ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

なぜ8月9日長崎に原爆が……

 お盆が近づき、去年亡くなった父親の新盆見舞いで、毎日人が来宅します。8月は亡くなった人に手を合わせる時期ですが、今年は少し別格です。

 安倍氏の銃撃事件から1ヶ月が過ぎ、歴史における偶然と必然の連鎖について、ぼんやりと考えることがあります。安倍氏の死などまったく予期していなかったし、その後、知っている人は知っていたのかもしれませんが、統一教会と特に自民党議員の深刻な癒着が政局の波乱要因になるなど、微塵も予想できませんでした。かりに安倍氏が銃撃されても負傷して存命だったら、こうなっていただろうかと、このわずか1ヶ月の事態の変遷には、あらためて驚きます。

 今日8月9日、午前11:02に長崎が原爆で攻撃されてから77年目を迎えますが、なぜこの日に、アメリによって、長崎に、原爆が、投下されなければならなかったのか。そこにも偶然と必然の連鎖があると思います。
 以下は、むかし教員をしていた頃に調べたことをまとめたものです。

マンハッタン計画
 戦車、飛行機、化学兵器……。第一次世界大戦に続々と登場した新兵器は、それから20年足らずで、性能と殺傷能力を格段に向上させました。科学者たちは、兵器開発の最後の切り札が核であることを早い段階で予期していました。核兵器開発の研究にかかわった科学者にはユダヤ系の物理学者が目立ちます。そのこともあってでしょうか、あとでわかった話ですが、ナチス・ドイツは世間で言われるほどには、核兵器開発にこだわっていなかったようです。しかし、ナチス・ドイツ核兵器保有することを怖れていた亡命ユダヤ人物理学者のシラードらは、1939年、同じ亡命ユダヤ人であるアインシュタインの名を借り、アメリカ合衆国のF.ローズヴェルト大統領あてに信書を送ります。これがマンハッタン計画と呼ばれるアメリカの原爆開発のきっかけとなりました。しかし、肝心のローズヴェルト大統領は、当初はこれにあまり関心がなく、開発計画が本格的に始動したのは1942年10月以降と、だいぶ後ろにずれ込むことになります。

ヤルタ会談とその後
 1945年2月、当時ソ連の保養地だったクリミア半島のヤルタに米英ソ3国の首脳が集まり、ドイツの降伏と戦後処理、及び日本との戦争について話し合いをもちました。このとき「ドイツが降伏してから2、3ヶ月の後に、ソ連も米英とともに対日戦に加わる。その代わり、ソ連が千島・樺太などを領有することに米英は口を出さない」という内容の密約が交わされていました。実際にドイツが降伏したのは5月8日だったので、ソ連スターリンは、その3ヶ月後にあたる8月8日に日本への攻撃を開始すると、アメリカのトルーマン米大統領に伝えました(4月にローズヴェルトが亡くなっため、その後任として副大統領から昇格したのがこの人、トルーマンです。ちなみに、米国留学した人の話では、トルーマンではなく、“トゥルーマン”と発音するのがいいようです)。これは、5月末のことでした。
 そうとは知らず、敗色濃厚だった日本は、ソ連終戦の仲介をしてもらおうと、たびたびソ連に使者を送っていました。日本の電信暗号をほぼ解読していた当時のアメリカには、日本の行動は手に取るように分かっていたはずです。だから、アメリカが日本に原爆を投下した理由としてよく言われることですが、「戦争によるアメリカ兵の犠牲者をこれ以上増やしたくない」と本気で考えるのであれば、6月の時点で日本に対し、直接停戦交渉をすることもできたはずです。しかし、アメリカはそうしなかった、それはなぜなのか? 一説によれば、アメリカは原爆の開発が完了するまで停戦交渉を引き延ばしたというのです。

