ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

8月6日 の「断章」

 1945年8月6日の天気図を見た。東海上から(太平洋)高気圧が張り出していて、ここ数日の天気図と似たところがある。同年8月9日の天気図では、南海上に(熱帯)低気圧があり、今日の天気図にさらに似たところがある。76年前も今日と同じで朝から晴れて暑かったことだろう。
デジタル台風:原爆投下と天気 - 過去の天気図

 今日2021年8月6日金曜日、千葉の片田舎の午前8時15分の様子。朝から晴れていた空に雲がかかり一時的に日が陰る。NHKは広島の平和式典の黙祷の場面を中継しているが、テレ朝は札幌の50キロ競歩の中継。その他はバラエティー番組の放送。外ではツクツクホウシが鳴いている。向かいの家では早朝から大工さんが仕事に精を出していて、電動カンナや金槌の音が響く。裏のお宅からはラジオ番組のトークが聞こえてくる。……おそらく昨日と変わるところのない今日の朝。

 1945年8月6日の広島。深夜の0時25分に出された空襲警報が2時10分に解除され、3時間余りで夜が明けた。みんなあたふたしながら月曜の朝を迎えたというところではないか。朝7時過ぎ、米軍機1機が飛来。7時9分に警戒警報発令。人々はまた避難するが、何事もなく米軍機は去り、7時31分に警報は解除。のちにこの米軍機は先発の気象観測機だったことがわかる。防空壕や避難場所から家に戻った人々は、気を取り直して一日を再開させる。8時過ぎ、原爆を積んだエノラ・ゲイ号が広島上空に迫る。

 2005年8月5日、戦後60年の特別企画として、TBSが放映した3時間番組「ヒロシマ」は秀逸だった。故・筑紫哲也さんとともに案内役をつとめた当時20歳の女優・綾瀬はるかさん広島県の出身で、大伯母(祖母の姉)が被爆で亡くなったとのこと。2005年のこの番組に出演したのがきっかけで、今も、毎年「NEWS23」の特別番組に出演し、戦争体験者の声を聞き続けている(今日8月6日は「英語で伝えるヒロシマ」に出演予定)。むかし番組ホームページに綾瀬さんの一言が載っていた。「(番組にかかわるまで)自分にとって戦争は昔のこと。その“昔”というのは恐竜がいたころと同じ“昔”だと思っていました…」――昔の話とはいえ、学校に勤めていた者の実感としては、これは笑い事ではなく、感覚的にこれに近い人はおそらくたくさんいると思う。 

 番組では被爆者の証言を多く集めていた。
 路面電車の運転士をしていた女性(1945年当時17歳)。「私らのときは背もたれなかったですよ、立って運転してたですよ。…何か自分たちがお役に立っているっていうね、誇りに思っとりましたよ。」8月6日の朝は、爆心地から2キロ離れた広島駅にいた。その日の勤務が終われば、隣村に疎開するはずだった。

 爆心地からわずか260メートルの銀行に勤めていた女性(当時19歳)。「警報が解除されたので、電車で出勤したんです。解除されなかったら出勤してなかったでしょうね。みなさん、そうだと思いますよ」。銀行に着いたのは原爆投下の5分前。当時広島には8月5日に米軍が大型爆弾を投下するかもしれないとするビラがまかれていた。「早めに出勤して机を拭くっていう仕事があったんですね。で、8月5日に大型爆弾が投下されるっていうビラがあったけど、なかったねえって言いながら、机を拭いていたらね…。…そしたら落ちたんですよ…。白い光がさーっと。」

 当時8歳だった男性。警戒警報が解除されたため、いつもどおり登校した。「自分は走って登校してね。校門入ろうとすると、天皇陛下の写真が飾ってあるんですね。急ブレーキかけて、敬礼してからね、学校に入って行きましたよ」。「毎朝かくれんぼしていてね。あの日は自分が鬼だったから、手で目隠しして、同級生は机の下かなんかに隠れて、1・2・3…て数えてたらね…。その瞬間、目を覆っていた手の骨が見えるんですよ…。」

 熱線の直後に爆風が街を襲う。その間わずか10秒。そしてその30分後に「黒い雨」が降る。

<以下略>

 番組は被爆者の証言を取り上げつつ、原爆投下をめぐっては、いくつもの分岐点・曲がり角があったことにも迫っている。要するに「原爆投下は避けられたのではないか」ということだ。それは日本政府について言えば、8月6日以前に降伏する機会が何度かあったことをも意味する。
 しかし、そうはならなかった。その姿が今の日本の姿とやはり重なってしまう。



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