ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

ファシズムはイデオロギーなしに成立する

 岩波書店編集部の「なみのおと」チームが公開しているnoteに、ロシアの作家・文芸批評家、ドミートリー・ブィコフ氏が、ロシアのウクライナ侵攻が始まった2日後の2月25日、ラジオの持ち番組「モスクワのこだま」で2時間近く語った話の抄訳が掲載されています。
 今や相手をファシズムファシストと呼んだもの勝ちで、「ファシズムの氾濫・過剰」などと言うと誤解されそうですが、まるでそれが負の「錦の御旗」にでもなったかのようで、ずっと違和感を覚えてきました。けれども、ファシズムが一切のイデオロギー抜きで、たんなるルサンチマンひとつで成立してしまうというブィコフ氏の指摘、形容矛盾の「リベラル・ファシスト」という語は「忖度文化」に染まった社会で生きている自分や他の人々にもどこか当てはまるような気がして、考えさせられました。一部引用させてください。訳文はロシア文学者の奈倉有里さんによります。

【緊急掲載】戦争という完全な悪に対峙する──ウクライナ侵攻に寄せて|ドミートリー・ブィコフ/奈倉有里編訳|コロナの時代の想像力|note

1.形而上学的な憎悪にかられている
今日の放送をしないで済むのなら、高い代償を払ってでもそうしたかった。自分の母親が亡くなった日と同じくらいの悲しみを抱え、それでも今日、逃げ出すことはできなかった。私たちが生きているあいだに、またもや戦争が起きた。
ロシアがどうやってこの戦争から抜け出すのか、そのときどうなっているのか、私にはわからない。おそらく、とても長い時間がかかるだろう。ロシアにとってこの戦争が、自国民との戦争にもなることは間違いない。すでにモスクワでも平和を訴えた人が1000人以上逮捕され、わずかに生き延びていた報道機関も制圧され、「戦争に反対する可能性がある」だけの人々の自宅にまで警察が押しかけて逮捕しようとしている。この番組によく出演してくれている詩人のマリーナ・ボロヂツカヤの家にも警察が脅しをかけにきた。
ロシアの政権や警察が「国家の敵」としているのはそういう人々だ。かつてワシーリー・アクショーノフ〔1932-2009、作家〕が、イリーナ・ラトゥシンスカヤ〔1954-2017、ウクライナ出身の詩人。82年に反ソ的作品を理由に逮捕され投獄〕の写真を用いて「詩を描いている女の子だ、ソ連はこんな子を敵と見做しているのだ」と嘆いた。しかしいまのロシア政府はブレジネフ政権と比較にもならないほど、女だろうと子供だろうと自民族だろうと他民族だろうとどんな相手も敵に仕立てあげようとしている。周知のようにプーチンはなにか超越的というか、形而上学的といってもいいほどの憎悪にかられている。これは恐ろしいことだが、最も恐ろしいのはロシアがこの先長い時間をかけてその道を行こうとしていることだ。

2.これは私たちを蝕んでいる癌だ
ずいぶん前に私は、「かつて世界に憧れられたような、私たちが目指していたロシアはもう跡形もなくなってしまった」と書いた。もはやロシアは『ドクトル・ジヴァゴ』〔ボリス・パステルナーク〕のラーラのイメージではない。憎悪にとりつかれ恨みを晴らそうとしている恐ろしいバーバ・ヤガー〔妖婆〕だと。世界からみれば今後ウクライナは神聖な存在となり、ウクライナのしたことならなにもかも批判できないような世論も生まれるだろう。
今後、戦争に反対の声をあげる人がいかに弾圧されるか……。私は決しておどかすようなことは言いたくない。だがそもそもロシアの人々は全員が人質になったようなものだ。
それでも、ウクライナの友人たちに呼び掛けずにはいられない。キエフ〔キーウ〕にはよく行くし、最後に行ったのは2月の始めだ。キエフには友人だけでなく、私が尊敬する人々、意見を求め、その人たちに気に入られたいと思うような人々がいる。言葉の選択を恐れずに語り合える貴重な人々がいる。いまや私たちはロシアにいると、どんなに自由にものを言うように見える人であっても、やはり国や上の顔色を伺い、「リベラル・ファシスト」(なんと不可解な語結合だろう)の烙印を押されないよう気を使っている。その大切なキエフの、私の愛する、尊敬する友人たちがいま、みんな地下避難所にいて、爆撃に怯え、これからロシア政府がキエフを占領したら、「リベラル・ファシスト政府」に協力した人々を公開処刑にする可能性さえあるのではないかと恐れている。実際、そう言われて続けてきたのだ──キエフの秩序を取り戻すとか、マイダンを支持した人々を晒し者にするとか。権力側の「ラディカル・ファシスト」たち(いまやほんとうにこの言葉に見合う存在になってしまった)はそう言っていたのだ。
私たちはいま恐怖と絶望のさなかにある。ウクライナだけではなく、私たちの幸福も人生もすべてが踏みにじられていく。これは私たちを蝕んでいる癌だ。

