ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「国語力・言葉の脆弱性」について

 「『ごんぎつね』の読めない小学生たち、恐喝を認識できない女子生徒……〈いま学校で起こっている〉国語力崩壊の惨状」という記事を読みました。何のこっちゃ?ということもなく、学校にいたことのある人にとっては、ああ…と思い当たるところのある話です。

 一口に「国語力」と言っても、漢字の読み書きから、表現、「てにをは」を含む日本語文法など、いろいろなレベル(部分)があり、これらを「国語力」という語で括れるかという問題も含んでいると思います。そもそも「言語力」や「日本語力」でなく、なぜ「国語力」なのか、という定義の問題もあります。この点、わざと曖昧にして「網」を広げているような感じもしますが、ここで問題にされている「国語力」は漢字や文法などの技術面の話ではありません。
 たとえば、「大喪の礼」を「タイモのれい」と読んでしまうような間違いは、無知に由来する誤りなので、恥のかき捨て(スルー)をしたとしても、自己内訂正はできます。要は、当人が覚えればいいだけの話で、間違えた当人にとっては深刻でも(そう思ってないかもしれませんが)、社会として特に深刻なことはありません。しかし、ここで挙げられている例は、コミュニケーション不全だったり、文化ギャップだったり、単純に個人の問題で済むとは思えないものばかりです。これは社会として意識して考えないといけない話のように思えます。

 以下、7月30日付文春オンラインの記事の部分要旨です。
「ごんぎつね」が読めない?学校で起こっている国語力崩壊の惨状 - ライブドアニュース

 長年、不登校や虐待の問題など、子供たちが抱えた生きづらさをめぐって、当事者や関係者に多くの話を聞いてきました。取材を通して感じたすべての子に共通する問題点は、「言葉の脆弱性」でした。
 あらゆることを「ヤバイ」「エグイ」「死ね」で表現する子供たちを想像してみてください。彼らはボキャブラリーが乏しいことによって、自分の感情をうまく言語化できない、論理的な思考ができない、双方向の話し合いができない――極端な場合には、困ったことが起きた瞬間にフリーズ(思考停止)してしまうんですね。これでは、より問題がこじれ、生きづらさが増すのは明らかです。
 以前はこうした実情を、〈うまくいっていない子〉に共通の課題だと認識していました。ところが、数年前から、平均的なレベルとされる小・中学校、高校でも、現場の先生たちが子供たちの国語力に対して強い危機感をもっていることがわかってきました。言葉によってものを考えたり、社会との関係をとらえる基本的な思考力が著しく弱い状態にあるという。

 そしてあるとき僕自身、都内の小学4年生の授業で、新美南吉の『ごんぎつね』を子供たちがとんでもない読み方をしているのを見て、衝撃を受けました。
 この童話の内容は、狐のごんはいたずら好きで、兵十という男の獲ったうなぎや魚を逃してしまっていた。でも後日、ごんは兵十の家で母の葬儀が行われているのを目にして、魚が病気の母のためのものだったことを知って反省し、罪滅ぼしに毎日栗や松茸を届けるというストーリーです。
 兵十が葬儀の準備をするシーンに「大きななべのなかで、なにかがぐずぐずにえていました」という一文があるのですが、教師が「鍋で何を煮ているのか」と生徒たちに尋ねたんです。すると各グループで話し合った子供たちが、「死んだお母さんを鍋に入れて消毒している」「死体を煮て溶かしている」と言いだしたんです。ふざけているのかと思いきや、大真面目に複数名の子がそう発言している。もちろんこれは単に、参列者にふるまう食べ物を用意している描写です。
 これは一例に過ぎませんが、もう誤読以前の問題なわけで、お葬式はなんのためにやるものなのか、母を亡くして兵十はどれほどの悲しみを抱えているかといった、社会常識や人間的な感情への想像力がすっぽり抜け落ちている。
 単なる文章の読み間違えは、国語の練習問題と同じで、訂正すれば正しく読めます。でも、人の心情へのごく基本的な理解が欠如していると、本来間違えようのない箇所で珍解釈が出てきてしまうし、物語のテーマ性や情感をまったく把握できないんですね。

