8月6日午前8時15分と3日後の8月9日11時02分――心に刻まれた時刻です。広島の資料館でその瞬間を「想像」」してからずいぶん月日が経ちましたが、来年も再来年も、生きていられたなら、それは変わらないと思います。
おとといは広島で被爆者慰霊のための式典が営まれました。被爆の現実を体験者として語れる人は年々減り続けていますが、どんなかたちにせよ、原爆とその惨禍は今後も語り継いでいかなくてはならないと思います。そして、核兵器は要らない。戦争をしない、してはならない。
今はもう学校で子どもたちに広島と長崎のことを語る機会はなくなりました。でも、心残りというか、テレビで8月の原爆や敗戦(終戦)の報道を見るたびに引っかかることがあります。
戦争は悲惨だ、絶対にしてはいけない――日本では大人も子どもも多くの人がそう言います。小生も同じです。そう思って、戦争や平和についての授業をしてきました。「道徳」の授業ではなく、歴史の授業なら、話は被爆だけでは済みません。なぜ、核兵器が二度にわたって使われる事態になったのか、落とした国はどこの国で、落とされた国は落とした国に対し何をしたのか(あるいは、しなかったのか)、また、原爆を使用することは適切だったのかどうか、それをどう評価すべきなのか、……。素朴に考えれば、次々と疑問がわいてきます。知的好奇心の旺盛な子どもだったら、必ず「なぜ」「どうして」を連発するでしょう。そうした疑問に答えられたのだろうかと自問することもあります。
というのは、今の日本の大人たちを見ていると、日本が降伏・敗戦したこの戦争について、きちんと説明しない(できない)か、途切れ途切れの曖昧な説明になってしまう人が、思いのほか多いのです。さすがに、一問一答式に原爆を投下した国がどこなのかは答えられます。8月6日、8月9日、8月15日がどういう日なのかも何とか答えられるでしょう。しかし、学校で教えてきた経験からすると、なぜ日本はアメリカと戦争することになったのか、明確に答えられる人は、小生の印象では全体で半分いるかどうか。ひょっとしたら3人に1人以上は「うーん」とか「えー」とか、言葉に詰まったり、首をひねりながら黙り込んでしまうような気がするのです。そういう場合、「同時並行で中国や東南アジアでも日本は戦争をしてたんですけど、ご存じでしたよね」と言ったら、「もちろんです」と答えてくれるはずと思いつつ、その実相はかなり心許ないのです。
これは第一に、日本の学校の成績がペーパー試験偏重で、口頭で何かを説明できるかどうかにあまり評価のウエイトをおいてこなかったことと大いに関係しているでしょう。歴史は暗記物で嫌いだ、苦手だと思っている人が多いだけに、余計そうだと思います。しかし、理由はそれだけなのかということです。
おととい広島の慰霊式で岸田首相ほか要人が挨拶をして、原爆の犠牲になった人々への追悼と核軍縮、平和に向けた決意などを述べたわけですが、慰霊と平和の祈念式典であることから、ストーリーはすべて原爆投下から始まります。それ以前の話、つまり戦争に至る経緯を思わせる文言は出て来ません。もちろん趣旨が違えば話は違ってくるかも知れませんが、しかし、毎年毎年、「原爆投下」から始まるストーリーが繰り返されて、1945年以前や日本国外の戦地の出来事が切り離されてきた結果、核兵器の残忍さと被爆の惨さ、「唯一の被爆国」としての日本など、総じて戦争被害の大きさが甚大だったことは強烈に印象づけられました。しかし、そもそもどこの国が原爆を落としたのか、どうしてこういうことになったのか……等を問う意識が薄れていないだろうか。原爆投下と被爆はもちろん歴史上の事実で、動かしようがないことですが、あえて乱暴に言えば「原爆の非歴史化」というか、もしこう言ってよければ、原爆投下と被爆が「文学化」「象徴化」「道徳化」されて、歴史の連鎖から隔絶された感じがするのです。
しかし、これは近年の特徴や傾向というわけでもないと思います。今から60年以上前の話ですが、日本の反核平和活動家が広島からアウシュビッツ(オシフィエンチム)まで、計23カ国33,000㌔の道のりを歩く「広島・アウシュビッツ」平和行進に出発したことがありました。一行は8ヶ月かけて最終目的地のポーランドに辿り着きました。韓国の歴史家・林志弦(イム・ジヒョン)さんの『犠牲者意識ナショナリズム』(東洋経済)で紹介されていた話で、小生もこの本を読んで初めて知りました。その中に、こんな一節があります。
