ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

斉加尚代さんの話

 昨日の午後、畑で草刈りをしていたら、子どもたちがぞろぞろと下校してきました。4、5人の小学生が道ばたのソテツの周りに集まって何かを探しているようです。何だろうと思いながら、遠くで様子を見ていると、どうやらお目当てはトカゲ(カナヘビ)のようでした。「いた、いた!」と叫びながら捕まえて悦にいっています。しばらくして自転車で通りがかった中学生が「キモい」とか何とか声をかけたら、子どもの一人が激しく反発し、罵り言葉の応酬になって、一時険悪になりました。幸い、中学生が(年長者として我慢して)手を出したりせずに立ち去ったので、「無事」に済みましたが、この罵声が惨かった。大昔なら「おまえのかあちゃん、〇ー〇ーそー」の類いでしょうが(今の子たちには意味不明です)、この小学生は「死ね!」「殺す!」などに類する語のオンパレードでした。子どもにとっては仲間うちで耳にする普通の日常語で、こちらがギョッとするような深い意味はないのかもしれませんが、とりまく言語環境がよいとはとても思えません。

 「命を大切にする教育」とは、よく言われるところですが、裏腹に、ウクライナの戦争はもちろん、命が大切にされていない現実があります。特にある種の匿名のネット空間における言説の攻撃性が不当なまでに凄まじいのは、その裏返しかもしれません。批判だったら議論の成立する余地がありますが、この種の攻撃はほぼ一方的です。やってる側はストレスを発散するだけで、議論をして、よい手段を見つける気などほとんどないのでしょうから、「ネタ」によっては、逆上したヒステリックな人格攻撃一色になったりします。映画「教育と愛国」の監督で毎日放送のディレクター・斉加尚代さんも、そうした「攻撃」を受けた一人ですが、その「現実」に向き合おうとする姿勢に敬意を覚えます。

 5月19日付朝日新聞の斉加さんのインタビュー記事を読みました。聞き手は宮崎亮・記者です。要約部分引用をお許しください。

誰がメディアを殺すのか 「反日」と叩かれた私が見た萎縮の現場:朝日新聞デジタル

 映画「教育と愛国」は、2017年に放送したドキュメンタリーを元に追加取材を加えたものです。私は大阪で長く教育現場を取材してきましたが、2010年に大阪維新の会ができて以降、政治主導の教育改革が進み、その変化が思いのほか速いなと感じていたころ、国が道徳を教科化することになりました。戦後、初めて作られた小学校の道徳教科書で、「パン屋」を「和菓子屋」に書き換える、ということが起きました。一見、滑稽な書き換えですが、文部科学省教科書検定を受け、教科書会社が(自身で)修正したものでした。これは、2006年度の高校日本史の教科書検定で、沖縄戦の集団自決について「軍の強制」という記述が削られた問題とつながっていると感じました(その後、「軍の関与」などとする記述は復活)。それで教科書会社へ映画の取材を申し込んだのです。
 ほとんどの社から「教育と愛国というテーマでは難しい」などと断られました。ある社の編集者が取材を受けてくれたのですが、それも放送前にストップがかかりました。その方の話で印象的だったのが、文科省から「スタンダードな授業ができるように」と要請されたという話でした。「スタンダード」とは、発問からまとめまで、どの授業でも同じように進める、という意味です。これまで取材してきた先生たちの「授業は生き物。クラスが違えば授業も違う」という実践とは、かなりズレがあるなと感じました。
 そんな中、自虐史観の克服を掲げる『新しい歴史教科書をつくる会』系の育鵬社で、歴史教科書の代表執筆者を務める歴史学者伊藤隆さんが取材を受けてくれました。話が熱を帯びてきたところで、育鵬社の教科書が目指すものを尋ねると、伊藤さんは「ちゃんとした日本人を作ること」とおっしゃいました。……歴史から何を学んだらよいかと聞いた時には「学ぶ必要はない」と言われました。歴史学者がここまで言い切ることに衝撃を受けました。こうした言説を許容する空気が社会にあるからなのか、と思いました。……
 不信感や嫌悪感から始まった言葉は、伝わりづらい。子どもは、「この先生は信頼できる」という先生から叱られたら心に響くけど、「ちゃんと自分を見てない」という先生の言葉は響きません。それと似ていて、立場が違っても、やりとりができれば考えを探り合える。ですから、伊藤さんが学者の矜持を持って取材に応じてくれたことは実はありがたかったのです。「あなたとは立場は違うけれども、また会いましょう」と言ってくれました。相手との垣根を超えていかないと、分断や閉塞感は超えられません。

