ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

トルストイ『文読む月日』5

 毎度引用している、北御門二郎さん訳のレフ・トルストイ『文読む月日』(ちくま文庫)の原題は「КРУГ ЧТЕНИЯ(クルーク・チテーニャ 読み物の輪)」という。最も古い訳本は、ロシア文学者・原久一郎さんによる1934年の『一日一善』で、この題名は、1880年代半ば、齢50代後半にさしかかるころ、トルストイが一般の人々の暮らしに役立つ「格言集」を編集しようと思い立った意図を正しく伝えるものとされている。実は、訳本とは異なるが、NHKロシア語講座の講師などを担当されている八島雅彦さんもロシア語学習者向けの抄訳書『ロシア語一日一善』(東洋書店 2008年)という「第三の翻訳」を出している。
 その巻末の解説で、八島さんはトルストイがこの「格言集」に込めた思いについてこう書いている。

…『戦争と平和』および『アンナ・カレーニナ』という二つの大作によって、ロシアを代表する作家というばかりでなく、世界文学の最高峰に登りつめたトルストイを深刻な危機が襲ったのは1870年代の終わりのことであった。それまでは明るく安定して見えていた世界が、暗く不安定なものに見えるようになり、これまで情熱の限りを尽くして取り組んできた芸術という仕事の意味に疑問を抱くようになったのである。そして、これまでの自分の作品の価値をみずから否定して、新たな文学活動を開始したのが80年代であり、そのトルストイの頭に、一般労働大衆の生活に役立つ格言集の編集という考えが浮かんだのである。
 しかし、この思いつきはなかなか実現せず、実際に≪Круг чтения≫(読書の輪)という作品になるまでには20年の歳月を要した。≪Круг чтения≫の出版は1905年のことである。

…作家としてのトルストイの最大の特徴はその視野の広さにある。それこそが『戦争と平和』という作品のもつ魅力であり、『アンナ・カレーニナ』が単なる恋愛小説ではない理由であるが、その二つの作品を書きあげたトルストイの眼に見えてきたのは、それまでの自分に見えていた世界の狭さ、小ささであった。世界文学の最高峰に登りつめたとして、その山がいったいどれほどの山だというのか――。トルストイは自分の仕事の、また自分という存在のつまらなさに苦しめられ、その苦しみから逃れるために悪戦苦闘するのであるが、そのトルストイがたどりついた結論は、神を求めない人生はまったく無意味なものであるというものであった。そして、そうした眼で世の中を見渡したときに、神とともに生きているのが、上流社会の人びとではなく、無知な農民たちであり、労働大衆であることがはっきりとわかるようになり、またその眼差しを歴史に向けたときに、いわゆる歴史の英雄たちが住む歴史とはまったく別のところに、神とともに生きようとした人びとの絶えることのない、静かな、しかし広大な流れが見えてきたのである。

…あらゆる人に対し、いつでも分け隔てなく思いやりをもとう、というのが唯一トルストイの言いたかったことである、といえば、それは単純化のしすぎだろうか。しかし、実際トルストイはそれ以上のことを主張してはいないのである。…
…他人に親切にすることに反対する人はいないと思われるが、そうするためにこそわれわれは生まれてきたのだ、といわれれば、だれもがそこで戸惑いを覚える。しかし、トルストイの主張の眼目はそこにあるのである。
 人は人生でめぐり合うどんな人に対しても同じように思いやりをもち、愛さなければならない。なぜならそれこそが神の定めたわれわれの仕事だから、というのである。そう考えるトルストイは、この思いやりの実行にいかなる例外も認めないばかりか、これを妨げる一切のものを容認しようとしない…。
 人びとを分断し、敵味方に分けようとする国家と教会。支配する側とされる側に人びとを分ける社会の仕組み。トルストイはそういったものを認めようとしないのである。また、自分たちのことを何か特別な鍵を握っている重要人物であるかのように思いこんでいる科学者たちにもトルストイは疑惑の目を向けていた。科学のしていることは人間にとっての思いやりの感情の格下げであった。それに対し、古くからある宗教は人間にとっての思いやりの感情を正しく把握しているようにトルストイには思われたのである。…

