ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

伊藤俊一『荘園』

 副題は「墾田永年私財法から応仁の乱まで」。荘園とその制度的変遷を追いながら日本中世史を一瞥した労作です。すでにかなりの人に読まれているらしく、今後、この方面の標準的テキストとして読み継がれていくのではないか、と人から言われたので、がんばって読み通してみました。
 正直なところ、日本中世史固有の(専門)用語に慣れるのが大変な面はあります。しかし、この分野には、永原慶二さんとか、網野善彦さんとか、一般にも知名度の高い学者が何人もいて、彼らが巨峰のように聳え立っているわけで、これらいくつもの巨峰を登り、荘園をめぐる研究史を眺望するだけでも大変な仕事でしょうから、それを思えば、新書のこの分量で、よくぞ一般の人にもついていける内容にまとめ上げたと、著者と編集者の労苦には頭が下がります。

 肝心の荘園の制度的変遷をめぐる著者の見方が妥当かどうか、小生には評価できないのですが、この本を読んでいて興味をひかれるのは、その生き生きとした(というのも変ですが)叙述はもちろんのこと、過去の気候変動のデータを積極的に盛り込み、歴史の流れとシンクロさせているところです。気候変動については、現在も大型台風や線状降水帯の大雨による洪水の被害が毎年のように各地であり、全然他人事ではないのですが、中世を生きた人々にとっては、ひとたび干ばつや洪水が起これば、それが飢饉や飢餓に直結するだけに、より切実だったと想像されます。
 たとえば、13世紀、鎌倉時代の寛喜の飢饉については、こう書かれています。

 一二三〇年の夏は異常な冷夏になった。六月九日(新暦七月二七日)には中部地方から関東地方にかけて雪が降り、美濃国生津荘(なまずのしょう)では二寸(約六センチメートル)積もり、信濃国では大雪になり、武蔵国金子郷でもみぞれが降った。京都に住む藤原定家も、寒さで綿入りの衣を取り出して着た。七月一六日(新暦九月一日)には諸国に霜が降りてほとんど冬のようだった。八月八日(同九月二三日)には台風が襲って収穫間近の稲に打撃を与えた。
 大凶作が決定的になると人びとの間に不安が広まった。一〇月に定家は庭の植木を掘り捨てて麦畑を作らせている。明年六月に収穫できる麦は、米が尽きる端境期を乗り切る貴重な食料になるのだ。ところが冬になると逆に異常な暖冬になった。定家は諸国で麦が熟して人びとが食用にしているという噂を耳にし、一一月二一日(新暦翌年一月二日)には実際に麦の穂が出ているのを目撃し、まるで三月(新暦四月)のようだと驚いている。早熟した麦は実が入らない遅れ穂になってしまい、人びとは貴重なつなぎの食料を失った。
 米は尽き、麦も実らなかった翌一二三一年(寛喜三)年六月には、道路や河原に餓死者の死体が満ちた。七月には疫病が流行して身分の上下なく人びとが死んだ。定家が領家職を与えられていた伊勢国小阿射賀(こあざか)御厨では、六月二〇日から七月上旬までの間に六二人の荘民が死亡し、荘民は死穢(死のけがれ)をはばかって上洛しなくなった。
(175-176頁)

 「牛馬はたおれ、人の骸骨は道にあふれ」(177頁)とか、「京都の通りには物乞いが充満し、餓死者は数知れなかった」(236頁)とか、凄惨な記述があちこちに見られます。現在も連日続く35℃度を超えるような熱波は異常気象と称されますが、逆に、夏の7月に雪が降るなどということは想像できません。これが、どんな食糧不安に結びつくのか。今の政治状況を見ていると、飢餓の日常化など絶対にないとは言えません。そういう不安が消えないのは、実際、政府のコロナ対策の不備によって、路頭に投げ出されている人が大勢いるという事実があるからで、報道されないからといって、彼ら彼女らが「元の生活」に戻れたわけではないでしょう。