 2012年に大阪府立高校の卒業式で教職員が国歌斉唱をしているか口元チェックをされたことがあり、当時の橋下徹大阪市長へ会見で「一律に歌わせるのはどうか」と尋ねたところ、約30分にわたる言い合いになってしまいました。今振り返ると、反省ではありませんが、論争を深められるような返しはできなかっただろうかと思うんですが…。このやりとりが動画で出回り、3カ月ほど「反日記者」とネットでたたかれました。通常の取材をしただけと考えていたのに、非難メールが会社に1千件以上届き、大半は匿名でした。「勉強不足」「とんちんかん」という橋下さんの言葉を引用した内容が目立ちました。政治家の言葉に乗っかり、相手をたたくことに嬉々としている。そんな印象でした。この現実を直視しなければいけない、逃げてはいけないと思い、全部読みましたが、苦しかったですね。(映画を制作する)自分自身の原体験としてはこの出来事がありました。

 2017年の沖縄の基地反対運動では「基地反対派が患者を乗せた救急車を無理やり止めた」というデマでバッシングが広がったことがありました。東京ローカルの「ニュース女子」という番組はそれをそのまま放送しました。私たちはデマの発信者のところまで行って事実でないと確認し、「沖縄 さまよう木霊』という番組で、デマを地上波で流したことを批判しました。後日、放送倫理違反が認定されて「ニュース女子」は打ち切りになりましたが、日々、限界を感じています。当初、暮らしの合間で抗議の座り込みをする沖縄の人たち一人一人の素顔を報じればデマも収まるのでは、と考えましたが、甘かった。デマはその気になれば30秒で作れ、SNSでたちまち拡散する。でも、救急車のデマをデマだと取材で確認するのには3日間かかりました。デマに対して検証が追いつかないのです。それでも私たちは、デマが政治利用されないために根気よくやり続けるほかないのです。
……
 MBSは今年の正月のバラエティー番組で橋下さん、松井一郎大阪市長、吉村洋文大阪府知事をそろって出演させ、「政治的中立性を欠く」と指摘されました。大阪では今、維新の首長たちは視聴率が取れる。ビジネスとジャーナリズムの切り分けができにくくなっている状況にあります。
 橋下さんの知事時代について、松井市長が「女子高生も泣かせたし」と笑いのネタにした場面がありました。2008年の高校生たちとの討論会を指していると思います。経済的に困窮し私学助成削減に反対する彼女らに、橋下さんは激しく反論し、「あなたが政治家になってそういう活動をやってください」と言った。強者が、声を上げる弱者を「ひっぱたく政治」の象徴のように見えました。それを「討論会で女子高生を泣かせた」というテロップまでつけて流したのには、目を疑いました。
 昨年、私は局内に全員メールを送り、良心に基づく「個」の視点を持つのが大事だ、と書きました。この件も、それぞれのポストにいる人間が「一線を越えてます」って言えば止まったかもしれない。そう言えないこの空気は何だろうと思えてなりません。昔はここはジャングルかっていうぐらい個性的な記者が多く、上層部に食ってかかるデスクや記者もいましたが、今はほとんどないですね。
 最近の学校にも同じことを感じます。目の前の子どものために個として動くすばらしい先生もいる一方で、組織の一員として教育委員会から下りてきたことをこなし歯車になってしまうだけの先生も多いのでは。今のテレビ局と学校の職員室は似てますね。

 萎縮しそうな状況が生まれたら、逆にはね返さなきゃいけない。それがメディアの役割です。政治家の声は力があり、しかも今はSNSで拡散される。政治家が「表現の自由」を言い出した時点で、私は世の中おかしくなったと思いました。表現の自由が必要なのは、意見をたたかれたり黙らされたりする人たちです。なのに政治やSNSを前に、今はメディアが自ら縮こまっています。
 橋下さんと私が約30分の言い合いをした時、会見場にはパソコンでメモを打つ音ばかりが響いていた。「あの取材を否定する記者は記者じゃない」と声をかけてくれた人もいましたが、「指が疲れた」「早く質問をやめれば炎上しなかったのに」という同業者の反応は、その後のバッシングよりもショックでした。権力や政治と向き合うという大切だと信じてきた報道姿勢が、もはや共有されていないのではないか。そう感じて、打ちのめされました。

 ある沖縄の人が、デマを大阪のテレビが暴いてくれて希望を感じたと言ってくれました。民主的な社会を維持する土台として、市民と学校、メディアには、信頼や対話が必要です。メディアは、強い言葉を発せられない人の言葉のスペースを確保する役割がある。失った信頼を築き直さないといけません。

 


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