            (八島雅彦 訳注『ロシア語一日一善』、225-227頁)

 『文読む月日』(≪Круг чтения≫)の1月1日の記述(引用)のテーマは「読書」である。この世の本はいつの時代でも「玉石混淆」だが、ネット上にあふれる昨今の言論は、玉・石の選り分けよりも、自身の好みによる選別が優先されるためか、「二大陣営」のどちらにも玉石が紛れていることがたびたびある。誰もが参加できる分、よく読まないといけないなと思う。
 それにしても、である。わかってるんだから最初から読まなければよかったのにと、読んで後悔したというか、恥じているのだが、たまたま見つけた「国際政治学者」を称する某氏の最新の記事にはげんなりした。ソローの引用にあるとおり、何をおいてもまず、良書を読まないと、生涯良書を読まないで終わってしまうぞ、という警句が身にしみる。

 1月1日
 (一) 第二義的なもの、不必要なものを多く知ることよりも、真に善きもの、必要なものを少し知る方がよい。

……
 (三) われわれはもともと反芻動物であって、単に万巻の書を頭に詰め込むだけでは不充分である。もしもわれわれが、その嚥下したものをよく反芻し、消化しないならば、書物はわれわれに力と栄養とを与えないであろう。      (ロック)
 (四) …過度の乱読は、頭脳を散漫にする。それゆえ、異論なく良書と認められるものだけを読むがよい。もし、一時的に別種の書物に接したいという気持ちが生じたとしても、いつかまた必ず以前の読書に帰ることを、けっして忘れないがよい。
                                 (セネカ
 (五) 何をおいてもまず、良書を読むことである。でないと、とうとう一生涯読まないで終わることになるであろう。                (ソロー)

……
 (七) 文学においても、人生におけると同一の現象が見られる。どちらを向いても至るところにひしめいて、まるで夏の蠅のようにすべてのものを汚す、度しがたき俗衆(その数は実におびただしい)にぶつかる。そのために、現に見られるような悪書の氾濫、良き種子の発芽を妨害する文学的毒草の異常な繁殖が生ずるのである。そのような書物は、本来、精選された真に優秀な作品に対してのみ注がれる時間と金と精神力とを、人々から奪うものである。悪書は単に無益であるのみでなく、断然有害である。世に出る文学書の十中八九までは、騙されやすい大衆のポケットから少しでも余計に金を引き出そうと思って出版されており、それゆえ著者や出版社や印刷屋はことさら書物を分厚にするのである。…これらの害毒に対する対抗手段として、われわれは是非 “読まない術” を学ばねばならない。つまり、別の言葉で言えば、一般に俗受けのするもの、わいわい騒がれるようなものは最初から読まないことである。もっとあっさり言えば、出版された最初の年が、その存在の最後の年となるようないっさいの出版物を唾棄することである。
 しかし、断っておくけれども、愚者たちのために書く人が、いつも最大の読者層を持つものである。本来人々は、その定められた短く儚い一生を、古今東西の第一級の書物に、雲霞のごとき劣等な作家たちの上に塔のごとく聳える天才的作家の作品に親しんで過ごさなければいけないのに。そのような作家のみが、人々を真に教え養うものなのである。悪書を読むことの少なきに失することはありえないし、良書を読むことの多きに失することはない。悪書は、心を曇らす精神的毒物である。衆愚が古今の良書に親しむ術を知らず、そのときの目新しい作品だけに飛びつくため、現在の文士たちはいつも井のなかの蛙のように同じテーマを蒸し返し、同じ主張をくり返しているので、われわれの世紀がその汚醜を脱却する日がなかなか来ないのである。
                           (ショーペンハウエル

 (八)物質的毒物と精神的毒物との差異は、前者の大多数が不快な味を伴うのにひきかえ、新聞とか悪書とかいった精神的毒物は、往々にして魅惑的である点に存する。

(北御門二郎訳『文読む月日』上巻、16-19頁)
 


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