神戸の殺人事件が連日大きく報道されています。世間的な注目度がどうなのか、実際のところはよくわかりませんが、ストーカー的かつ通り魔的な犯行ということもあって、メディアの扱い方がやや過熱気味な感じがします。こういう輩が世間にはあちこちに潜伏しているぞという、得体のしれない恐怖感を煽られているようです。
先週は栃木の高校の盗撮事件もメディアで大きく取り上げられました。これも同じで、どこで盗み見されているかわからないという気持ちの悪さを多くの人が感じたことでしょう。先日地元の自治会の会合に出たら、この話題になって、「学校の教員はいったい何をやってるんだ。こんなバカなことばかりやって。ありえない!」と(元職の小生は)役員のみんなからさんざん「非難」されました。一介の平職員だった小生には分を越えているのは承知の上で(笑)、「すでに退職した身ではございますが、僭越ながら教職員を代表いたしまして、みなさまに深くお詫び申し上げます」と「謝罪」して許してもらいました(苦笑)。
でも、同時に多くの先生方は学校で日々頑張っていることもお伝えしました。それはみなさん周知のことで、こうした事件が世間に知れて、いっとき騒がれると、まるで他にもその種の人間が大勢いるかのように、組織の全体が不審の目で見られてしまいますが、事実としてそんなことはありません。学校だけでなく、会社でも、役所でもそれは同じこと。冷静に、というか、平常心に戻れば経験的に明らかなことでも、お祭り騒ぎのようにボルテージが上がり舞い上がると、一瞬とはいえ、真実を見失いそうになる。人間の怖いところです。
事件報道がもちろんデマってことはありませんが、最近は新聞やTVが(SNSに比して)「オールドメディア」と称され、不信の目で眺めている人も少なくないので、新聞TVの報道関係者は奮起しないといけません。その意味では、毎日新聞の「文化時評」はよくがんばっていると思います。
今日の新聞に掲載されていた渡辺豪(つよし)さんの「沖縄論壇時評——戦後80年 沖縄戦認識の乖離」を読んでいて思いました。参院選前の「騒ぎ」を「謝罪」したかたちの西田昌司参院議員の問題発言(というより問題認識だと思うのですが)の主旨は「日本軍は沖縄の住民を基本的に守ろうとしたのに、逸脱事例をもって、それが日本軍の全体像や本質だったかのように言うのは、悪意ある『歴史の捏造』だ」ということなのでしょう。盗撮をするような教員はごくごくまれで、職務熱心でがんばっている教員が大多数なのだから、不祥事をもって学校教員全体を異常だというのは誤っている……というのと同じ推論です。しかし、「逸脱事例」とされたものが1つや2つでなく、3つ、4つと増えていけば、これは「逸脱」でなく、むしろ「本質」ではないのかという疑いが深まるでしょう。詳しくは省きますが、沖縄戦での日本軍による住民虐殺事件がまれな事例ではなかったことと、「軍隊は住民を守らない」という「教訓」は太い線でつながっています。
渡辺さんは書いています。
沖縄論壇時評:戦後80年 沖縄戦認識の乖離 「苦い過去」とどう向き合う=ジャーナリスト・渡辺豪 | 毎日新聞
……沖縄の人々は容易に「なかったこと」にはできない史実を政治的に封じられる体験を重ねてきた。この集団的トラウマの傷を癒すには基地被害を軽減していくのと同時に、旧日本軍の過ちを認め、自衛隊がそれとは決別した組織であることを示すのが何より大事だが、現実は逆方向に進んでいる。
前出の『沖縄戦(なぜ 20万人が犠牲になったのか)』(集英社新書)で林(博史)が論じるのは過去だけではない。自衛隊の沖縄戦認識について、一貫しているのは「日本軍が勇戦奮闘したという日本軍賛美」で、「沖縄の人々の命を奪い生活を破壊したことへの総括も反省もない」と苦言。靖国神社との関係を深める自衛隊幹部や元幹部の言動を踏まえ、「旧軍意識・価値観を現在の自衛隊に注入し続けている」とどういうことが起きるのか、と深い憂慮を示す。
国民保護を巡って問われているのも、いかに美化や希望的観測を排除し、「苦い過去」の教訓をどう生かすかだろう。沖縄戦認識の乖離を放置したまま「沖縄住民の安全確保」と相いれるとは限らない「国防」を優先すると、何が起きるのか。……そんな想像力を巡らせる余裕は本土の日常から消えている。……
「平常」だと本土(の千葉県の田舎)の人間は沖縄のことを想像できない——そうはならないようにと、今日は沖縄の記事を取り上げてみました。
最後に、上とまったく関係ありませんが、新聞の渡辺さんの記事の下に、歌手の加藤登紀子さんのインタビュー記事があって、読んでいて胸に響くところがあったので、追記しておきます。
私の記念碑:歌手 加藤登紀子さん/下 戦争語れる最後の世代 終章歩む | 毎日新聞
・「(旧満州で終戦を迎えたとき、食料や武器などを狙ってきた敵の略奪兵に、加藤さんの母親は「遠いところから来させられて、あなたは可哀そう。故郷はどこなの。家族はどこにいるの」と対等に接し、幼い加藤さんにも「国なんて関係ないのよ。どんな時も『あなと』と『私』。人と人。一対一で向き合うのよ」と言っていた)……うちの母は(相手を)敵として見ていなかったと思う。たとえ戦争の最中でも『人と人』というのが母の考えで、これは私の根底にもある」
・「日本は平和のバトンをしっかり握った国であることを忘れない。それだけは心に置いてほしいと思います。ひたすらに生きて、いつか終わる1人ずつのストーリー。歴史を大切につづりながらこれからも一緒に頑張りましょう」
・「(75歳以降を人生の第4幕・最終章に据えて)私はラストランナーなのよ。……戦争を語れる最後の世代であり、この時代の変化を後ろから全部見てきた。先頭を走る人と置き去りにされる人。勝った者と敗れた者。そうしたズタズタになった者たちを見届けながら歩いてきた。」
・「私は人生を完結させることに全然興味がない。どうせ完成しないのでとぼとぼ荷物を放り出しながら身軽に歩いて行くの。……自分から発信する言葉はちゃんと持っていたい。誰にも支配されない私の言葉をね」
