ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

相模原のパラリンピック採火のこと

 聖火リレーのスタート地点を福島にしたのは「復興五輪」をアピールするためだとされてきた。しかし、それが見せかけだけの欺瞞であることは周知のことだ。もはや「見せかけ」にさえなっていないかもしれない。直接見たわけではないが、10年前の災害直後そのままの街の通り、農村風景…。映像をみるたびに、この10年は何だったのかと思う。まして、10年前に避難した人々の多くはなお生活再建に難儀しているのだ。
 「復興」がウソであっても、復興を願う気持ちは多くの人に共有されている。肝心の復興を疎かにして、最初からその願いに便乗(悪乗り)して「やってる感(ふり)」だけは示す、そういう発想で物事が延々と「処理」し続けられてきた。コロナ対策も同様で、まったく “心がない” 。こういう「種類」の人々が「人類」とかいう言葉を振り回して、「人類がコロナに打ち勝った証し」などと言うのである。小生はそういう「人類」からは外していただきたいと強く願う。その結果が(「非人類」でなく!)「非国民」なら、それでもよい。「人非人」と呼ばれることの方が耐えられない。

 今朝の新聞で知った、相模原市パラリンピック採火の話も同じくらい “心がない” と感じる。こうしたことを発案すること自体愚かだが、総意としてこれを否定し、止めることができないのが、今のこの国の組織倫理であり民主主義のレベルかと思うと辟易する。もし、今回メディアが取り上げなければ、こうした愚行が大手を振ってまかりとおっていくのだろうか。

 2016年に相模原市障碍者施設「津久井やまゆり園」で入所者が襲われた「事件」はまだ生々しい。今年でまだ5年である。建物は建て替えられ、この8月からは新しい施設として入所ができることになっているようだが、遺族や関係者が受けた心の傷はなお深いと思う。しかるに、なぜ、東京パラリンピックの聖火の採火をここでやろうとするのか。遺族や被害者でなくとも「違和感」をもつのは当然である。組織委員会や行政にこうした感覚をもつ人はいないのだろうか。また、組織の総意として「いくら何でもそれはやめましょう」ということにならないのだろうか。

 毎日新聞デジタル4月12日付記事にあった関係者の声。

やまゆり園遺族ら「寝耳に水」「違和感」 パラ聖火の採火に疑問 | 毎日新聞
 
お祭りとは次元が違う
 息子が重傷を負った父親:遺族や被害者家族の心の傷は癒えていない。事件の重
  みに寄り添った配慮をしているとは到底思えない。
  パラリンピックはお祭り。次元の違うところをくっつけて、(東京パラを)PR
  したいだけに思えてしまう。(県と市が遺族や被害者家族に事前の相談なく採火
  を決めたことは)寝耳に水だった。

感覚のズレを感じる
 娘を亡くした母親:(代理人弁護士へのメール)家族が犠牲になった場所で採火
  が行われるのは違和感があります。遺族の気持ちがないがしろにされるようで悲
  しい。どんなに歳月が過ぎても悲しいままです。
  採火を決めた方々には感覚のズレを感じます。家族が犠牲になったらどんな気持
  ちになるか考えたことがありますか? 自分の家族に置き換えて考えていただき
  たい。


 そもそもこんな状況で選手や関係者に感染リスクを負わせてまでパラリンピックを強行するのは、選手たちを「見世もの」としてしか見ていないのではないかと疑う。とても「人類」の英知と良識を集めた祭典とは思えないのだが……。


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