昨日も暑かったです。当地は多少海風が入るので千葉県内でも比較的涼しい方だと思うのですが、それでも最高気温が35℃に達しました。なかなかお目にかかれないような高温度です。東京・都心は40℃手前まで上がったということですが、まったくいつまで続くのやら……です。昼間の外出は控えるようにと、防災無線やテレビニュースで「通達」「指導(命令)」を聞かされますが、何もしないと畑は草だらけです。やむなく、午前中に所用を済ませ、午後から1時間半ほど草刈りにでかけましたが、自宅から400メートルほど離れた畑まで行くあいだに、誰とも(車にも)すれ違いませんでした。帰り途で車一台に追い抜かれたくらいです。みなさん、賢明だと思いました。
「かつて経験したことのない暑さ」とか「こんな大雨は生きてきた中で初めて」などというフレーズは、この十数年メディアで好んで使い回されてきました。世界的な気候変動はおくとしても、実感としては確かに、高温化や多雨化といった異常気象の事例は増えているようにも思えます。しかし、たとえば伊藤俊一さんの『荘園』などを読んでいると、1230年6月には雪が降ったなどという話が出てきます。いくら異常気象とはいっても、千葉県でさすがに6月に雪が降ることなど想像外の話です。しかし、自分の経験を物差しにした「経験したことがない」「人生で初めて」という表現が、繰り返し繰り返しメディアにあふれるのは、エキセントリックに異常性を強調する以上の意味があるようにも思えます。過去に遡ればことさら異常という程でもないことにまで、「経験したことがない」という形容句を付すのは、歴史の冒涜とまでは言いませんが、自分と現世の尺度の方は何も変わるところがない、ある種の保守性に裏打ちされているような気もします。要は、自分の経験を相対化するとか、越え出て、他の世界や過去の事例に学ぼうという気持ちが乏しいのでは、と。現世主義は歴史(の重み)を嫌う傾向があります。街頭で、何かにつけて「経験したことがない」「生きてきた中で初めて」という一言を(御用)メディアが言わせるのは、非常大権が必要になるという意味では、間接的な政権擁護効果があるからなのでは、とも思えます。
そんなことをあれこれ考えながら、作業を終えて帰宅し、ネットを眺めていて、作家の島田雅彦さんの7月28日付の記事を見ました。これは良記事です。島田さんへのインタヴューをまとめたものなのですが、3月に刊行された著書『パンとサーカス』(講談社)からの引用を交えながら、安倍氏の殺害事件や国葬問題などについて、こう書かれています。一部引用をお許しください。
※太字部分は『パンとサーカス』からの引用とのこと。
安倍元首相銃撃後の日本、このままでは「暗黒時代」のドアが開くかもしれない(島田 雅彦) | 現代ビジネス | 講談社(1/6)
……殺された安倍元首相は顕彰すべき功績などほとんどなく、無駄に最長在任記録を作っただけで、その間に民主主義と経済を破壊した。GDPや民間の所得、年金は下落し、倒産、自己破産は増加、数々の疑惑に対し、国会で虚偽答弁を重ね、公文書の改竄、破棄を促し、公金を濫用し、バラマキ外交に終始し、ロシアとの領土交渉に失敗し、ポンコツ戦闘機の爆買い等、米政府のATMとして奉仕し、改憲と軍備増強を訴え、レイプ事件のもみ消しを図るなどの悪行の方が目立つ。
にもかかわらず、戦死した軍人を軍神に奉るかのように、元首相の神格化を政府は率先して図ろうとし、マスメディアが追従している。議論もないまま拙速に国葬を決めたのも、一連の罪状が蒸し返されるのを避けるため、また旧統一教会との癒着関係の追及をかわすためであろう。つまりは臭い物に蓋をするのに国葬を使うという甚だ不謹慎なことをしている。「死ねば、全て免罪」となるのなら、誰も生前に罪を償う気にはなるまい。……
……時間の経過とともに世論は変わる。四十九日が経過した頃、暗殺者に対する同情論は出てくるだろうか? 1921年、朝日平吾が安田財閥の安田善次郎を暗殺した際、最初は犯人への非難一辺倒だった世論も財閥の陰の一面があきらかになると、同情論に変わった。これ以後、原敬暗殺、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件とテロが連鎖したが、果たして歴史は繰り返すのか? 自殺の場合は後追い現象が頻発するが、暗殺やテロも100年前と同様、反復されかねない。