 近年、PISA(国際学習到達度調査)の学力テストで、OECD諸国のなかで日本は読解力が15位だったことが大きな話題になりました。PISAの読解力テストはテクニック的な側面も大きいと思います。たしかに文脈をロジカルに読み解く力自体も弱まっているのでしょうが、それ以上に深刻なのは、他者の気持ちを想像したり、物事を社会のなかで位置づけて考えたりする本質的な国語力――つまり生きる力と密接に結びついた思考力や共感性の乏しい子が増えている現実です。現場の先生たちが強く憂慮しているのもその点です。
 こうした国語力は自然と身につけている家庭環境の子にとっては何の問題にもなりませんが、様々な要因で家庭格差が広がるなか、「できない子」にとっては著しい困難を伴います。本質的な国語力の衰退がいまや一部の子に限った話ではないことを認識しなければ、いくら教育政策で「読解力」向上に力を入れても上滑りしてしまうでしょう。

 象徴的なのは、ある女子高生に起きた恐喝事件です。その子は、わりと無気力なタイプで、学校も来たり来なかったりデートの途中で黙って帰ってしまうようなルーズな面がありました。こうした態度に怒った交際相手の男子生徒が、非常識なことをしたら「罰金1万円」というルールを決めます。それでも女子生徒は反省せずルールを破り、毎月のバイト代のほとんどを彼氏に払い、しまいには親の財布から金を盗んで支払いにあて続け、発覚したときは100万円以上も払ったあとでした。
 ところがとうの本人は、自分の被害を全く認識できず、「言われたから」「ルールで決めたから」と相手の行為を“恐喝”とすら思っていないんです。男子生徒のほうも「同意あったし。金は二人で遊びに使ったし」と平然としている。
 当人のなかでは「ルールを決めた→同意した→実行した、何が間違っているの?」というプログラミング的な理屈で完結しているのですが、社会の一般常識や人間関係を考えたら明らかにおかしいわけです。搾取されているゆがんだ関係や親の金を盗んで渡していることに疑問すら持たない。
 教師がいくら指導しても、彼女のなかには言葉がなく、自分の状況を客観的に捉えたり、なぜそれがいけないかも全く理解できていなかった。当然彼女がそのまま大人になれば生きる困難さを強く抱えますし、親になれば社会常識が欠如したまま子育てをして、負の再生産が起こります。
<以下略>

 もうひとつ、敢えて言えば、学校で子どもを見ていて感じた「言葉の脆弱性」には、“意図的” なものもありました。
 学校にいた頃、何度言っても宿題を出さない生徒がいたので、呼び出して注意したことがあります。特に怒って話をしたつもりはないのですが、「なぜ再三提出しなさいと言っているのに出さないのか、理由を聞こう」と言ったら、その生徒は「出します」と答えました。へっ?「いや、出してないから、こうして呼び出されてるんでしょ。何でなのか、理由を言いなさい」。「だから、出します」と。……押し問答のようですが、これでは会話が成り立ちません。
 この生徒からすれば、「出す」と言ってるんだから、もういいだろう、理由なんか答えたって、どうせそんなのは理由にならないとネチネチ小言を言うだけなんだから、こっちは白旗を揚げて「出す」と言ってるんだ、さっさと終わりにしようよ……と、まあこういうことかも知れません。しかし、この生徒は何か言うからまだいい方で、中には何か聞いても一言もしゃべらず黙秘を貫く生徒もいます。こっちも付き合ってしゃべるのを待っていると、静寂の時間がただただ流れていくという妙な展開になったりします。
 彼らのあいだでは、「面倒なこと」、トラブルはできるだけ回避したい、相手を傷つけたり、傷つけられたりする当事者にもなりたくない、そのためには明確な言葉によって意思を示さなくても済むように、先回りしたり、気を回したりして対処するし、相手にもそう対処してほしい。「言葉」よりも、阿吽の「呼吸」や「空気」で動く――こういうのが普通になっているかもしれません。しかし、これは何のことはない、おとな社会がここ十数年の間に築いてきた「そんたく=共謀」文化と変わるところがありません。黙秘にしても、「コメントは控えます」と最初に言わないだけで、やってることは同じです。

