今朝の毎日新聞一面のトップ記事は、おととい(8月25日)一部が報じられたものですが、戦時中の1942年、山口県宇部市の長生炭鉱で起きた水難事故で亡くなった労働者のものと見られる遺骨が発見されたというニュースです。25日の調査では大腿骨のような骨3本でしたが、昨日26日の調査では頭蓋骨が見つかったということで、今まで調査に消極的だった国の姿勢が今後問われることになりそうです。
山口・長生炭鉱:山口・長生炭鉱から頭蓋骨 戦時中水没事故、犠牲か 潜水調査 | 毎日新聞
その隣に「教室にカメラ未検討8割」という記事があります。事件続きの学校で、校門の出入り口に監視のカメラを設置する学校は増えているようですが、教室にカメラというのはさすがに行き過ぎではないかと、ちょっと驚きました。
記事は、毎日新聞が全国の都道府県と政令指定都市の教育委員会にアンケートをした結果をもとにしたものですが、ざっと読む限り、文科省はやる気ではないし、教育委員会も全体的には後ろ向きな感じです。はて? いったい誰(どこ)が教室にカメラを入れるべきと言っているのか(新聞社自身なのか?)、と――「前提」がよくわからない記事だな、とまず思いました。
しかし、3面に記事の続きがあって、カメラ設置を要望しているのは、一部の保護者・住民だということがわかりました。記事にはこうあります。
「防カメ設置を」保護者の訴えに悩む教委 有識者も意見分かれる | 毎日新聞
「教室に防犯カメラを設置すべきではないか」
広島市教育委員会には7月、児童生徒の保護者や地域住民からこうした電話が複数寄せられたという。
きっかけは市立小学校の教員が逮捕された事件だ。6月30日、小学校で女子児童にわいせつな行為をしようとしたとして、男性教員が逮捕された。
この教員は他にもわいせつ行為をしたとして再逮捕された。「顔色が悪いけ、教室で休みんさい」などと言って児童を無人の教室に誘い込み、教員用のいすに座らせ児童の目を手で覆った上で、自身の下半身を露出するなどのわいせつな行為をし、その様子を動画撮影した、というのが再逮捕容疑だ。
いずれも現場は教室だった。防犯カメラを設置していれば防げた可能性もあるが、死角を選んで犯行に及ぶケースも想定される。……
……教員が児童を盗撮し、画像を交流サイト(SNS)で共有していたとされる衝撃的な事件が起きた名古屋市の教委にも、市民から教室への防犯カメラ設置を求める声が届いた。「どこで盗撮したかが明らかになった段階で再発防止策を考えるが、現状では議論していない……(学校)備品(のカメラ)で撮影したデータの管理状況を1枚ずつ確認するのは現実的ではない。何か考えないといけないが、よい案が浮かばない」と打ち明けた。……
要望した人たちを、記事の見出しのように「保護者・住民」とせず、「一部の」を付けたのは、去年東京都の公立小学校で教室や廊下に数台のカメラを取り付けたけれど、保護者からの反対で撤去した事例があり、必ずしも保護者・住民世論がカメラ設置賛成・容認とは思えなかったからです。しかし、ネットで関連記事を見ていくと、教室にカメラを設置することに違和感を感じないという声もけっこうあります。昭和世代はともかく、多くの人が「慣れ(馴れ)っこ」になっているのでしょうか。
児童が着替える教室にカメラ 保護者ら懸念、私立小側「近く撤去」:朝日新聞
教室に防犯カメラ、教育委員会の8割「検討せず」 教員の性暴力対策 | ガールズちゃんねる - Girls Channel -
考えてみれば、町中いたるところに「防犯カメラ」と称する行動記録装置が設置され、その監視下に普段我々は生活しているわけで、その「おかげ」もあって、事件が起こると犯人逮捕につながる事例を数多く見ています。メリット(の方)を実感する人が増えるのは当然かもしれません。自分は犯罪をしないし、する人間でもないと思っている側は、まず「被害」を避けるという視点でものを見ます。多少の「不自由さ」を感じるとしても、教室にカメラを入れて(少しでも)「被害」が防げるんだったらそうすべきだと、こうなるのかもしれません。