 全体を通して一番印象深いのは、中世の人々のエネルギーです。欲深い代官や荘官が理不尽な年貢の取り立てをすれば、百姓たちは代官や荘官を訴えたり、どこか山の奥に一斉に逃散(=ストライキ)し、一切農作業を拒否して、彼らを解任に追い込んだりしています。一揆としては、1428年の正長の土一揆が有名ですが、何かあればすぐ生き死にの問題になる時代の緊張感と、政治が守ってくれなければ自分たちで守るしかないという自助と自治の精神が、現在の我々とは比較にならないくらい格段に強かったと想像されます。そして、この農村の自治が荘園の存続を潰えさせた要因のひとつというのは、ちょっと驚きです。

 ……室町時代に入り、……村落結合もいっそう強まり、畿内近国を中心に「惣」を名乗る村落が現れる。これが惣村だ。惣とは「すべて」という意味で、惣村は土豪・平百姓を問わず、その村に住むすべての住人を構成員とし、住人の自治による強い集団規制を持った村落のことだ。
 惣村が生まれたのは、一四三〇年代から露わになった寛政の飢饉を引き起こした田畠の荒廃に直面して、村民自らが耕地・用水などの農業基盤を整備し、周辺の山野を含めた環境を管理する必要にせまられたこと、政治の混乱による治安の悪化に対し、集団として自衛する必要にかられたことによると考えられる。
 ……一四五九年(長禄三)年には、若狭国太良荘からも初めて「惣百姓」を名乗る申状が提出されている。この申状では、若狭国で起こった騒動でほかの荘園の代官は(京都から)下って警固したのに、ここの領主は代官が下るどころか中間(下級の奉公人)の一人もよこさず、様子はどうかと声もかけなかったのは口惜しい、百姓を人と思っていないのか、今後は使者が下ってきても会わないぞと激しい口調で荘園領主を難じている。現地の安全を守れない荘園領主は百姓から見放されたのだ。……
 一五世紀の荘園にはこうした新たな村落が成長し、かつて荘官が行っていた業務の大半が村落によって担われるようになった。荘園によっては村落が年貢の徴収を請け負うこともあり、百姓請や地下請という。一四三〇年(永享二)年の和泉国日根荘では、……村に置かれた番頭が年貢を納入する体制ができていた。荘園領主……が下ってきても、することは特になかったのだ。
 荘園は経営や支配の枠組みとしての実態を失い、荘園の名称もいつしか地域から消え、かわりに村や、村の連合である郷が地域の枠組みになっていった。
(253-254頁)

 時代背景をまったく異にするとはいえ、このわが国にも、かつてはこうした人びとのエネルギーがあったことを再発見した気持ちです。それだけに、今、なぜ、参院選の選挙報道を抑制し、争点をぼかし、メディアは連なる暴言を受け流し、人びとが政治のあり方に関心を向けることを(ある意味必死になって)削ごうとするのか、それはたぶん、人びとの潜在的なエネルギーが噴出するのを怖れている輩が「中枢」にいるからだと思います。

中公新書 2021年9月刊 281頁]


<追記>
 昨日、また県内で自民党衆院議員が愚かな発言をしたようです。自民党って、本当に「人材」の宝庫ですね。選挙期間中の方が普段よりも、暴言・妄言が言いたい放題というのは、どういうことなんでしょう。これは「人海戦術」というか、「暴言もみんなでやれば怖くない」、という党の方針でもあるんでしょうか。JR柏駅でこれを聞いた人は、内容の如何を問わず自民党議員の演説ならば何でも拍手をするのか? もうめちゃくちゃです。でも、これじゃあ、もうやってられない、となったら、相手の思うつぼなのだと気を取り直します。
「女性はもっと男性に寛大に」少子化、未婚めぐり自民・桜田元五輪相 [参院選2022] [自民]:朝日新聞デジタル



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