ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

1945年8月6日朝「経験の大きな黒い塊」

 今日は短く。2008年に亡くなった加藤周一さんが1945年8月6日の後の広島を回想した文章です。

 広島には一本の緑の樹さえもなかった。見渡すかぎり瓦礫の野原が拡がり、その平坦な表面を縦横の道路と掘割の水が区切っていた。石造の建物がいくつか、崩れ落ちずに立っていたが、その窓は破れ、壁は半ば崩れて、近づくと建物を透して向こう側の青空が見えた。人の住むことのできる家は一軒もなく、しかし、その焼け野原には影のようにいつも誰かが彷っていた。国民服の男の埃に汚れた顔は、放心して現ないようにみえた。子供たちの顔は、火傷の瘢痕にひきつり、髪の抜けた女は、風呂敷で頬かぶりをして、太陽の下を逃げるように歩いていた。爆心から遠く破壊を免れた郊外の病院には、まだ病人があふれていて、歯ぐきを腫らし、傷口から膿を流し、高熱に昼も夜も苦しんでいた。それが二ヵ月前までは広島市民であった人々の生きのこりであった。
 一九四五年八月六日の朝まで、そこには、広島市があり、爆撃を受けなかった城下町の軒並みがあり、何万もの家庭があって、身のまわりの小さなよろこびや悲しみや後悔や希望があったのだ。その朝突然、広島市は消えて失くなり、市街の中心部に住んでいた人々の大部分は、崩れた家の下敷きになり、掘割にとびこんで溺れ、爆風に叩きつけられて、その場で死んだ。生きのびた人々は、空を蔽う黒煙と地に逆まく火焔の間を郊外へ向かって逃れようとして、あるいは途中で倒れ、あるいは安全な場所に辿り着くと同時に死んだ。さらに生きのびた人々も、田舎の親類家族と抱合い、九死に一生を得たよろこびを頒つと思う間もなく三週間か四週間の後には、髪の毛を失い、鼻や口から血を流し、やがて高熱を発して、医療の手もまわらぬままで死んでいった。それから二ヵ月、辛うじて難を免れた人々は、親兄弟を失って呆然とし、みずからも「原爆症」の恐怖に怯えて、追いたてられた獣のように、あてもなく焼け野原を歩いていた。もはやそれは嘗ての広島市民とは別の人間であり、あたかもそのことが無かったかのように、彼らが以前の人間にたち戻ることはできないだろうと思われた。
 みずからその経験を通ってきた人たちは、どうしてもその話をしたがらなかった。「ここでは≪ピカドン≫といってますけどねえ、生きた心地もしなくて……」といったまま、口をつぐんでしまう。そういうときほど、相手と私自身との間に、私が超え難い無限の距離を感じたことはなかった。経験の大きな黒い塊が、相手の人間のまん中に、動かすべからざるものとしてあり、しかし当人さえもそれを言葉であらわすことができなかったとすれば、どうして私にそれを理解することができたろうか。理解を越えたもの、すなわちそこから意味を抽きだした瞬間に、その意味の直ちにいろ褪せるもの、しかしそれと向きあっている限り人間の全体を抗し難く規定してやまぬもの……私はそれを経験しなかった。しかし経験した人々は見たのである。広島についてのすべての言葉は、それがどれほど納得できるものであっても、聞く度に私に「ああ、それはちがう、どこかがちがう」という気をおこさせた。私のなかの何かが、「その通りだが、しかしそれだけではないだろう」と呟いた。あの≪ノー・モア・ヒロシマ≫という言葉でさえもがだ。私は広島を見たときに、将来の核兵器については何も考えていなかった。後になって、核兵器についても考えるようになったが、そういう私自身の考えと、広島の人々を沈黙させた経験との間に横たわる遙かに遠い距離を、私はいつもくり返して想い出したのである。……
加藤周一『続・羊の歌』 12-14頁)

 77年前の8月6日朝とその後の出来事を、当事者でない者が語っても、加藤さんが言うように「経験の大きな黒い塊」に迫ることはできず、最後は沈黙するしかなくなるでしょう。でも、「完全」に迫れずとも、50点でも30点でも迫れればいいやと考えれば、沈黙せず何かしら語れることはあるかも知れません。そういう意思だけは、あきらめ悪く持っていようと思っています。

 一年前に書いたものですが、こちらもお読みくだされば幸いです。
8月6日 の「断章」 - ペンは剣よりも強く




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