ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

中山智香子『経済学の堕落を撃つ』

 副題は、「自由」VS「正義」の経済思想史。こういうタイトルの命名法は講談社現代新書ではたまに目にするが、ある種の「誤解」や「先入観」を誘引される。が、内容としては、著者自身が「終わりに」に書いているとおり「著者なりの経済思想史の教科書」なのだろう。また、それ以上に、「経済とは人間が生きて食べて暮らしていくための活動であり、これを明らかにし、ささえるのが経済学である」という至極もっともなスタンスが貫かれており、そこに共感する。

 著者は1880年代半ばの「方法論争」(オーストリア学派メンガーvsドイツ歴史学派・シュモラー)から話を始める。それは、ここで、経済学に関わる2つの重要な理念—「自由」と「公正」あるいは「正義」—が明らかになり、のちの潮流の大きな分岐点になったからだという。
 小生のような老(陋)人世代はアダム・スミスから「経済学」が始まったと習った。しかし、これも自由主義経済学(古典派経済学の流派)が勝手にスミスを「自由放任」の始祖に祭り上げ、『国富論(諸国民の富)』を名誉ある古典にしたという話で、スミスの思想自体は、『国富論』と、それより先に書いた『道徳感情論』とをセットにして考えないといけないという指摘は前からある(そもそもスミスは、未分化とはいえ、倫理学、道徳哲学の大学教授である)。さらに付け加えるなら、そのあとに出てくるマルクス。彼が書いた『資本論』の副題は「経済学批判」であり、ここで批判されている「経済学」がいわゆる自由主義経済学なのは言わずもがなである。「自由」VS「正義」という「見立て」自体は、本書が「経済学の分岐点」と位置づける19世紀の後半よりも前に、見ようとすれば見える。
 それでもあえて、1880年代に焦点を当てるのは、理念と方法論のこともあるが、両派の論点を背負ってアメリカに渡り、絶大な影響力をもつことになるシュンペーターの存在が大きいのではないかと勝手に想像してみたりする。シュンペーターがシュモラーの主張する正義や倫理を評価せず、シュモラーの業績からそれらをそぎ落としたことが、のちに主流を形成する数量経済学への流れを後押ししたと著者は言っている。

 内容の全般まではまとめられないので、目次だけ記しておくと、以下のとおり。

第一部 経済学の分岐点——倫理から倫理「フリー」へ
 第一章 市場は「自由競争」に任せるべきか―—理念と方法を問う
 第二章 「暮らし」か「進歩」か―—ダーウィニズムと経済学
 第三章 「逸脱」のはじまり
 第四章 経済学からの「価値」の切り離し
      ——「社会主義経済計算論争」の行方

第二部 「アメリカニズム」という倒錯
 第五章 「自由」か「生存」か——大戦間期の「平和」の現実
 第六章 マネジメント=市場の「見える手」
 第七章 経済成長への強迫観念と、新たな倒錯のはじまり
 第八章 (特別編)工業化される「農」
      ——食にみるアメリカニズム

第三部 新たな経済学の可能性をもとめて
     ——擬制商品(フィクション的商品)の呪縛から離れて
 第九章 世界システム分析の登場
 第十章 「人間」をとりもどす―—「労働」から「人間」へ
 第十一章 「おカネ」とはなにか
       ——「レント」および「負債」をめぐる思考
 第十二章 「土地」とはなにか
       ——そして「誰かとともに食べて生きること」


 「教科書」とはいえ、これだけの内容を270数頁に盛り込んだことには敬服する。個人的には第6章が一番興味深かった。

 あまり立ち入った話ができる素養もないが、一点だけ、マルクスエンゲルス救貧法や救貧院にほとんど着目しなかった(45頁)とあるのは疑問だ。「着目」の意味するところがわからないが、言及している箇所なら何か所もある(たとえば、『資本論・第1巻』、 第23章 資本制的蓄積の一般法則、ほか)。