 蛇足ついでに言うと、2015年の統一教会の名称変更にかかわる、この間の下村博文・文科大臣(当時)の釈明内容の変貌(ずるずると「戦線」が後退していく様)は失笑ものと言っていいほどです。もし、おとな社会の言動の一端が子どもたちに反映されるものだとすれば、子どもたちは見ています。あんなんでいいんだと思われては社会が腐食します。(社会的)責任を感じる(以上、終わり)、ではなく、責任をとって、議員を辞めるべきだと思います。下村氏の「問題行動」は今回の件だけではありません。
下村博文氏「責任感じる」 旧統一教会の名称変更当時の文科相 | 毎日新聞

【下村博文】下村博文氏に「安倍さん以上の嘘つき」と批判の声 旧統一教会の名称変更で無理スジの釈明|日刊ゲンダイDIGITAL

下村博文氏『加計学園から200万円の闇献金』報道を否定 一方で「加計の秘書室長が...」 | ハフポスト NEWS

<追記>
下村氏は官邸(安倍氏)の意向で動いたという記事。念のため。
https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/309424/2




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佐々木実『市場と権力』を読んで

 一昨日の「一月万冊」で、ジャーナリストの佐藤章さんが紹介していた本で、副題は、「『改革』に憑かれた経済学者の肖像」――この「経済学者」とはむろん竹中平蔵氏のことです。本書は2013年に刊行されたものですが、2年前に文庫化されたタイトルは『竹中平蔵 市場と権力』と、竹中氏の名前が前面に出ています。

 現在東京オリンピック組織委の元理事とAOKIホールディングス前会長が贈収賄容疑で捜査されていますが、「一月万冊」の中で、検察は次のターゲットとして、この竹中氏を射程に入れているとの「特ダネ」が紹介されていました。竹中氏は、今世紀初めから「改革の旗手」とされ、毀誉褒貶はありますが、「改革」にともなう「利権」に手を染めてきたという疑惑がつきまとってきました。詳しくは、以下をご覧ください。
特ダネ!検察が狙う大物は竹中平蔵か。安倍晋三亡き後の五輪利権の日当80万円ピンハネ問題と旧郵政グループのインサイダー問題。元朝日新聞・記者佐藤章さんと一月万冊 - YouTube

 竹中氏は、一時的な頓挫はありましたが、20年以上の長期にわたり、日本の経済・金融政策に影響を与えてきた人物で、アメリカ(ウォール街)のエージェンシーとしての立ち振る舞いも目につきました。しかし、個人的には断片的な情報しか持ち合わせていないので、これを機に、生い立ちから経歴を含めて、一通りのことを知りたいと思いました。調べたところ、本が地元の図書館に所蔵されていたので、昨日借りてきました。興味深いエピソードがちりばめられていて、短時間で一気に読めました。

 まず、これは著者の佐々木さんの理解でもありますが、竹中氏は「経済学者」の肩書きはあっても、その関心は、若いときから一貫して「政治」にあったと感じました。以下、本書からの引用です。

 ……竹中は、あくまで政策に関与するための手段として経済学をとらえている。もっといえば、政治権力に接近するための道具としてとらえているように見える。それは言葉よりむしろ行動にあらわれていた。国家権力の中枢を担う大蔵省から離れると、政治家の人脈づくりに精を出すようになっていったからだ。……竹中が小泉純一郎と接するようになったのもこの時期だ(1991年宮澤政権発足)。小泉を囲む勉強会に出席するようになり、政策を議論したりするようになった。政治家に政策を授けるための道具として経済学をとらえるならば、「テクノロジー」としての機能を発揮できなければ意味がないわけだ。
(本書 96ー97頁)

