ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「教え子」の一言

 先日親交のある元「教え子」のA君から久しぶりに電話がかかってきた。「お変わりないですか?」と訊かれたので、父親が亡くなったことを話すと、実はA君自身も去年父親を亡くしたのだという。脳梗塞で倒れたと聞いてはいたが、小生などよりたいそう若いのに、さぞ辛かったろうと言うと、一番大変だったのは介護していた母親で、自分は言われるがままに動いただけだと。まあ、それはともかく、A君の父親が亡くなったあと、A君の母親も今までできなかったことをやろうとあれこれ動きはじめて、今は元気になった。肩の荷が下りたみたいなことも言っていたと。「先生も、本音の部分ではホッとしたでしょう?」と言うのだが、これは意外な一言だった。

 病気や介護の辛苦は一概には言えないし、また安易に他と比べられるものでもないだろう。A君の母親が「肩の荷が下りた」というのに嘘はないとして、さて、自分はどうかというと、確かに「肩の荷が下りた」部分がないではないが、それで「ホッとした」と言えるかというと、それも首肯しがたい。
 小生の父親の場合、痴呆が進んで、こちらの思うとおりに物事が進まないことが日増しに多くなっていた。それで困惑していたのは事実だし、何かをうまくやれない、やろうとしない父親を怒鳴ったりしたことも一度や二度ではなかった。しかし、怒っても事態が好転することは決してないわけで、あとで後悔や反省することが度々だった。それは、呆けているとはいえ、父親にしても同じことだったように思える。

 介護が「労苦」だけだとしたら、介護を職としている人はどうだろうか。たとえ給料がよくても(実際は全く逆であきれるが…)こういう仕事をやろうと思うかどうか。ことは人間同士がかかわることで、そこにはかけがえのない時間が流れている。これはおそらくきれいごとでもないと思う。
 父親が入所していた施設に洗濯物を届けるとき、歩行訓練やリハビリに携わる職員の様子をたびたび目にしてきたが、相応の信頼関係に支えられていないとこれはできないといつも感じていた。父親についても懇切丁寧だった。これを単なる「労苦」とみなせるかどうか、これは大きな違いとなるだろう。

 「労苦」か「労苦」でないか、こうした二分法的思考をおそれる。白か黒か――というより、白でないものはすべて黒とみなすような思考や発想。それに利害や快楽を絡めて相手をくさすやり方。「立派なことを言ってるけど、どうせ最後はお金でしょ」とか「最後はみんな自分がかわいいんだから」式の貶め方。残念ながら、これが通じてしまう実例には事欠かない。しかし、これは世の人の分断に帰結していると思う。沖縄の辺野古だったり、福島の被災地だったり、挙げ句は、歴代の総理大臣が「内閣の最優先課題」と言い続けている北朝鮮拉致問題だったり…。「当事者でもないのに、何をご立派な教説を並べて…」と。しかし、これらは「当事者」が問題なのではなく、「当事者以外」が問題なのだ。

 少し話がそれた。
 子どもがまだ小学生だというA君には、「君も子どもに時間がとられるからって、子どもがいなければもっといろいろと自由にやれるのにと。たまには子どもがいない日があればホッとすることはあるかも知れないが、でも、だからといって、子どもがいなければいい、とは思わないだろう。」と、あとで思ったが、こんなことは言うべきではないし、言わなくてよかったと改めて思う。彼も表現は違えど、「お疲れ様でした」とこちらを慮ってくれたのだ。その気持ちをありがたく受け止めたい。




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