千葉県の木更津駐屯地に「暫定的」に配備されているオスプレイ(計17機)の1機が、今日午前、熊本県高遊原分屯地経由で、佐賀空港の西側に新たにつくられた佐賀駐屯地に移りました。来月中旬にかけて順次佐賀へと移送されるという話です。政府が進める南西地域(南西諸島エリア)の防衛強化策に対する漠とした疑問や不安が、急に現実味を帯び、千葉県の田舎者にも問題が「可視化」された感じがします。
陸上自衛隊の輸送機オスプレイ 佐賀県への配備開始 機体到着 | NHK | オスプレイ
昼と夜のNHKのニュースを眺めていて、「南西地域の防衛問題」、端的に言って「台湾有事」と(米軍指揮下の)自衛隊参戦の可能性(危険性)がまた一歩進んだのではないかという印象をもちました。これは、オスプレイ絡みの事故を、駐屯地の地元の佐賀の人たちが心配しているというのとはレベルを異にする話です。
もちろん、オスプレイに関わる大事故が起きないなどと思っていませんが(木更津への暫定的配備にも事故の懸念が付きまといましたから)、なぜ今、佐賀駐屯地にオスプレイを配備する必要があるのか、その理由の説明を聞いていると、隣接する佐賀空港の滑走路が使用できるとか、佐世保に配備されている水陸機動団に近いとか、南西諸島への出動が距離的に容易だとか、複数の理由が挙がるものの、佐賀県東部の目達原(めたばる)駐屯地(吉野ヶ里町)に駐在するヘリコプター部隊が、今後、佐賀駐屯地に移駐される計画があることに言及する報道をまだ見ていません。全ての報道を確認できないのでわかりませんが、もし触れないとすると、訝しさを覚えます。
ニュースの中では、オスプレイの配備に反対する市民団体の様子も紹介されていました。聞こえてきた彼ら彼女らの第一声は「戦争反対」でした。オスプレイの配備は戦争への道=加担ということでしょう。これは決して国内の一般的な戦争反対論と同じではなく、もっと現実的な重みがあると解しています。私見に過ぎませんが、もし、目達原駐屯地のヘリコプター部隊が合流し、佐賀駐屯地が自衛隊の一大航空拠点になるとすれば、万一戦争となった場合、敵国から狙われる危険性が高まるからです。つまり、他よりも佐賀は攻撃され、住民が巻き込まれる危険性が高くなることを意味します。この点、政府もメディアも黙していてよいのかと思います。
もちろん、「台湾有事」が現実化した場合、佐賀よりも敵国からの攻撃を受ける危険性が何倍も高いのは沖縄でしょう。戦争に利用されてきた(され続けている)沖縄について、『地平』8月号でジャーナリスト・映画監督の三上智恵さんはこう書いています。
■戦争に利用されてきた沖縄
地上戦の地獄を見た沖縄の人々は、人一倍平和を望み、戦争と無縁の島に戻したいと強く願った。にもかかわらず、沖縄は常に戦争に利用されてきた。殺しの拠点である以上、殺される恐怖を払拭できない。沖縄の先輩たちは軍事拠点に使われることの恐ろしさとずっと向き合い、闘ってきたのだ。
青春期に日本復帰を迎えた具志堅(隆松 沖縄戦の戦没者の遺骨を40年以上にわたり収集し続けてきた)さんは、日本国憲法に憧れ、学んだ世代だ。ところが復帰しても米軍基地は減るどころか本土からの移設で増加、自衛隊も入ってきた。自分たちを救うはずの平和主義は、沖縄の負担の上になり立っている現実を思い知ることになった。日本の平和主義とは戦争をしないことではなく、強い武器を持つ強い国に依存し、お金や土地を差し出すことで保たれるといういびつなものだったのだ。骨身に染みた戦争の愚かさから学んで構築した平和主義ではなかったのか。その空虚な平和主義と、戦争から学ぶ力の不足が、現在の再軍備とそれに伴う日本軍美化の流れを許している。
今年の憲法記念日、西田昌司参議院議員がひめゆりの塔をめぐる展示について「歴史の書き換えだ」と発言し、大問題に発展した。沖縄の怒りはまだ収まらないが、彼は謝罪後も活発に発言を続けており、彼を擁護する意見も噴出している。参政党の神谷宗幣代表は「日本軍が沖縄の人を殺したわけではない」と言い出す始末だ。なぜ、日本軍は、住民を守らないどころか死に追いやったのか?を検証した拙著『証言・沖縄スパイ戦史』(集英社)を差し出したいくらいだ。けれども彼らの目的は戦争から真理を学ぶことではまったくないのだから、たちが悪い。国のために命を懸ける行為は尊く、賞賛すべきという価値観を復活させたいのだ。西田氏はある月刊誌でこう述べている。
「沖縄県民は立派に戦ったのです。戦後日本の私たちが行うべきは『誤った戦争の犠牲者』といったレッテル貼りではない。それは余りに酷な話です。むしろ、示すべきは敬意であるべきです。少なくとも私はそう思います。日本のために命をなげうった沖縄県民を『犠牲者』とだけ断じる歴史観を受け入れることは、私にはできません」
15年前、沖縄靖国訴訟を追った「英霊か犬死か」というドキュメンタリー番組を制作し、靖国思想と戦争との切っても切れない関係を紐解いたことがある。西田氏が言っているのはまさに、犬死と言うな、英霊に敬意を持ちましょう、という靖国思想そのものである。自衛官に死ぬ覚悟をさせる必要が出てきたこのご時世だからこその発想で、戦死しても名誉も恩給もないような国で、誰が戦ってくれるものかという本音が見え隠れする。
もはや「美化」ではない。戦死すれば軍神と崇められ、遺族は恩給で暮らせると信じ込ませて、どんどん若者を戦場に送ったあの時代と同じ「騙しの継続」だ。
家族を殺された悲しみを、瞬時に名誉と歓喜にすり替える靖国思想の恐ろしさも学ばずに、平和のために戦った彼らを敬いましょうという甘毎に乗って靖国を参拝する若者が増えている。どんなに無残な死が、誰によって強いられたのかを見極めず「尊い」と拝んでしまう行為は、次の犠牲者を招聘することにつながり、戦争協力の一端を担いかねない。
<以下略>
(三上「日本の平和主義の終焉」、『地平』・8月号、124-126頁)
平和と戦争は対概念(のはず)ですが、政治家にかかると「平和のための戦争」などという形容矛盾が平然と口にされます。平和主義に「積極的」をつけると軍備拡張が可能になり、バンカーバスター(地中貫通弾)という大型爆弾を異国に落とすと(逆に)ノーベル平和賞の候補に推薦されたりもします。「空虚な平和主義」は「何」とでも相性のいい「平和主義」と化すようです。「平和」という心地よさだけを響かせて……。
三上さんの「殺しの拠点である以上、殺される恐怖を払拭できない」という言葉を多くの人が重く受け止めないといけないと思います。
