ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

杉田水脈氏と「生産性」

 「人的資源」とか「人流」とか、人をモノ扱いするような言葉に出くわすと嫌な気分になります。「生産性」という語を人に当てはめ、その有る無しで人を分類するとき、ここにも人をモノ扱いして気に留めない差別性が滲み出ているように思えます。小生個人にとって、何と言っても、そのきっかけをつくったのは、先頃政務官に任命され、かつ、「過去に多様性を否定したこともなく、性的マイノリティーを差別したこともない」と言い放った衆院議員・杉田水脈氏です。

 昨日(8月23日)の毎日新聞のコラム「火論」で、大治朋子さんがこう書いています。
火論:誰もが「非生産的」に=大治朋子 | 毎日新聞

……杉田氏は数々の差別的発言で知られる。2014年10月の衆院本会議では「女性が輝けなくなったのは、冷戦後、男女共同参画の名のもと、伝統や慣習を破壊するナンセンスな男女平等を目指してきたことに起因します。男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です」などと発言した。
 男女平等は反道徳なのか。
 月刊誌「新潮45」への18年の寄稿では、LGBTなど性的少数者について「彼ら彼女らは子供を作らない、つまり『生産性』がない」と書き、行政による支援の必要性を否定。批判が相次いだ。
 政務官就任で改めてこの点を問われると、「過去に多様性を否定したこともなく、性的マイノリティーを差別したこともない」と述べた。しかしどう見ても、多様性を否定している。

 人間の是非を「生産性」で判断する――。そのことの意味を戦後77年の夏、改めて考えてみたい。ナチス・ドイツは生きるべき価値のある人間かどうかを「生産性」で判断した。障害者や同性愛者らを強制連行し、殺害した。
 独北西部ミュンスター地区の司教、フォン・ガーレン伯爵は1941年8月3日の公開説教で、ナチス政権の思想の背後に潜む危険性を命がけで説いた。
 「ひとたび、人が『非生産的な』同胞を殺害する権利があると認めれば、そしてそれをまず精神疾患患者に適用するなら、それは何かを作り出すことができない人たち、病気や障害などで働けない人たちを殺害することを認めることになる。そうなると高齢や老衰で『非生産的』になった人も殺される」
 ガーレン氏はこうした趣旨の説明を繰り返し、「官庁の判断」で「生きるに値しない」とされたら、そのような社会では「自由に殺害が許される」「誰の命も安全ではなくなる」と訴えた。

 現代日本社会ではそんな殺害は起きないだろう。だが生産性がない人への行政支援は不要、と公言する政治家がいて、その政治家を要職に就かせるような政権下では、行政支援の打ち切りなどで命を絶たれる人も生まれかねない。
 相模原市の障害者施設で利用者らを殺傷した元職員の植松聖死刑囚は、障害者は「生産性がない」と語ったという。この思考がなぜ危険なのか、杉田氏や岸田首相は子供たちに説明できるのか。
 自分が年老いて生産性を失ってから、その思考の恐ろしさを実感するようでは遅い。

 大治さんの話には、おおむね賛成なのですが、結びに「年老いて生産性を失ってから……」とあるのを見て、これだと、老人に「生産性」がないと認めることになるのでは、と思ったので、あえて、一言付け加えたいのです。本当に老人は「生産性」がないと言い切れるだろうか、と。「生産年齢人口」という語があるので、さらに言うと、赤ん坊や老人には本当に「生産性」がないのか、と。

 赤ん坊は、杉田氏ほかの言う意味での「生産性」は(まだ)ないのかも知れません。赤ん坊は周りで世話をしてくれる人がいないと生きてはいけません。自らの力で何かを「創造」するなど、あり得ないように見えます。しかし、たとえば、赤ん坊の寝顔や笑顔を見ていて、気持ちが穏やかになったり、この子のために頑張ろうと思ったことはないでしょうか。自身が具体的な何かを「創造」しなくとも、自分以外の人間に何かをしよう、したいという気にさせるなら、それは立派な「創造性」だと思います。存在自体が「創造」を促すと言っても過言ではありません。これを「生産的」ととらえて何がまずいのか。
 老人も同じです。私事ですが、去年父親が施設から一時帰宅することが決まり、小生は、廊下にセンサーライトを付けたり、玄関に設置する簡易スロープや手すりの手配をしたり、あるいは施設の人から食事の指導を受けたりと、一時期その準備に追われました。父親は家に戻りたがっていたので、数日間だけであっても父親が快適に過ごせるようにと思ったからです。残念ながら、その準備の最中に父親は逝ってしまいましたが、これも父親が小生に与えた「生産性」だったように思います。
 小生は学校で働いているときに、ダウン症の子どもや親にも幾人か出会いました。詳しくは書きませんが、やはり同じものを感じます。

 LGBTに対して「子供を作らない、つまり『生産性』がない」と言い放った杉田氏本人にしても、翻って、では、自分にはどういう「生産性」があるのかと問うてほしい気がします。杉田氏はおそらくコメや野菜はつくらないでしょう。お子さんがいるのかどうかはわかりませんが、買物や洗濯や掃除はするかも知れない。いやいや、彼女は「政治家」として大事な「生産的」な「仕事」をしていると言う人がいるかもしれません。しかし、もし、杉田氏の場合、その言動によってある特定の考え方に賛同する人々を喜ばせるのが「仕事」だったら、この「仕事」、赤ん坊や老人を喜ばせるために何かをしようとするのと変わりません。対価労働かどうか、俸給を得ているかどうかなど、この際、関係ありません。こんな表現が許されるとすれば、社会関係性が「資本」となって「生産力」を生んでいると言ってよい。これは、人との交わりを一切断っているのでなければ、杉田氏でも、小生でも、多くの人に当てはまる話でしょう。

 人々の一方が「生産的」で、他方は「非生産的」、その「非生産的」な人々に行政支援をするのは不合理である――こんな皮相で狭小な言葉や発想で語れるほど、事実として、この世の人間と社会は「単純」でも「短絡的」でもない気がします。また、そんな「強がり?」で自己の偏狭さや差別性を覆い隠したり、合理化、正当化をしてはならないと思います。一緒に暮らしているという実感さえあれば、容易に取り除ける類いの話です。




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