 シンクタンクという装置は、政治に近づくための手段であると同時に、大きな報酬を得るための大切な収入源でもあった。経済学という知的資産を政治に売り込み、換金する装置である。
 本業は慶應義塾大学総合政策学部教授だったけれども、竹中は副業を本格的に始めるために<ヘイズリサーチセンター>という有限会社を設立した。……副業は、「政策にかかわるコンサルティング業」ということになる。
(同 113頁)

 (喜朗)政権末期、竹中は森首相のブレーンの立場を確保しながら、次期首相候補の小泉に接近し、一方では、最大野党の党首である鳩山(由紀夫)とコンタクトをとっていた。政局がどう転んでも、政権中枢とのパイプを維持できる態勢を整えていた。小泉政権発足とともに入閣した竹中は、小泉の「サプライズ人事」で突然登場してきた「学者大臣」という受け止め方をされたけれども、実態は違っていたのである。
 永田町の個人事務所に鳩山を訪ね、……話を聞いた。応接室のソファに深く腰を下ろしていた鳩山が身を乗り出したのは、ダボス会議(2001年1月 鳩山も参加していて、このとき竹中から民主党のブレーン集団づくりを勧められ、任せると応じていた)の話を出したときだった。森首相の演説原稿には竹中がかかわっていたが、それとなく水を向けると、
「えっ、そうなの?」
 鳩山は大きな目をさらに見開いた。知らなかったというのである。このあと再び驚いたのは東京財団シンクタンク 当時、竹中が理事長)の話をしたときだ。森首相ブレーンの事務局が東京財団だったことも鳩山は知らなかったという。
「えっ、こちらも東京財団でしたよ。へえ、向こうでもやってたんだな。竹中さんたちは両方を牛耳ろうとしていたのかな。われわれには、野党がしっかりしないと日本の政治はよくなりません、といってたんだけどね」
(同 136-137頁)

 そして、専門家のあいだでは承知の事実かもしれませんが、アベノミクスは20年前の小泉政権の「構造改革」の二番煎じ、いや、それよりも醜悪なトレースに過ぎないという印象を強くもちました。裏で演出している人間が同じなのですから、これは当然かもしれません。以下の引用は、小泉内閣時代の金融政策の話ですが、何度読んでも「今」の話と見紛う内容です。

……小泉内閣時代の長期にわたる量的金融緩和政策はなにをもたらしたのだろうか。
 じつは、日銀が量的緩和政策で銀行に大量のカネを流し込んだものの、銀行から企業への融資はそれほど増えなかった。オーソドックスな意味での金融緩和効果はみられなかったのである。狭義の貨幣量である「ベースマネー」は急増したけれども、広義の貨幣量である「マネーサプライ」はそれほど増えていない。ところが一方、ベースマネーの膨張は為替相場に大きな影響を与えることになった。円安効果である。むしろ強力な円安誘導が輸出企業を潤し、企業業績を押し上げたのだった。
……こうした日銀による大量のマネー供給を歓迎したのは日本の輸出企業だけではなかった。沸き立ったのは海外の投資家たちである。……「日本には安く調達できる資金が大量にあったので、円キャリートレードはとても魅力的な投資で多くの投資家たちが利用していた。日銀はとても“堅実”で急に政策を転換するような無茶はせず、低金利政策を継続するとわかっていたので、安心して円を借りることができた」
「円キャリートレード」――日銀による量的緩和策の、それが帰結だった。投資ファンド量的緩和策のおかげで金利が無きに等しく、調達コストがかからない日本円で資金を調達し、ドルなどの外貨に交換してから投資した。当時の金利環境であれば、ゼロパーセント金利の円資金をドルに交換し、5%の預金で運用するだけでもまるまる5%の運用益を確実に稼ぐことができた。
 日本銀行は、欧米のヘッジファンドがまさに濡れ手で粟の利益を得る機会を与えていたのである。……小泉内閣のマネー政策は、……海外の投資家たちにまで「イリュージョン」をまき散らしたのである。
(同 276-277頁)