……世界初の原爆犠牲者の記憶を胸に出発した参加者たちは、立ち寄ったシンガポールで想定外の問題にぶつかった。彼らが1962年5月に到着した頃、海岸沿いの建設現場で日本軍に虐殺された中国系住民数百人の遺骨が見つかったのだ。アジアの隣人に対する日本軍の残虐行為を忘れていた参加者たちに、この事件は衝撃的だった。町を覆った反日感情に驚いた団長の佐藤は犠牲者のために法要を営み、さらに参加者全員で遺骨の発掘作業を手伝った。彼らは日本軍の蛮行を謝罪しつつ、広島の犠牲を訴えねばならないという難しい課題に苦労した。自分たちを第2次大戦での最大の犠牲者だと考えていた広島の被爆者が、シンガポールで自分たちによって犠牲とされた人々に出会ったのだ。広島とアウシュビッツの犠牲者による連帯へ向けた平和行進というメッセージは世界各地で称賛されたものの、早くもシンガポールからきしみ始めた。彼らが「日本は原爆被害者」とだけ考え、日本軍の残虐行為とアジアの犠牲者たちのことを忘れていたことが浮き彫りになった。
日本の帝国主義が作り出したアジアの犠牲者を見出したことは、アウシュビッツの経験に劣らず重要だった。日本人の犠牲と痛みの歴史ばかり強調し、加害の歴史を消す結果を生むのなら、平和行進の意味は随分と色あせてしまう。日中戦争での日本軍の殺し尽くす、焼き尽くす、奪い尽くすという三光作戦や南京虐殺、アジア各国から動員しての強制労働や慰安婦などの記憶へと考えが続かないのであれば、アウシュビッツへの行進は半分だけの平和でしかなかった。中国では最大1,500万人、少なくとも1,000万人の中国人が命を失い、約6,000万人が避難を強いられ、500億ドルの財産被害が発生した。東南アジアではインドネシアの被害が最も大きかった。強制労働させられた100万人のうち30万人が死亡し、戦争末期には飢餓と伝染病のためジャワ島だけで約300万人が死んだ。フランス・ヴィシー政権の行政機構を通じて間接統治したインドシナでは、日本軍のためのコメ供出と連合軍の海上封鎖が人々を苦しめた。1945年には、トンキンとアンナンで100万人以上が餓死した。日本の軍人・軍属となったり徴用されたりした朝鮮人の死者も国連などの推計で約7万人に上り、近年の研究では最大で約20万人に達したともされる。フィリピンでは、3万人が戦死し、民間人死者も9万人以上に上った。ほとんどが1945年のマニラ包囲での犠牲だった。こうした犠牲者に目を向けないまま、広島と長崎の被爆者をはじめとする日本の民間人犠牲者だけに思いをはせることはできない。
(澤田克己訳、同書、121-122頁)
http://cks.c.u-tokyo.ac.jp/event_back/kf_11/kf011.pdf
小生らが中高生だった頃は、日本が関わった第二次世界大戦は「太平洋戦争」と呼ばれていました。しかし、これだと日米戦に比重がおかれすぎて、中国や東南アジアで日本が繰り広げた戦争が抜け落ちてしまうことから、今は「アジア・太平洋戦争」と呼ぶ方が一般的だと思います(これで「万全」でもないでしょうが)。しかし、名前が変わって「事実」が変わるわけではありません。「先の戦争」はずっと先の戦争のままです。
林さんが上に書いたような具体的なアジアでの戦争の実態、すなわち日本の犯した加害事実を知らないで、原爆の惨禍だけを強調し、「唯一の被爆国」を語るとすれば、独善的の誹りはまぬがれないでしょう。岸田首相も、おとといの式典の挨拶の中で「被爆の実相を後代に伝えつつ、非核三原則を堅持して、「核兵器のない世界」の実現に向けて努力を着実に積み重ねていくことは、唯一の戦争被爆国である我が国の使命です」と述べました。広島に本籍があるらしい岸田首相にとって、8月6日には格別の思い入れがあるかも知れません(悪いけれど、これは「嫌味」です)。
「不毛なコピペ挨拶」岸田文雄、広島平和記念式典の挨拶が安倍元首相の “丸パクリ” で「もっと自分の言葉で話して」 | Smart FLASH/スマフラ[光文社週刊誌]
岸田さんはどんな戦争認識をもっているのか。なぜ、アメリカは二度にわたって核兵器を使用したのか、「同時並行」で中国や東南アジアで日本はなぜ戦争をしていたのか――これらについてどんな意見をお持ちなのか。日本国の為政者としてではなく(つまり紙に書かれたものを読み上げるのではなく)、日本国に生を受けて戦後を生きてきた一個人として、どんな認識をもっているのか、ほぼ同世代の人間としては、一度話をしてもらう機会があるといいのだが、と思います。
明日は長崎です。