ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

清水透『ラテンアメリカ五〇〇年』を読んで

 最初に書いておくと、これは書評ではありません。清水さんの『ラテンアメリカ五〇〇年 歴史のトルソー』(岩波現代文庫 2017年)を読んで、何となく頭に浮かんだことを書き留めたものです。
 本書は講義録がもとになっているようですが、小生のような門外漢にもわかるように非常にやさしく丁寧に書かれていて、著者の人柄が想像されます。

 日本の人がなぜ(日本ではなく)外国の歴史を学び、研究しようと思うのかは、きっかけは偶然であるにしても、常について回る話だと思います。清水さんの場合、大学生のときに貧乏旅行でラテンアメリカを回り、「活字からは想像もできない貧富の格差を目にしたこと」と現地の人々(インディオ)との交流(共感)が「起点」となっているようです。1943年生まれの清水さんには、1950年前後の高度成長前の日本社会の一端が原風景としてインディオ社会と重なったことでしょう。それでも理屈は後付けです。実際は、現地の人々と交流しながら様々な「発見」をし、自分のなかの「常識(偏見)」が壊れていくのが心地よかったのかもしれません。

 15世紀末のコロンブスらの航海をきっかけにヨーロッパに知られるようになった「アメリカ」は、ヨーロッパの人々から、生け贄をし、人肉を食べる「野蛮人」の住むところと思われていました。本書の第4話(第4章)に興味深いことが書いてあったので引用します。

 一五四三年、ポルトガル人が初めて種子島に漂着して以降、日本にとってはアメリカ大陸もヨーロッパも区別なく「南蛮」と一括されていました。最初は討つべき「南蛮」、それが「南蛮渡来の」といった表現に象徴されるように、「文明」の進んだ「南蛮」というイメージに変わってゆく。ところが、野蛮イメージの到来とともに徐々にアメリカ大陸とヨーロッパは切り離され、「野蛮のアメリカ大陸」、「文明のヨーロッパ」という形で区別されていったと想像することができます。その後日本人が書き遺した江戸末期の古地図にも、墨で地名とともに「人肉を食する大陸」という説明が入る。明らかにヨーロッパから伝わった、カニバリズムアメリカというイメージが定着していったものと考えられます。(同書、76頁)

 16世紀、まだ「近代」には遠いのですが、「南蛮」からヨーロッパを分離したことが日本の「文明」観(裏を返せば「野蛮」観)の重要な要素となったようです。それから300年後、日本国はヨーロッパの「文明」に追いつこうと必死になり、そのまた100年後にその「文明」化路線は戦争によって「破綻」しました。清水さんが幼い頃に見たはずの原風景は、この「破綻」後の社会であり、にもかかわらず(当たり前ですが)みんなで乗り切っていこうとする人々の姿であったと想像します。

 現在の日本社会はどうなのでしょうか。最近気になったTwitterの書き込みが2つあります。
 大和高田市の市議・向川まさひでさんの1月3日のTweetにはこう書かれていました。引用をお許し願います。

https://twitter.com/muka_jcptakada/status/1477957504256843778

年末で職を失い途方に暮れている人たちに対して、「なぜ転職しなかった」「なぜスキルアップしなかった」「なぜ貯金しなかった」「なぜ人脈を作らなかった」「なぜこういう時に頼れる家族がいない」「自分の失態で助けを求めるな」という言葉を投げつける、12.3年前と変わらぬ投稿群を見て愕然とした。

あれから一周りの年月が過ぎても、自己責任論の病が膏肓に入っている感じがする。そして、こうした見解のボリュームゾーンは、おそらく自分と同年代、40代前半を中心とした30-50代の年齢層の男性だと思う。氷河期の中、一定の立場を得た者が同輩に対し優越感を抱くことは少なからずであっただろうし、

その後も必死で「生き残って」来た人生で、自分の幸運を喜ぶよりも専ら努力の結果と思いたくなる人も多いだろう。それゆえ、転落し路頭に迷った同輩に冷淡であるのだろうと思うが、いささか病的に、彼らを責める理由を見出して、彼らに同情や惻隠の感情が生じるのを打ち消しているようにも見える。

彼らに同情や共感を寄せることは、自らの努力、自らの人生を否定することのように思えているのではないかとも思う。そして、彼らと自分たちが何かの契機で入れ替わっていたかもしれない、地続きの存在であることを自己責任論を振り回して必死で消そうとしているのかもしれない。

2つめは、1月9日付の「棺桶の浮間・かわのあい」さんのものです。これも引用をお許しください。

https://twitter.com/ukimacloset/status/1480078696514220034

昨日炊き出しの衣類コーナーで「靴はありますか?」と20代後半位の男性から聞かれた。「ごめんなさい、今日靴はないんですよ」と答えながら彼の足元を見るとビニールテープでぐるぐる巻きにしたサンダルを履いていた。履いているというか底が抜け落ちていて靴下で歩いている状態だった。これはまずいと

あたふたしていると横にいた男性スタッフの方が彼に「足は何㎝ですか?」と尋ねた。男性「25㎝です」スタッフ「私も25です。これ履いてください。私は車に長靴がありますから」と言いその場で履いていた靴を脱ぎ男性にあげたんです。一瞬も悩むことなくそうした。私は脳天に電気が走ったみたいになった

男性は遠慮しながらも受け取った靴を履いて「ほんっと今日来てよかったあー。家なくて路上生活なんで助かります。頑張って元の生活に戻ります」と笑っていた。帰りに商店街を通ると閉まったシャッター前で薄い毛布を顔までかぶり横になっているおっちゃんがいた。福岡は来週寒波の予報。はよ冬終われ。


 日本からは遠く離れたラテンアメリカ社会の歴史を自分とつなげて考えられるのは清水さんのおかげだと思いました。このつながりはあまり心地のよいことばかりではないのですが、それでも国や社会が、また自分自身がどういう方向に進むのがのぞましいのかは、二人のTweetと清水さんの著書から見えてくると思います。



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