 終わりに、著者の佐々木さんは、2014年に亡くなった経済学者・宇沢弘文さんのことばを紹介しています。

 経済学は、ある目的を達成するために「どのような手段を用いたらよいか」を扱うけれども、「どのような目的を選択すべきか」を扱う学問ではない――経済学の古典『経済学の本質と意義』でライオネル・ロビンズが展開した主張を……そのまま受け入れるなら、「公正さ」のような「価値判断」を伴う概念は、経済学で論じることができなくなる。
 事実、「平等」「公正」といった概念を無視し、「効率」のみを形式論理的な枠組みの中で論じるようになったことで、この学問は「価値判断からの自由」を標榜できるようになった。けれども、それは見せかけに過ぎないのではないか。……「価値判断からの自由」は、「効率性のみを追求し、公正、平等性を無視する」という態度の表明にほかならないからだ。そして、効率性のみを追求する知識人が現実の政治と固く結びついて影響力を行使するとき、取り返しのつかない災いが起きる。……
(同 318-319頁)

 経済学が「倫理フリー」を標榜するようになって堕落していったことは、中山智香子さんも著書『経済学の堕落を撃つ』(講談社現代新書 2020年)で述べていたとおりです。
中山智香子『経済学の堕落を撃つ』 - ペンは剣よりも強く

 「価値判断からの自由」や「倫理フリー」を説く経済学者たちは、自由競争や効率に至上価値をおくことで理想的な社会を描き、賛同者・支持者(信者?)を募ってきました。竹中氏もそうです。しかし、彼らの言うフリーは、自己の社会的責任や政治責任からのフリーでもありました。そもそも、彼らは本当に自由競争や効率という理念に基づいて動いてきたのかどうか、疑わしい面もあります。竹中氏が会長を務めていたパソナの「中抜き」などは、どう見ても優越的立場を悪用して、競争や効率を排し、政府とグルになった利益供与でしょう。
 あるいは、竹中氏もそうですが、新自由主義の祖、ミルトン・フリードマンなどは、1回の講演やセミナーで有り得ない高額の謝礼(確か〇百万?)を受け取っているのを知って(ガルブレイスの本だったでしょうか?)、かつて唖然としたことがあります。これも彼らの言う「市場価値」で正当化できるのでしょうか? しかし、その金額で1年間暮らせる人がどれほどいるか、それを想像しないような「学問」や「政策」でよいのか。そう考えると、学問や、政策や、総じて社会システムや歴史の「必然」なるものも、もっと別の選択肢、別様のあり方があったはずだと思えてくるのです。

講談社 2013年4月刊 334頁]




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現実は経験を越え 島田雅彦さんの記事を読んで

 昨日も暑かったです。当地は多少海風が入るので千葉県内でも比較的涼しい方だと思うのですが、それでも最高気温が35℃に達しました。なかなかお目にかかれないような高温度です。東京・都心は40℃手前まで上がったということですが、まったくいつまで続くのやら……です。昼間の外出は控えるようにと、防災無線やテレビニュースで「通達」「指導(命令)」を聞かされますが、何もしないと畑は草だらけです。やむなく、午前中に所用を済ませ、午後から1時間半ほど草刈りにでかけましたが、自宅から400メートルほど離れた畑まで行くあいだに、誰とも(車にも)すれ違いませんでした。帰り途で車一台に追い抜かれたくらいです。みなさん、賢明だと思いました。

