ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

日本にとっての「戦争と悲惨性」

 今朝NHKのニュースを見ていたら、イスラエルのある世論調査が紹介されていて、それによるとイラン攻撃を支持すると答えた人が70%(反対13.4% タイミングが悪い10.1%)で、ユダヤイスラエル人に限れば82%が支持すると答えたそうです。直前まで懸念されていたネタニヤフ首相の政権崩壊など、どこかに消し飛んでしまったかのようです。遠く離れた我々の眼にも、攻撃で破壊された建物や負傷した人々の映像が入ります。報道だけでは臭いや肌感覚まではわかりませんが、戦争による悲惨な現場そのものです。
イラン外相「爆撃を受けるなか米との交渉行うことはできない」 | NHK | イラン

 イスラエルと日本の国情のちがいは大きいと思いますが、日本では、過去の戦争を知る人たちにより「戦争は悲惨だから、やってはいけない」というメッセージが繰り返し発信されてきました。核兵器の惨禍を経験した国として、不戦と非核の誓いは我々に課せられた義務だと言っても過言ではないでしょう。戦後生まれで、戦争体験のない小生らも、こうした体験談に心を揺さぶられ、戦争は避けるべきという思いをもって学校で働いてきました。
 自民党西田昌司参院議員などに言わせれば、(沖縄に限らず)日本の戦後教育はデタラメらしいですが、主観的には決して「デタラメ」な教育をしてきたつもりはありません。西田氏の言動に反し、沖縄戦の最中の日本軍は住民に対してそんなに立派なことはしておりません。日本兵によって自害を迫られたり、あるいは殺された民間人がいた事実はあちこちにあります(昨日のTBSの「報道特集」でも放映されていました)。こうした史実に即して、学校で戦争の実態をどう伝えていくか、小生なりに心がけてきたことはあります。

 しかし、「戦争は悲惨だからダメ」だけで大丈夫なのかという気持ちもあります。字面で意味を逆にすれば、「悲惨でない戦争ならOK」ということになりかねないからです。実際、戦争の悲惨さというのは、人が死に、建物が壊され、……という具体的な被害の場面と結びついていることでしょう。日本の過去の戦争で言えば、沖縄などは異なりますが、端的に言って、ほとんどそれは第二次世界大戦で米国の空襲によって受けた被害のことを指すはずです。日本の国土が戦場になった(攻撃を受けた)経験、もっと言えば、近代史上、対外戦争で一般の日本人が直接の被害を受けた経験は、第二次大戦中の米国との戦争以外ではなかったはずだと思うのです。

 『藤田省三対話集成 3』の中に、こんな対話の場面があります。

 多田 明治維新以降の日本の歴史にとって非常に重要なポイントというのは第二次大戦じゃなくて、むしろ第一次大戦朝鮮戦争ベトナム戦争じゃないかと思うんです。
 よそに戦争させて、あるいはそれにちょっと悪乗りして、ぐっと成り上がれるというチャンスですね。この三つのチャンスのうち二つは戦後にあったんですからね。これは大変なことになっちゃったんですよ。この二つがなければ、こういう成り上がり社会はできなかっただろうという気はしますね。
 安田 たしかに第一次大戦と、戦後の二つのアジアの戦争というのは、そういう意味で重大ですね。
 多田 ……ベトナム戦争のときなんか、ベトナム人アメリカと同時に日本も負かしたんだと思っているのに、日本人は別に負けたと思っていない……。
 藤田 それは実際上も応援団にすぎない一面があるわけでしょう。たしかに沖縄から飛行機が飛んでいったり、軍需物資を送り込んだりしたわけだけど、やったという参戦感はほとんどない。
……第一次大戦のときには、漁夫の利を占めたという自覚はあったわけでしょう。
 ところがいまは違う。平和憲法の世界で、みずからは戦争を放棄しているというタテマエのもとで、戦争に便乗して儲けているでしょう。その自己欺瞞性というものははるかに深いですよ。議会の答弁でも、第九条は守ると、憲法は改めるつもりはないと、これは公式に通っているわけでしょう。通年としては学校の教師なんかでもそういっているわけでしょう。ところが生活の実態としては、よその国がやっている戦争に応援団として加担している。そして応援団以上には加担しないというかぎりにおいて、漁夫の利を得て、そして肥え太っているという、その太り方が第一次大戦のときとは全然違うんですよね。はるかに偽善性が強い。
                        
(同上書、262ー263頁)

 辛辣です。上の対談は1977年ですから、約半世紀も前の話で、さすがに古い感じがします。今や議会で(堂々と)憲法「改正」、9条改定を言ってはばからない時代です。「戦争放棄」のタテマエさえ安保法制によって怪しくなり、今後日本は米国の戦争に付き合わされる危険性が大きいわけで、当時でさえ、「戦争放棄」に幾ばくかの疑念が生じていたと思いますが、今や疑念どころではありません。事態はさらに進んでしまっています。実際、昨日の毎日新聞伊藤智永さんのコラム「土記」にはこう書いてあります。
土記:沖縄を戦火にさらすもの=伊藤智永 | 毎日新聞

……自衛隊は「死に支度」を着々と整えている。陸自は国内最大の葬祭専門事業者団体と「万が一に備え」る協定(内容不詳)を結んだらしい(5月16日「しんぶん赤旗」電子版)。
 戦前と変わらない。軍人は自分たちの体面と補償ばかり気にして、民間人の運命などを考える暇はないのだ。靖国神社は、戦争の死者に、官と民、有名と無名、名誉と無駄死にの差をつける国ぐるみの仕組みである。休眠を装うが、いつ再始動しても驚かない。
 ミサイル映像を見ても何も感じなくなり、いずれ自分もああやって死ぬのかな、とぼんやり受け入れ始めている私たち。……

 イランとイスラエルの戦争に米国も加わる!?――イスラエルは米国を引きずり込みたいのでしょう。今の段階でいくら何でも米国がそんな暴挙(錯乱)をしないと思っていますが、こればかりはわかりません。万が一そんなことになって、日本政府がこれを「存立危機事態」とみなせば、自衛隊の派遣もあり得るわけです。はたして、ひとたびそんな情勢になったとき、私たちは、字面だけでない不戦非戦の意志と言葉と行動を公にすることができるのか。
 日本にとって戦争と言えば長らく第二次世界大戦のことでしたが、それは「例外的事例」であって、むしろ他の戦争(での関わり方)の方が「通常(一般的)」なのではないか。となると、もし日本が戦争に関わることになったとき、「戦争は悲惨だから、やってはいけない」というメッセージは当然その「真価」が問われるのではないかと思います。それにとどまらず、臭いのない戦争、テレビで見るだけの戦争、すぐにCMやスポーツに切り替わってしまう戦争――そんな「戦争」を前にして、文脈は異なれど、藤田省三さんの「自己欺瞞」「偽善性」ということばに向き合えるかどうか、と考えてしまいます。




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