ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

情動の暴力

 今日は短く。
 5月2日、知床の遊覧船事故で亡くなった男性の告別式があり、会場には、一緒に乗船していた交際相手にプロポーズしようと準備し、渡せなかった手紙も置かれていたといいます。ここまではいいとして、テレビや新聞でその手紙の内容まで報道されていたのには驚きました。ここまでする必要があるのか疑問を感じます。報道する側は、「いや、遺族の許可はとってますから」とか、ひょっとしたら「これは遺族の意向ですから」と言うのかもしれません(「みんな見たいと思ってるくせに」と)。かりにそうだとしても、その手紙は私信であり、交際相手以外の誰かの目に触れるという前提があって書かれたものではありません。当人が亡くなったからプライバシーはもう関係ないと、公にしてよいものではないと思います。この男性や遺族に同情し、各々がさぞかし無念だったろうと思うのは自由です。しかし、手紙の具体的内容まで知らなければ共感し同情できないという話ではないはずです。

 ブログやTwitterなどSNSの世界が広がり、公私の垣根が再編されているようです。まったく知らない第三者の「内面」(公に向けた私心)をいつでも誰でも知りうる時代になって、こうしたことへの抵抗感がなくなっているのかもしれませんが、かりにそうであっても(むしろ、そうだからこそ)、死者の名誉やプライバシーの尊重、周りがもつべきデリカシーというか、死者に対する配慮心は必要なのだと思います。今回の報道は、死者の想いを無理矢理=暴力的に人目に晒したようで非常に後味の悪さが残ります。

 と言いながら、我がごとを振り返るに、母親が亡くなって遺品の整理をしていたら、母親が子どもの頃に書いたらしい日記が出てきて、この話を叔母(母親の妹)にしたところ、見たいというのでそのノートを渡してしまったのですが、あとで後悔して、程なく電話したところ「涙なしには読めなかった」と言われて、余計にしてはいけないことをしてしまった気分になりました。今でも家の中の片づけをしていると母親の手記(テレビの料理番組や健康番組のメモを含む備忘録)が出てくることがありますが、小生もふくめて家族についての機微な走り書きもあり、兄弟にも必要以上には触れないようにしています。もし、母親が何かの事件に巻き込まれて亡くなった人で、メディアの記者から何か故人を偲ぶ材料がないかと言われたと仮定しても、これらの日記や手記(備忘録)を公にできるかというと、小生にはさすがに無理です。

 喜怒哀楽や不安など、人間の一時的な感情の揺れを情動というようですが、人間の情動による行為に暴力性を感じる場面は他にもあります。不慮の事故で亡くなった方へ花をたむける行為、これは否定すべきこととは全然思わないのですが、事故などの「現場」となった場所に山と積まれた花束は、小生にとっては異様に映ります。2年前、京都アニメーションの放火事件で多数のスタッフが亡くなったとき、毎日毎日弔問に訪れる人たちによって花束が積み上がる情景が報道されていました。弔いたいという気持ちはわかりますが、なぜ何をおいても花束なのか。静かに手を合わせるとか、黙祷するだけではダメなのか。
 花束も人の気持ちであり、そのまま野ざらしというわけにいかないでしょうから(よくはわかりませんが)、誰かが「管理」することになるのでしょう。京都アニメーションの事件の場合、社員の方でしょうか、大量の花束を毎日毎日けなげにどこか別の所に移していたようですが、事件に遭遇して悲しみの中にある側に、あえて必要のない仕事を押しつけているのではないかと思います。しかし、弔意を御旗にして、私も私もと、大勢で後から後から押しかける。ここにも「暴力」が隠れていないかという気がします。

 暴力自体、そもそも情動的なものでしょうが、暴力を使う側には、だいたい一方的な思い込みや独善が幅をきかせています。相手も自分と同じと思って顔を思い浮かべれば、多くの場合は、「戻って」こられると思うのです。

<…と言ってる当人が「情動」的ではと反省し、一部文面を削除しました。お詫び致します。>




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