 「かつて経験したことのない暑さ」とか「こんな大雨は生きてきた中で初めて」などというフレーズは、この十数年メディアで好んで使い回されてきました。世界的な気候変動はおくとしても、実感としては確かに、高温化や多雨化といった異常気象の事例は増えているようにも思えます。しかし、たとえば伊藤俊一さんの『荘園』などを読んでいると、1230年6月には雪が降ったなどという話が出てきます。いくら異常気象とはいっても、千葉県でさすがに6月に雪が降ることなど想像外の話です。しかし、自分の経験を物差しにした「経験したことがない」「人生で初めて」という表現が、繰り返し繰り返しメディアにあふれるのは、エキセントリックに異常性を強調する以上の意味があるようにも思えます。過去に遡ればことさら異常という程でもないことにまで、「経験したことがない」という形容句を付すのは、歴史の冒涜とまでは言いませんが、自分と現世の尺度の方は何も変わるところがない、ある種の保守性に裏打ちされているような気もします。要は、自分の経験を相対化するとか、越え出て、他の世界や過去の事例に学ぼうという気持ちが乏しいのでは、と。現世主義は歴史(の重み)を嫌う傾向があります。街頭で、何かにつけて「経験したことがない」「生きてきた中で初めて」という一言を(御用)メディアが言わせるのは、非常大権が必要になるという意味では、間接的な政権擁護効果があるからなのでは、とも思えます。

 そんなことをあれこれ考えながら、作業を終えて帰宅し、ネットを眺めていて、作家の島田雅彦さんの7月28日付の記事を見ました。これは良記事です。島田さんへのインタヴューをまとめたものなのですが、3月に刊行された著書『パンとサーカス』(講談社)からの引用を交えながら、安倍氏の殺害事件や国葬問題などについて、こう書かれています。一部引用をお許しください。
 ※太字部分は『パンとサーカス』からの引用とのこと。

安倍元首相銃撃後の日本、このままでは「暗黒時代」のドアが開くかもしれない(島田 雅彦) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)

……殺された安倍元首相は顕彰すべき功績などほとんどなく、無駄に最長在任記録を作っただけで、その間に民主主義と経済を破壊した。GDPや民間の所得、年金は下落し、倒産、自己破産は増加、数々の疑惑に対し、国会で虚偽答弁を重ね、公文書の改竄、破棄を促し、公金を濫用し、バラマキ外交に終始し、ロシアとの領土交渉に失敗し、ポンコツ戦闘機の爆買い等、米政府のATMとして奉仕し、改憲と軍備増強を訴え、レイプ事件のもみ消しを図るなどの悪行の方が目立つ。
にもかかわらず、戦死した軍人を軍神に奉るかのように、元首相の神格化を政府は率先して図ろうとし、マスメディアが追従している。議論もないまま拙速に国葬を決めたのも、一連の罪状が蒸し返されるのを避けるため、また旧統一教会との癒着関係の追及をかわすためであろう。つまりは臭い物に蓋をするのに国葬を使うという甚だ不謹慎なことをしている。「死ねば、全て免罪」となるのなら、誰も生前に罪を償う気にはなるまい。……

……時間の経過とともに世論は変わる。四十九日が経過した頃、暗殺者に対する同情論は出てくるだろうか? 1921年朝日平吾安田財閥安田善次郎を暗殺した際、最初は犯人への非難一辺倒だった世論も財閥の陰の一面があきらかになると、同情論に変わった。これ以後、原敬暗殺、血盟団事件五・一五事件二・二六事件とテロが連鎖したが、果たして歴史は繰り返すのか? 自殺の場合は後追い現象が頻発するが、暗殺やテロも100年前と同様、反復されかねない。

あってはならぬことが起きる時代
「世直し」に賛同する者、奇跡を待望する者、正義を実行したい人、社会や国家に復讐したい人、このクソな世界の滅亡を希求する者、それら不平市民の潜在的人口はかなりの数に上るはずだが、実際に糾弾の声をあげ、行動に打って出る人の数はその1パーセントにも満たないだろう。絶望した者の多くは沈黙と服従に向かう。耐え難きを耐えるのが美徳だと思い込んでいるのか、思い込まされているのか、何か行動を起こしたところで報われることはないと諦めている。「不幸なのはおまえだけではない。みな平等に不幸なのだ」という不幸の民主主義に甘んじている。

