ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

『亜鉛の少年たち』を読んで

 副題は「アフガン帰還兵の証言」。 原著は1991年刊。日本語訳は、故・三浦みどりさんの訳で、1995年、日本経済新聞社から『アフガン帰還兵の証言』という題名で刊行されています。今回改めて、奈倉有里さんの新訳で、岩波書店から増補版(裁判記録付)として刊行されたのが本書です。裁判記録が付されたことで、改めて著者スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチさんの「聞き書き」という仕事と文学の意義を考えさせる内容になっています。
 
 話は、ソ連邦崩壊前の事、1979年にブレジネフ政権時代に開始され、10年後のゴルバチョフ政権下に終わることになるアフガニスタンへの軍事介入にかかわる証言録です――ソ連アフガニスタン侵攻は、アメリカのヴェトナム戦争によくなぞらえます。歴史の教科書的に言えば、そういうことになるでしょう。日本からは「遠い」異国の話です。特に関心がなければ「遠い」ままで済ませることもできます。しかし、地理的に言って「遠い」ことのない(当事国!)のロシア(旧ソ連)の人々にとっても、「遠い」人には「遠い」のです。事は戦争に限らず、その他についても同じです。知らなければ、知らないままだし、考えなければ、考えないままなのです。

 でも、人間、知りたくもないことを知ってしまうことはあります。知っている側が知らない側に、ねえ、これ知ってる?と言えるレベルの話なら、NHKのチコちゃんのごとく、知らないの?「ボーっと生きてんじゃねーよ!」などという捨て台詞で笑いのひとつになるかもしれません。しかし、亜鉛の棺桶に入れられて親元に帰された青少年のことや、「苛酷」とか「熾烈」とか「悲惨」とか、その種の言葉では何も言い表していないに等しいアフガン戦争従軍者の語りを知ってしまったらどうでしょう。安易に他者に、これ、知ってる?などと伝える行為が、どれだけ軽薄で思慮を欠いているかと、とらえられなくもありません。さらにこれに政治権力がからんで、余計なことを言うな、書くな、となる危険を想像すると、普通の人はいっそう口が重くなります。今のSNSを見ていれば、まるでその捌け口にでもなったかのように、口汚い悪罵や攻撃が飛び交い、凄惨な光景も目にします。気が重くなりますが、それでも何でも、知っておいた方がいいこと、知らなければいけないことはあると思っています。
 だからなのかどうかはわかりませんが、著者のアレクシェーヴィチさんは、彼女の作品としては珍しく、冒頭に自らの手帳に記した文章を載せ、内面を吐露しています。

1986年6月――
 もう戦争の話は書きたくない……。またしても「生の哲学」の代わりに「消失の哲学」のなかで生きるなんて、際限のない虚無の体験を集めるなんて。『戦争は女の顔をしていない』を書きあげたあと、私はしばらく日常生活で子供が鼻血を出す姿をまともに見れなかったし、保養地にいても、漁師が威勢よく砂浜に放った深海魚を見ては逃げ出していた。硬直した魚の目が飛び出しているのを見ると吐き気がした。人は誰しも痛みから身を守るための力を備えているけれど、肉体的にも精神的にも、私の力は尽き果ててしまっていた。……
 けれども突然!――それを「突然」と呼べるのならだけれど。戦争は7年目に突入していた……。それなのに私たちに知らされるのは、戦争を英雄視するテレビ番組の情報だけだ。ときおり、狭苦しいフルシチョフカ[フルシチョフ時代に量産されたアパート]には収まらない亜鉛の棺が遠くから運ばれてきて、私たちはハッとさせられる。弔砲が鳴り止むと、ふたたび静寂が訪れる。この国の神話的精神は揺るがない――我々は公平で偉大で、常に正義である。世界革命の理想の最後の残照が燃えたち、燃え尽きようとしている……。その火はすでに家に引火しているのに誰も気づこうとしない。自分たちの家が燃えだしているというのに。ゴルバチョフペレストロイカが始まった。皆が新しい人生へと先を急ぐ。なにが私たちを待ち受けているのか。これほど長い年月のあいだ無理やり嗜眠状態にされていたあとで、なにができるだろう。この国の少年たちはどこか遠くで、なんのためかもわからず死んでいく……。
(『亜鉛の少年たち』 11-12頁)

 本書から引用したい箇所は数知れません(付箋もたくさんつけました)が、上に書いたように、読後の今はそれも少々憚られます。それでも、これらが決して「遠い」話でないことだけは確かです。「あいだ」におくべき話がなくて恐縮ですが、裁判の傍聴席の会話として引かれていた言葉だけを引用します。

 アーサー・ケストラーユダヤ人ジャーナリスト)がこう言ったでしょう――「なぜ真実を話すと、必ず嘘のように聞こえてしまうのだろう。どうして新たな人生を切り拓こうとすると、この地上が死体でいっぱいになるのだろう。なぜ明るい未来について語るとき、必ず脅しを挟むのだろう」と……。
 静まり返った集落を撃ったときも、山あいの道に爆弾を落としたときも、私たちは自分たちの理想を撃ち、理想を爆破していたんです。この恐ろしい真実を認めなきゃいけない、実感しなきゃいけないんです。……いまだからこそ、勇気を出して真実を認めるべきなんです。やりきれない、耐えきれないと人は言います。わかっています。私もそうでしたから」
「残された道は二つだ――真実を知るか、真実から逃げるか。目を見はって見なきゃいけないんだ……」
(同書 365頁)

 2022年の今年、本書の新訳が刊行されたのは、偶然ではなく、現下の情勢を睨んでという意味合いもあると思います。著者が「なにが私たちを待ち受けているのか」と記した1986年から今年で36年、アフガン撤退から33年。ウクライナの戦争は8ヶ月目に入りました。が、アフガンだけでなくウクライナの戦争を「知らない人」「知りたくない人」は、日本にも、当事国のロシアにもいるようです。
 ネットで「戦死者数わかってますか? 」という動画を見ました。プーチン大統領が「部分的動員令」を発した9月21日から一週間後の9月28日、モスクワの街頭で通行人にインタヴューしたもののようです(男性しか出てきませんが)。学生さんとおぼしき人が答えている姿を見ると、何とも言えない気持ちになります。
戦死者数わかってますか? ロシア人にきいてみた。 - YouTube

 その他、新聞の書評欄の記事など、参考までに貼り付けておきます。
今週の本棚:伊藤亜紗・評 『亜鉛の少年たち』=スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ著、奈倉有里・訳 | 毎日新聞
「亜鉛の少年たち」 戦場も法廷も 人の姿つぶさに 朝日新聞書評から|好書好日
【飛ぶ教室】アフガン 隠された侵略戦争の真実とは|読むらじる。|NHKラジオ らじる★らじる

[スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ 奈倉有里訳 岩波書店 2022年6月刊 434頁]



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