3.イデオロギー抜きで成立したファシズム
恐ろしい展開が頭に浮かぶ。もしウクライナ側も軍を組織し、こうして裏付けのできてしまった「ロシア嫌悪」に基づいて戦争を展開し、ロシアとのすべての関係を断ち、密接に絡んだ根を断とうとし、今後の選挙でその勢力が勝ち続けるとしたら──。
ロシア政府で権力を握った人間は、まさかこんなふうに世界中の人間を踏み躙り、すべての意味のあるものが意味をなくし──人を、神の探求も対話も芸術も、あらゆる価値あるものに取り組めない状態にし、ただ恐怖と憎しみに震える獣に変えてしまうような、そんな状態にすることが目的だったというのか。ほんとうにこんなことが目的なのか?! だがそんなことが可能になってしまったのは、権力側の人間があらゆる市民を、暴力を使えばどんなことでも言うことを聞かせられる存在だと思っているからでもある。
いま「こうするしかなかった」と言っている人々、「ロシアは敵に囲まれNATOに侵略されそうになっていたから戦争は避けられなかった」と言っている人々が、呪われるであろうことは間違いない。しかしどんなに呪ってもなにも救われないし、なにももたらされない。

未来の学術界はこの事象をどう扱うことになるのだろう──なにしろファシズムが、一切のイデオロギー抜きで成立するものだということが明らかになったのだ。たんなるルサンチマンひとつで成立してしまうのだ。つまりファシズムとは、思想の生んだ現象でも文化の生んだ現象でもなく、心理的現象、あるいは心の病気のような現象だったのだ。それは感情であり、その感情に身を委ねることを心地よく思う人がいる。人間の本性として、巨悪に加担し、なにをやっても許されるという興奮状態に陥り、威力を見せつけたいという感情がある。人を酔わせる、怒りの感情だ。

私は今日もちろん、戦争に反対する人々に、ひとつになろうと呼びかけたいと思っている。ロシアにいる人にも、世界中の人にも。けれども難しい思いだ。私たちは超え難い壁に阻まれ、多くの人々が互いにさんざん口論しつくした、その果ての世界にいる。だから「戦争反対」というこの世界基準の呼びかけのもとでさえ、人々がひとつになれるのかどうか不安でもある。

4.全世界にいじめられているかのような口調
これからのことについては、いまのところ予測できるのは目前の明白なことだけだ。
これは大惨事となり、ロシアは以前の姿には戻れないだろう。歴史を逆行させ権力を維持しようという試みは必ず失敗する。おそらく権力側はウクライナに傀儡政府をたてようとするだろうし、その計画は彼らのお気に入りのシンボルにのっとって進めるつもりだ──つまり2月23日〔祖国防衛の日〕に始め、5月8日〔戦勝記念日〕までには終える計画だろう。そしてキエフの中央通りで戦勝パレードをするつもりなのだろう。その計画通りに進むかどうかはわからない。こんにちのロシアとヒトラーのドイツの類似性はすでに多くの人が指摘しているが、充分に説得力がある。グライヴィッツのときのヒトラーの演説と、先日のプーチンの演説は、語り口といい構成といい、驚くほどよく似ている。なかでも最も重要な共通点は、レマルクが『リスボンの夜』で描いた、全世界にいじめられてでもいるかのような、あの口調だ。「だって、我々はこんなにがんばってたのに」と……ああ、なんて恥ずかしいことだろう。

私たちは予想外のことが起きたかのように驚いている。私もまた、こんな戦争が起きてほしくないという一縷の希望にすがっていた。けれどもいまではその希望を恥ずかしく思う。何者かが「ガア」とアヒルのように鳴いたら、その正体はやはりアヒルなのだ。似ているのではなく、そのものなのだ。プーチン政権のやってきたことは、おそろしいほどすべてが、ここに向かっていた。憎悪の蔓延してきたここ8年のことだけではない、20年かけてここまで進んできた。
これから、私たちはこの悪夢とどう戦ったらよいのだろう。アフガニスタン侵攻〔1979-89〕の傷も癒えていないうちに、ウクライナに攻め入ったなどという事実を抱えて、どうやって生きていくのだろう。

<以下略>



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