あってはならぬことが起きる時代
「世直し」に賛同する者、奇跡を待望する者、正義を実行したい人、社会や国家に復讐したい人、このクソな世界の滅亡を希求する者、それら不平市民の潜在的人口はかなりの数に上るはずだが、実際に糾弾の声をあげ、行動に打って出る人の数はその1パーセントにも満たないだろう。絶望した者の多くは沈黙と服従に向かう。耐え難きを耐えるのが美徳だと思い込んでいるのか、思い込まされているのか、何か行動を起こしたところで報われることはないと諦めている。「不幸なのはおまえだけではない。みな平等に不幸なのだ」という不幸の民主主義に甘んじている。
世直しを希求しながら、現実にはそれがなされないという絶望が一層深まれば、テロに打って出ようとする者が現れてもおかしくない。もちろんテロはあってはならない。しかし、ありえないことやあってはならぬことがしばしば、政治の世界では起きる。安倍が君臨した時代はその具体例に事欠かなかった。政治の劣化が極まれば、社会もそれに合わせて荒廃する。
――世直しゆうても、政治を変えるゆう意味やない。国会議員になったかて何も変わらん。アホな有権者目覚めさすにはショック療法が必要や。大きなサーカスを立ち上げな。サーカスゆうても、空中ブランコでも象の曲芸でもない。民衆の不安、興奮、恐怖、感動を誘うスペクタクルのことや。戦争、祭典、犯罪、天災、疫病、支配者は権力を強化するためなら、何でも利用する。世直ししたければ、支配者が打ち出すサーカスを超えなあかん。
『パンとサーカス』にはテロや暗殺を焚きつけるフィクサーが登場し、こんなセリフを呟く。その人物は世直しのスポンサーになり、主人公にテロ資金の援助を行う。だが、山上容疑者にスポンサーはいなかった。
復讐や抵抗、暴動や反乱、暗殺やテロは誰にも気づかれないように準備し、静かに、敵の意表を突いて、実行されなければならない。
山上容疑者は20年以上もの長きにわたり、怨恨を募らせ、この原則通りに行動した。地方遊説中、警備の薄い奈良・大和西大寺駅前を選び、支持者を装い、背後約6メートルまで接近し、限りなく火縄銃に近い手製の散弾銃で元首相を銃撃し、周囲の人間を一切傷つけず、即死に近い形で死に至らしめた。
周到な計画と目的なしに暗殺は滅多に成功しない。このハンドメイド・テロは新自由主義者が好む自助努力の結晶といってもいいくらいである。ちなみに『パンとサーカス』にはテロリズムに走る元自衛官が登場するが、その名前は山上と一字違いの池上となっている。
取り調べでの山上容疑者の供述は微妙に加工されるだろう。あくまで、これは政治テロではない、安倍元首相に対する直接的な恨みではない、精神鑑定の必要があるなどと発表し、犯行動機を意図的に曖昧にし、政治に遠因があることを目立たなくするだろう。
事件から一週間ほど経過した頃から山上容疑者のものと思われるネットへの書き込みが出回り、すぐに削除された。韓国へのヘイト発言、安倍元首相の功績を称える文言などを読む限り、山上は「冷笑系ネトウヨ」と見做される言動を意図的にとっていたことがわかる。これ自体が暗殺ターゲットに接近しやすくするカモフラージュだったかもしれない。少なくとも、安倍の批判者がテロを誘発したという風説は山上本人によって否定されたようなものだ。
100年前の暗殺の連鎖の時も、戦後の暗殺、暗殺未遂事件のほとんどのケースでも、実行犯は右翼だった。「君側の奸」を撃つというのが戦前の暗殺の動機だが、安倍元首相の祖父岸信介の暗殺未遂は、アメリカに日本を売った売国右翼に対する愛国右翼による逆恨みという側面があった。そしてその62年後、祖父を敬愛する孫が旧統一教会に深い恨みを抱く生活苦のネトウヨに暗殺されたと考えれば、歴史は反復されたというしかない。
事件直後の街のインタビューで、「日本でもこういうテロ事件(政治家暗殺)が起きるんだと驚いた」という声が複数ありました。亡くなった安倍氏自身にしてもそうだし、警備を担当した警察も、どこかにそうした思い込みがあったでしょう。小生を含め、多くの人も、現実世界が自己の「経験」など、はるかに越えていることをすっかり忘れていたと思うのです。しかし、事件が起こり、このとき、我に返ったのです。
島田さんの『パンとサーカス』を是非読まなければと思いました。
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