 以下、印象的だった本文の断片を引用する。

アインシュタイン……によれば、経済学は人間が集まって行うことを分析するため、そこに「科学」的法則性を見出すことはむずかしい。しかし、アインシュタイン自身もその担い手の一人である「科学」にできることはたかだか、与えられた目的にいかなる手段で到達するかを専門的に考察することにすぎない。ところが経済学や社会科学は、社会的・倫理的な目的そのものを定めることができる。その方がずっと重要であり、またそのためには科学や専門家だけでは十分ではない。……アインシュタインは「食糧、衣服や家、仕事のための道具、言葉、思考様式、思想的内容のほとんどを人に与えるのは『社会』である。ひとの生は、『社会』という小さなことばの陰にひそむ、過去や現在の何百万ものひとすべての労働やその労働が成し遂げたことによって、はじめて可能になっているのだ」と述べている。
(75-76頁)

〇この時代遅れ、あるいは老朽化(obsolescence)という用語は、マネジメント資本主義の重要な用語となっていた。というのは、技術の開発や革新が、大恐慌前後のこの時期から、いかにして製品をあまり長持ちさせず、適当な時期に壊れるようにつくるかに向けられるようになり、商品や人間に老朽化の判断を下すことが必要となっていたからである。この発想は戦時期を生き延び、やがて大衆消費社会を支えることになった。すでに壊れたものだけでなく、まだ壊れていないものでももう時代遅れ(obsolete)だから買い換えたほうがいいという考えを普及させる戦略もあらわれ、これがアメリカ的な生活様式であると喧伝された。対比されたのは、古くなったものをずるずると使い続けるイギリス文化であった。
(149-150頁)

〇ポランニーの……『大転換』では、本来、商品ではなかった「人間・自然・価値」が「労働力・土地・貨幣」という商品になったことを指して、これらを「擬制商品」、すなわち「虚構(フィクション)の商品」と定義した。人間は擬制商品となったことにより、本来もっていたはずの社会的な紐帯を失い、脱社会化させられてしまったのだ。
(230頁)

 最後に、昨年12月25日付の東洋経済の著者のインタヴュー記事からの抜粋(聞き手:筒井幹雄氏)。

ポランニーやグラムシを援用、没価値的な経済学を立て直す | 東京外国語大学教授 中山智香子氏に聞く | 話題の本 著者に聞く | 週刊東洋経済プラス

——執筆当初は“中立地帯”に。

お題が「著者なりの経済思想の教科書」だったので(笑)。今は価値観が違うと、それだけで話を聞いてもらえない。別の立場を取る人にも届くようにと思いました。柄にもなく価値判断を極力避けて書き進めたら、編集者に「ドラッカーもシュルツもよくやっているし、では伝わらない。いいか悪いか、どっち?」と言われました。

——吹っ切れて「堕落している」。

限界革命メンガーあたりから、経済学は自然科学幻想にとらわれてしまった。人間の営み、とりわけ政治はドロドロして一般性がないとして、数値で表せれば説得力があると考える。わからないではないが、中立的に見える数字がいかに価値判断を含んでいるかは以前からいわれています。また、数字で語れることに限界を覚え、価値観を表明できることに魅力を感じて数学から経済学に移る人もいるのです。自由主義経済学の人たちは逆行しています。
主たる道具である数理モデルで確実に言えないことは守備範囲外と居直る。経済が政治、社会に大きく影響し、経済学者への期待が潜在しているのに、関係ない感や政治への忌避感がすごい。

<中略>

——経済学が改心しても、成長=善で生きてきた人々に響きますか。

コロナショックに見舞われている今が重要な局面だと思っています。つまり、成長がいいことだと思っていてもどうにもならない状況がある。成長好きな人はマネジャー的労働で管理が内面化されていて、出張や残業でそうとう無理をしていたのではないか。それが物理的にできなくなった。
根本的な価値観は急変させずとも、頑張りに無理があることを認めるだけでも少し楽になる。個々のスタンスは上からの指示命令なしに各自が決めればいいのです。
しばらくは自分の命に関わる問題について、リアリティーを持って考えるという時期が続くだろう。全体的なビジョンの立て直しは急務ですが、全国でGo To トラベルを一時停止せざるをえなかったように、株価が上がって儲かる人ではなく、日々働いて生きている人の実感が最後は世の中を動かしていくのではないでしょうか。
自由主義経済が幅を利かす時代には、自由を謳歌できる人が圧倒的に少ないのです。

講談社現代新書 2020年11月 277頁)


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