのでは意味がありません。歴史的事象の意味、影響、因果関係、パターンなどを理解し、既知の関係やパターンに照らして新しく知った事象を考察することが必要です。高校の先生が「時代の流れを理解しなければならない」とよく言うのも、それに関係しています。小田中直樹さん(歴史研究者)は世界史教育が育てる学力を、複数の事象を「つなぐ力」と「くらべる力」だと言っています。社会の担い手としての思考力や判断力は、地理や歴史ではなく、公民の科目で養うべきかどうかは議論が分かれるでしょう。しかし、かりにそうだとしても、教師が説明を一切なしに「無限の事実の羅列」を行うことは不可能だし、それでは授業にならないでしょう。また、もし、それをやったとしても、受け手の生徒は、ある「事実」と「事実」の間には必ず頭の中で一定の解釈やストーリーを付け加えるでしょう。
 このように考えると、歴史の学習というのは、化学や生物、英語などの学習に似ていないでしょうか。元素記号や生物の名前は覚えなければならないし、反応式は暗記だけではすまないし、分類には共通性と異質性を導き出し整理する能力が必須だし、英単語をいくら覚えても、文法を理解し応用できなければ、英語を使えるようにはなりません。実際の受験勉強では、これらの科目でも暗記に偏りがちですが、だからといって、これらの科目をふつう「暗記科目」とは言いません。なのに、なぜか、歴史は暗記科目と言われてしまうのです。

(桃木、同書、69-70頁の要旨)

 歴史なんて何の役に立つのか!?(つまらない!)と思う理由の大半は、この無意味な「暗記」にあります。小生が数学を「暗号の解読」と思ったのと同じです。だから、まず、ここがそうでもないことに気づくと、世界は一変すると思うのです。

 長くなりそうな話なので、機会を改めて書くことにして、最後に一つだけ、米国の日本史研究者ジョン・ダワーさんのインタヴュー記事から引用させてください(要約です)。これは1930年代の日本と2003年から8年以上も続いたイラク戦争の開戦当時の米国の類比を語ったものですが、今のロシアにもよくあてはまる話です。これも歴史は何の役に立つのかを示す一例のように思います。

――1930年代の日本をとりまく複雑な事情についてお聞かせください。
 私たち(アメリカ人)は今1930年代の日本について、今までとはちがった理解をしはじめています。これまでアメリカ人は「真珠湾にいたる道」にばかり焦点を当ててきました。その通説的、一般的な日本人観は、「西洋の合理性の観点から、日本人の思考を理解することはできない」、「この国はつい最近まで封建時代だった」、「日本が対米戦争に突入したのも、日本固有の何か(文化や歴史、思考様式)による」というものでした。
 たとえば、アメリカ海軍の研究者であるサミュエル・E・モリソンは、「真珠湾攻撃は戦術としてはすばらしかったが、戦略的には愚かだった」、「歴史上にもないほどの愚かな戦略だ」とし、その理由は「日本人がとても変わっているからだ」と言っています。しかし、イラク戦争におけるアメリカの泥沼を目の当たりにした私たちには、70年前に日本のしたことが日本特有の話ではないことが分かります。これは他の多くの社会でも見つかることで、日本の文化とは無関係なのです。
 イラク攻撃に至るアメリカ・ブッシュ政権の意志決定過程を調べると、それは、真珠湾攻撃に至る日本の意志決定プロセスと非常によく似ていることが分かります。私たちは真珠湾以前に日本で行われた連絡会議と御前会議一年分の資料にあたり、また、アメリカがイラク戦争に関わっていく過程についての文献を細かく読んだのですが、この二つはとてもよく似ているのです。どちらも、理性ある人間と見られるメンバーがとんでもなく不合理な決定を下しています。一同が「国家の安全保障のため」、「我々の大義は正当だ」と主張します。また、「我々がやっていることは、中国に(アメリカは中東に)平和をもたらすためだ」と。それに異議を唱える者が出ると、「愛国心が欠落している」と糾弾する。「ちょっと待て、それは無茶だ」などと言えば排除されるのです。しかし、こうしたことはほとんどの社会の意志決定レベルで起こりうることなのです。
 また、西洋人が第二次世界大戦における日本人を評してよく使うお気に入りの言葉があります。それは今日まで使われている「日本人は従順な民で、みな右に倣えをする」というものです。確かに、日本人はそういう形で戦争に身を捧げました。しかし、それと同じことが9.11(同時多発テロ)以後のアメリカでも起き、イラク戦争のときにも起こっているのです。アメリカでは、こういった「集団思考」が自国の社会に組み込まれていると考える人はいないのに、日本社会には組み込まれていると考える。それは思い違いです。戦争へと至った道を、日本文化の特殊性によって説明するのは価値がないのです。

(NHK取材班編『日本人はなぜ戦争へと向かったのか 下』、149-151頁、要旨)

 今から2、30年もすると、2022年のロシアのウクライナ侵攻は自衛戦争でやむを得なかったと声高に言う人が出てくるかもしれません(今でもプーチン大統領はそう言っています)。それどころか、ロシアのウクライナ侵攻などは幻で、あれはウクライナの自作自演だったとか、ロシア軍は民間人には一切手を出していない、都市爆撃はデタラメだとか…と、まことしやかに語る人がいるかもしれません。なぜ、そんな嘘を言い、史実(事実)をねじ曲げようとするのか、それこそが、歴史が何の役に立つのかを、逆に示しているように思います。



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