ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

傍観と暴力 名護市長選が終わって

 昨日栃木県で腹立たしい事件がありました。電車内で高校生に喫煙を注意された男が逆上して暴行をはたらいたとのこと。しかも、同じ車両に何人乗っていたのかわかりませんが、乗客は誰も助けなかったというのです。ひどい話です。暴行を受けた高校生と家族の心情は察するに余りあります。
たばこを注意され高校生に“逆ギレ”電車内で暴行か 28歳男を逮捕 父親が怒りの声(テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース

 ネットの反応などを眺めていると、男に対する怒りはもちろんですが、こういうケースで見て見ぬふりをする人が多数派なのが、この国の今の姿であり、嘆かわしいというようなコメントをいくつか見かけました。個々の事件を他と類比するのは慎重であるべきだと思いつつも、小生には、沖縄・名護市の市長選挙の翌日だったこともあり、沖縄の人々の心情が連想されました。

 この間「本土」のメディアは名護市の市長選の争点が辺野古の基地だと強調してきました。小生もそういう関心をもって見てきました。しかし、基地の建設にはNOだという総意を沖縄の人々は前からずっと示し続けています。それはもう四半世紀にもわたって続いてきました。名護の人たちも同じだと思います。にもかかわらず政府は工事を止めない。政権もずっと変わらない。沖縄の人々、名護の市民からすれば、これは一種の「暴力」にさらされているのに「本土」から「見て見ぬふり」をされているのと変わらないと思います。

 朝日新聞那覇総局長の木村司さんが、選挙結果が判明した1月23日の記事で、「「沈黙」しているのは誰なのか」と問うています。引用させてください。

「沈黙」しているのは誰なのか 移設賛否語らぬ市長選んだ名護は問う [沖縄・本土復帰50年]:朝日新聞デジタル

…基地ノーか、地域振興か。理不尽な二者択一を迫られた市民は対立を深めながらも議論を重ね、ぎりぎりの選択を続けた。しかし、使用期限など条件つきで受け入れると条件はほごにされ、受け入れの事実だけが利用された。反対すると、市を飛びこえて協力的な自治会に補助金を出す、予算を使った露骨な「アメとムチ」が駆使された。
 せばめられる選択肢のなか、その先に誕生したのが、賛否を語らない「沈黙」する市長だ。

 この4年、政府は、移設の成否に関わりかねない軟弱地盤の存在を認めないまま土砂投入を開始。県民投票による7割のノーも顧みず工事を加速させた。市には、反対していないとして、移設受け入れを前提とする米軍再編交付金を支給。市長はこの予算で子ども医療費や給食費を無償化し、市民生活を支えた。
 知事が設計変更を不承認としたことで、移設工事の進捗(しんちょく)は見通せない。それでも、国に何を言っても工事は止まらないというあきらめが広がった。ならば目の前の暮らしを楽にしたい――。当たり前の市民感情が「沈黙」を選択した。本土との格差も残る沖縄を、全国最悪レベルで襲ったコロナ禍の不況も後押しした。
 今月16、17日に実施した朝日新聞世論調査で投票で最も重視することを聞くと、元知事の埋め立て承認直後、移設反対の市長が再選した8年前に56%だった「移設問題」は、4年前の41%から30%まで減少した。一方、「地域振興策」が23%、39%、50%と増えた。移設見直しが全国的な議論とならないまま、政府の強硬姿勢が市民の思いを上書きしていったかに見える。
 沖縄の基地負担をいかに減らすのか。日本にとっての重要課題が、沖縄が基地を受け入れるか否かの問題に変わっている。「沈黙」しているのは誰なのか。基地のあり方を問われるべきは、全国の私たちではないか。名護が問うている。

 熊本博之さん(明星大教授)もインタヴューでこう話しています。概略を引用させてください。

「市民のNO、ブレーキにならず…」 うんざり感が生んだ名護の選択 [沖縄・本土復帰50年]:朝日新聞デジタル

 渡具知市政は、政府からの米軍再編交付金をもとにした「三つのゼロ」を主な実績に訴えました。子ども医療費・学校給食費・保育料の三つです。市民は、その市政の継続を選んだ。それは間違いないです。
 しかし名護市民が「決定権なき決定者」であることを忘れてはなりません。「決定権なき決定者」にさせられている、と言うほうが正確かもしれませんが。

 もう25年にもわたって、名護市民は「辺野古移設についての態度を示せ」「賛成か反対か決めろ」と言われ続けてきました。しかし、どんな決定をしても辺野古の計画は止まらない。市民がNOと言っても、ブレーキとして機能しないのです。政府に意向をくみ取られるのは、移設を容認した時だけです。

 今回の選挙期間中も、ダンプが辺野古へ土砂を頻繁に運んでいました。市長選の結果がどうであろうと建設を進める、という意思表示でしょうね。
 未来について複数の選択肢があるように見えながら、実際にはひとつの方向にしか流れていかない。ならば、少しでも生活を安定させようと考え、そのために政府に協調的な候補者に投票する、というのはそれほど不思議な選択ではありません。

……(「辺野古疲れ」や「あきらめ」が)より深まったと思います。コロナ感染が広がっていることが原因かもしれませんが、選挙戦は以前に比べれば静かでした。何をやっても政府の方針にあらがえない。どうしようもない。そのくせ「県知事選の前哨戦」「移設の行方を占う」といった大きな文脈の中に勝手に位置づけられる。そんなうんざり感です。
 民主主義や地方自治とは本来、有権者が首長や議員に思いを託し、選ばれた人が代表して行動するものです。でも自分たちの将来を自分たちの力でなしとげるという感覚が薄れていると感じます。
 市民をそういうふうに追い込んでいるのは、直接的には政権であり、さらにはそれを支えている国民です。19年の県民投票で沖縄が「移設反対」と示しても、安倍政権は一顧だにしませんでした。でも支持率はほぼ下がらなかった。かじをにぎっているのは本土の側です。なのに、市政の継続を望んだ名護市民を批判できますか? 名護市民だけに責任を押しつけてはいけません。

 高校生に暴行を働いた男は警察に逮捕されました。ネットには男に「厳罰」を求める声も散見されます。しかし、「厳罰」を求める心情と「見て見ぬふりをする」心情には、実は親和性があるかも知れません。というか、「厳罰」を求める人は「見て見ぬふり」をしない人というわけではなく、後ろめたさから「厳罰」を求める感情が沸くこともありうると思います。しかし、沖縄の基地移設について言えば、辺野古の海に土砂を注ぎ続ける(「暴力」を続ける)政府を止めるには、それでは足りないのだと思います。
 独善的に偉そうなことを言えないのですが、沈黙するわけにもいきません。





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