ポツダム会談
 7月半ば、米英ソの3国首脳は再びドイツのポツダムで会見し、日本の降伏について話し合うことになりました。ソ連スターリンより2日早くポツダムに着いたトルーマンは、7月16日、ニューメキシコ州での原爆実験の大成功を知らせる電報を受けとります。
「今朝、手術を実施。治療は未了も、経過は良好。期待以上の成果なり」。
トルーマンの返信は、
「医師及び関係者に心からお祝いを申し上げる」。
でした。
ここにアメリカは世界で初めて核保有国となったわけです。
 一方、ソ連スターリンは、最初8月8日と伝えていた対日参戦の予定日を8月15日に延期したいと言ってきました。このとき、トルーマンは「ソリに乗った」子どものようにはしゃいだと言います。できれば、ソ連が参戦する前にアメリカ単独で日本を降伏させたいと考えていたトルーマンにとって、原爆という新兵器の開発は、日本降伏の切り札を手にしたことを意味するからです。「こんなことだったら、2月のヤルタで、ソ連の領土要求を『はい、はい』と聞くんじゃなかったな」。トルーマンヤルタ会談ソ連に譲歩したことを後悔したようです。

原爆投下
 ポツダム会談では、「戦後も天皇制を存続させる」という条件さえ認めれば日本は降伏するだろうと見られていました。しかし、そうは言わず、実際に連合国が日本に伝えたのは「無条件降伏」でした。予想どおり、日本は「無条件降伏」を受け入れません。これが原爆投下の口実となったのです。
 当初、原爆投下の候補地となったのは、京都・小倉・広島・新潟の4市で、この4市への通常爆撃は禁止されていました。原爆だけでどれほどの「破壊効果」があるのかを正確に測定する必要があったからだといいます。第一候補だった京都が外れたのは、陸軍長官のスチムソンがトルーマンに進言したからだといいます。「大統領!それはいくら何でも無茶です。日本人の歴史と伝統の町・京都を原爆の餌食にしたら、戦後の日本には反米感情が噴き出るでしょう。」と(真偽のほどは分かりません)。
 結局、最初の原爆(リトルボーイ)は8月6日、午前8時15分、広島に投下されることになります。

1945年8月6日朝「経験の大きな黒い塊」 - ペンは剣よりも強く

これを知ったソ連は、8月15日と伝えていた対日参戦の予定を急に変更し、8月8日の午後(日本時間午後11時)、日本に宣戦を布告します。アメリカ側もこれに反応します。2回めの原爆投下は8月11日を予定していましたが、ソ連の参戦が早まったために2日予定を繰り上げ、8月9日午前3時50分、原爆(ファットマン)を積んだB29を、九州に向けてあわただしく発進させます。このときの攻撃目標は小倉(現在の北九州市)でした。しかし、ご承知のとおり、この日の小倉は曇っていて、上空からの視界が悪く、投下の目標地点がなかなか目視照準できませんでした。燃料切れになることをおそれて、やむなく攻撃目標を第二候補地の長崎に変更します。長崎の原爆投下時刻が11時過ぎとなったのは、この日の米軍機の逡巡の結果です。
8月9日、長崎から奪われたもの。原爆投下後の街をカラー写真で振り返る

 「天皇制の存続」というカードをチラつかせながら、日本に2つの原爆を投下したアメリカ、それに翻弄されながら「無条件降伏」を拒み続けた日本。そして、アメリカの原爆投下を知り、ドタバタと対日参戦したソ連――歴史は後からたどれば、すべてが一本の線でつながるように見えますが、その時その場面では、いくつもの選択肢やいくつもの可能性があったと思います。それは、さながら樹形図のように、幹からいくつもの枝、いくつもの葉が分かれていくかのようです。
 1945年8月15日を迎えるまでの道のりにある様々な思惑や偶然を考えながら、8月9日になぜ長崎に原爆が投下され、2度目の地獄絵が描かれなければならなかったのかと、2022年の8月9日、朝から晴れた千葉の空を見上げています。

アメリカは長崎に2つ目の原爆を落とす必要があったのか?|ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト






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