世直しを希求しながら、現実にはそれがなされないという絶望が一層深まれば、テロに打って出ようとする者が現れてもおかしくない。もちろんテロはあってはならない。しかし、ありえないことやあってはならぬことがしばしば、政治の世界では起きる。安倍が君臨した時代はその具体例に事欠かなかった。政治の劣化が極まれば、社会もそれに合わせて荒廃する。

――世直しゆうても、政治を変えるゆう意味やない。国会議員になったかて何も変わらん。アホな有権者目覚めさすにはショック療法が必要や。大きなサーカスを立ち上げな。サーカスゆうても、空中ブランコでも象の曲芸でもない。民衆の不安、興奮、恐怖、感動を誘うスペクタクルのことや。戦争、祭典、犯罪、天災、疫病、支配者は権力を強化するためなら、何でも利用する。世直ししたければ、支配者が打ち出すサーカスを超えなあかん。

パンとサーカス』にはテロや暗殺を焚きつけるフィクサーが登場し、こんなセリフを呟く。その人物は世直しのスポンサーになり、主人公にテロ資金の援助を行う。だが、山上容疑者にスポンサーはいなかった。

復讐や抵抗、暴動や反乱、暗殺やテロは誰にも気づかれないように準備し、静かに、敵の意表を突いて、実行されなければならない。

山上容疑者は20年以上もの長きにわたり、怨恨を募らせ、この原則通りに行動した。地方遊説中、警備の薄い奈良・大和西大寺駅前を選び、支持者を装い、背後約6メートルまで接近し、限りなく火縄銃に近い手製の散弾銃で元首相を銃撃し、周囲の人間を一切傷つけず、即死に近い形で死に至らしめた。
周到な計画と目的なしに暗殺は滅多に成功しない。このハンドメイド・テロは新自由主義者が好む自助努力の結晶といってもいいくらいである。ちなみに『パンとサーカス』にはテロリズムに走る元自衛官が登場するが、その名前は山上と一字違いの池上となっている。

取り調べでの山上容疑者の供述は微妙に加工されるだろう。あくまで、これは政治テロではない、安倍元首相に対する直接的な恨みではない、精神鑑定の必要があるなどと発表し、犯行動機を意図的に曖昧にし、政治に遠因があることを目立たなくするだろう。
事件から一週間ほど経過した頃から山上容疑者のものと思われるネットへの書き込みが出回り、すぐに削除された。韓国へのヘイト発言、安倍元首相の功績を称える文言などを読む限り、山上は「冷笑系ネトウヨ」と見做される言動を意図的にとっていたことがわかる。これ自体が暗殺ターゲットに接近しやすくするカモフラージュだったかもしれない。少なくとも、安倍の批判者がテロを誘発したという風説は山上本人によって否定されたようなものだ。
100年前の暗殺の連鎖の時も、戦後の暗殺、暗殺未遂事件のほとんどのケースでも、実行犯は右翼だった。「君側の奸」を撃つというのが戦前の暗殺の動機だが、安倍元首相の祖父岸信介の暗殺未遂は、アメリカに日本を売った売国右翼に対する愛国右翼による逆恨みという側面があった。そしてその62年後、祖父を敬愛する孫が旧統一教会に深い恨みを抱く生活苦のネトウヨに暗殺されたと考えれば、歴史は反復されたというしかない。

 事件直後の街のインタビューで、「日本でもこういうテロ事件(政治家暗殺)が起きるんだと驚いた」という声が複数ありました。亡くなった安倍氏自身にしてもそうだし、警備を担当した警察も、どこかにそうした思い込みがあったでしょう。小生を含め、多くの人も、現実世界が自己の「経験」など、はるかに越えていることをすっかり忘れていたと思うのです。しかし、事件が起こり、このとき、我に返ったのです。

 島田さんの『パンとサーカス』を是非読まなければと思いました。




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