昨日土曜日の毎日新聞の記事から。2面の連載コラムの担当は編集委員の伊藤智永さんでした。私的な印象ですが、最近の伊藤さんの記事には、「挑発的」と言ったら語弊がありますが、逆説的と言うか、リアルな問題提起を含むものが目につきます。昨日のコラム「土記」では、「新聞は戦争を止められるか、ノーである」と書いています。
土記:戦争反対はなぜ敗れたか=伊藤智永 | 毎日新聞
人気評論家が、戦後80年に絡め「なぜ新聞は戦争を止められなかったのか」と問いかけていた。
ん、と引っかかる。問い方を変えてみよう。「新聞は戦争を止められるか」。ノーである。評論家は、1970年代にアメリカの新聞がベトナム戦争の内幕や大統領の陰謀を暴いた栄光から、いつの世の新聞にも同じ力があると幻想を抱いているのではないか。
日本の新聞は戦争とともに大きくなった。売れるからだ。戦争に反対すると売れなくなる。新聞も商品である。経営が成り立たなければ、言論の独立はない。
明治の新聞はお旺盛な政府批判で激しい弾圧を受けたが、日清戦争では主戦論一色になった。朝野挙げて戦勝気分に浮かれた。
日露戦争への論調は、東京朝日など主戦派と大阪毎日など非戦派に割れたが、毎日は部数急減で開戦直前に旗を降ろした。万朝報(よろずちょうほう)も経営難で主戦論に転換。退社した幸徳秋水らは平民新聞で非戦論を続けたが、1年余で廃刊した。
忘れられた時代もある。大正後期の新聞は大いに軍縮の旗を振った。世論も軍隊に冷たく、軍人は社会で肩身が狭かった。昭和初期の軍部の増長は、そうした論調・世相への反動でもあった。
転機は満州事変。発生前から多くの新聞が武力解決をほのめかす軍部支持へなびきだす。軍縮論を貫いた東京朝日は、在郷軍人会の不買運動に屈し、柳条湖事件が起きると主張を変えた。
その後の新聞の大罪は、一切弁明できない。……
新聞は権力の他に、常に世論と相対している。世論を形成する力と責任は大きいが、世論に左右される面も非常に大きい。権力監視を担わないメディアが主流となった現在はなおさらである。
民衆は受け身一辺倒の無力で純粋中立な被害者ではない。誤解を恐れずに書くが、民衆は戦争が嫌いではなかった。軍隊には一般社会と別の権力階層があり、そこで成り上がるうまみがあった。それに、戦争はもうかる。どう言い繕おうと侵略、つまり他国からの収奪は、一時的に物が豊かになったと錯覚させた。何より「愛国」という名の熱狂は、興奮と充実感を与えてくれた。
確かに日本の新聞が全般的に、好戦的な世論をリードした(戦争を煽った)「暗黒史」と呼んでよい一時期があったようですから、「新聞は戦争を止めえたか?」という問いなら、答えはNoかもしれません。しかし、こういうのを結果論で語るのは一面的のように思います。たとえば、どんなに一触即発な状況があっても、新聞の(反戦)報道などによって、具体的な戦闘に発展しなかった(つまり報道によって戦争が抑制された)例があるかも知れないと考えることもできます。おそらくそういうのはあまり「表舞台(正史)」には出てこないでしょうから、記録には残りません。となると、新聞が戦争を止められるかどうか、という問いには、伊藤さんが書くように、止められなかった例がかつて数多くあったにしても、実際止めた例もあるし(ベトナム戦争)、表面化(勃発)する前に抑制・回避させた例があるかもしれないし(実例は不明)、……「わからない」というか「いろいろである」という答えが妥当かもしれません。
伊藤さんの文章の終わり方が「中途半端」なので、誤解を与える余地もありますが、趣旨は決して、「新聞は戦争を止められない、だから、反戦報道は無意味だ」ということではないでしょう。新聞社も一企業であり、新聞(商品)を買ってもらわなければ経営が成り立たない以上、世論の動向に大いに左右される面があるというのは確かです。あと、民衆が戦争が嫌いというわけではない(……この続きは書かれていませんが、それゆえ、今後も好戦的な記事が書かれる可能性が大いにある)」というのも、半分はそのとおりだと思います。しかし、そうでない、戦争は嫌だと思う「民衆」も同じ程度にはいるでしょう(現在の日本では、意識調査の上からはもっと多いように思われます)。
「なぜ新聞は戦争を止められなかったのか」とか「新聞は戦争を止められるか」という問いの立て方だと、事実として戦争を止められなかった例を数多く目にし、結局ダメなんだという「必然論」の罠にはまる人がいるかもしれません。私的には、「どうなると新聞は戦争を止められなくなるのか」という問題の立て方をして、目の前の些細な(と思われる)問題からどう戦争へのレールが敷かれていくのか、また、新聞(ほか、メディア)はどのように批判の牙(というかトゲ)を抜かれていくのかを見ているつもりです。残念ながら、有事法制にしろ、特に西日本の軍備増強にしろ、戦後が「戦前」となる地ならしがされているという意味で、事態はかなり進んでしまっています。見方によっては危機的ですが、「諸力」のおかげで現状何とか「踏みとどまっている」と思いたいのです。