けれども、これはみんなで「不自由さ」を我慢したり、いわば「鈍感」になることで、「解決」できる類の問題ではない気もします。単純に言えば、(犯罪予備軍に対し)「見ているぞ」とプレッッシャーをかけているだけですから、「見ていない」ところではやるかもしれませんし、そもそも当人が抑止力を感じなければ、不用品です(実際、カメラが設置されている店舗や施設でも犯罪の類は起こります)。要するに、これは犯罪の「原因」を取り除ける機器ではないわけです。
さらに言えば、公私の境界がますます曖昧で相互乗り入れをしている今の世の中で、「公的世界=監視下」と「私的世界=地の姿」に自身を自然な形で合わせるのが苦手な人、両者の境界の出入りがスムーズにいかない、ある意味「不器用」な人が、カメラで誰かに見られていることに「鈍感」になりきれるだろうかと、むかし不登校の子どもを何人か見てきた者には疑問が浮かびます。それは子どもだけでなくおとなにも当てはまるでしょう。もちろんカメラを入れることにメリットが皆無とまでは言いませんが、入れたら入れたで、別の方面に問題が派生したり、あるいは問題が次の「ステージ」に進むのではないかと思うのです。
亡くなった思想史家の藤田省三さんの『「写真と社会」小史』を読んでいたら、「写真の社会的現実」にこう書いてありました。
何処へ行っても否応なく写真に出会わざるをえないということと、その写真の大群がどれも一様に――人も花も山も鳥も物体も何もかもが等し並みに――あのツルツルの表面の中から極めて人工的な「思わせぶり」を持って「お目出度い笑み」と「秋波」を放散していることのために、私は今日の写真というものにウンザリしている。見ないようにしている間はそれで済むのだけれども、一度(ひとたび)現代社会での写真の存在形式が如何なるものであるかを考えて見ようとして注意して見たりすると、その過剰とその均質とそのツルツルとその模造品的人工性とに殆ど堪え難い思いを抱かざるをえない、という事態になる。その思いが昂じて来ると、否応なしにこちらの視覚を目掛けて放射線のように飛び込んで来る人工的「秋波」の群れの光学的な強制力を全体主義の現代的形式の一つと見做したくなり、そうすると、眼をつむるか盲になるかする以外にはその存在としての強制力から自由になる道は無いとさえ思うようになるのである。
つまり、私たちの日常生活の空間に張り廻されている写真の大群は思考の対象として扱ってはならない余剰品――それにしては余りに多い余剰――なのであり、そうして置けば別に飛び掛かって来るものではないから、身の安全には関わらないで済む物言わぬ視覚的騒音なのである。省略を含まぬもの、抽象を経ないもの、それ自体として過剰そのものである写真が、至る所に過剰に張りめぐらされているのだから、こちらが「見過ごし」たり「眼を閉じた」り「盲になっ」たりすることによって、省略をほどこさなければ生きてはいけないのである。……
(藤田、同上書、1-2頁)
藤田さんが上の文章を書いたのは1983年。今や氾濫しているのは表面がツルツルの写真ではありません。(静止している)写真はおろか動画が宙を飛び交っている時代です。1980年代、「安楽」に自発的に隷属していく人々に「全体主義」を見てとった藤田さんが、今も存命で、もし、盗撮や性犯罪など、教員による数々の不祥事と、その対策として教室にカメラを入れるべきという議論を知ったら、どう思うでしょうか。
即効性のある策は見出せませんが、小生としては、機器に依存すれば依存するだけ(藤田さん流に言えば「隷属」ですが)、学校と社会の教育力(社会学の言う「社会関係資本」、社会的な絆)は下がっていく気がします。人間が本来もつ関係をつける力、調整する力、秩序や倫理を形成する力はどんどん劣化して、社会の問題が個人の問題に転化されていくでしょう。
国語や算数の授業が教室で「安全」に行わることは大事なことですが、塾とはちがって、学校はそれでよしと済ませることのできる空間ではないと思います。
