ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

小泉悠『ロシア点描』

 最近すっかり「売れっ子」になってしまった感のある著者ですが、そこは(自称でもある)「オタク」的なロシアの軍事専門家、小生には、ロシアのウクライナ侵攻がどうなっていくのかについてどんな分析をし、どんな見通しを持っているのか、という興味がまずあります。しかし、この新刊本については、毎日相当に忙しいはずの著者ですから、タイミングからして、編集者に口述した内容を適当にアレンジしたのではないかという疑念を当初抱いていましたし、それは的外れでもありませんでした(それは「おわりに」で、著者が「(出てきたゲラを読んでダメだと思い)一から書き直すことにした」と書いてあるのを読み、氷解しました)。字が大きいのは助かりますが(笑)、全体の字数からしたら、ブックレットより若干多めかなという程度で、やはり著者本人の、というより、むしろ出版社の「小遣いかせぎ」企画になっている感じは否めないのです(失礼を承知であえて申し上げます)。
 関係ありませんが、むかしまともな校正をしないで(訂正だらけの)語学の入門書を出した「売れっ子」著者と出版社がありました。語学の初心者にとっては、入門書にミスがあっても、それとはわからないわけで、これは語学書としては最悪です。出版社や編集者の責任は重大(重過失)ですが、そういうのを許してしまう(慣れっこになってしまう)著者側にも大いに瑕疵はあるわけで、「売れっ子」に便乗する出版商法が著者をダメにするケースはけっこうあるようです。小泉さんにはそうなってほしくないので、これは念のため申し添えたいと思います。

 でも、そういうのを気にしなければ、笑える話ばかりで、終わりの最近の国際情勢とロシアの政治権力の2章以外は、非常に楽しく読めます。まるで居酒屋に集まって著者とロシア話で盛り上がっているような感じです。いくつか引用させていただくと、

 ……電気代はどうかというと、……北方領土とか北極圏だと公務員は水道光熱費無料、という特典がついたりしますが、普通は日本でもよく見るような電気メーターが付いていて、使用量に応じて電気代が取られます……ということになっているのですが、私が住んでいた団地の部屋ではこの電気メーターの窓がガラス切りで綺麗に切り取られていて、使用量を記録するディスクに洗濯ばさみが挟んでありました。こうしておけばディスクは動かないので、「電気代永久無料」という仕組みです。
 私は何となく悪い気がして洗濯ばさみを外したのですが、月末に家賃を取りに来た大家(ハジャイン)から「お前バカじゃないか?」と呆れられました。払うべきものもなんとか払わずに済ますのがロシア人の考える「賢さ」なのだなと妙に納得し、モスクワ暮らしの中でも特に印象に残っています。

(同書、52-53頁)

 スターリンの死後、ソ連では恐怖政治の影がいったん遠のきますが、KGBと名を変えた秘密警察は相変わらず暗躍していました。
 たとえばエストニア(当時はソ連邦の首都タリンに旧国営旅行社(インツーリスト)ホテルがありますが、その最上階には「KGB博物館」があります。何故ホテルにこんなものがあるかといえば、ここにはKGBが館内を盗聴するための施設が設けられていたためです。このホテルは公式には22階建てとされていたのですが、実は「存在しない23階」があり、ここからKGBの盗聴員が外国の訪問者たちの会話に隈なく耳をそばだてていました。……壁の中、柱の中、さらにはコーヒーカップの皿にまでマイクが仕込まれており、拾われた音声がみんな電波でKGBの盗聴部屋に送られてくる仕組みでした。……当時を知る人たちに話を聞くと、…KGBは…監視を隠そうとしなかったようです。
 いわく、ある留学生が東ドイツに電話をしていて、音声が聞き取りづらいので大声で話していたら、盗聴しているKGBから「うるさい!」と怒鳴られた。いわく、電話で奥さんと口喧嘩をしていて、言い負けそうになったら「男のくせに情けない!」と、KGBに説教された。こんな話がたくさんあります。

(59-63頁)

 毎年夏になると、ここ国防省のテーマパーク)では「アルミヤ」と呼ばれる国防省主催の武器展示会が開催されます。普段の常設展示物に加えてさまざまな最新兵器が運び込まれ、広場の横に設けられたテストフィールドでは、実際に戦車や装甲車が走り回り、機関砲や戦車砲を撃ったりもします。これを外国の招待客などに見せて、売り込みをするのです。……武器展示会というのは大体、政府高官や軍人たちだけを招く「トレード・デイ」が数日続き、その後一般客にも公開するという方式になっています。……「アルミヤ」の場合、初日は大統領も訪れるので一般人は完全にお断りです。私は一度、それを知らずに初日から行ってしまったところ、入り口で「あなたのチケットは明日からっでないと使えません」と断られてしまいました。
 完全にこっちが悪いので出直そうとしたところ、恰幅のいい背広姿の男性が近づいてきて、「どうしたんだ? どこから来たんだ?」と聞きます。こういうわけで明日また来ます、と答えると男性は「俺は将軍だぞ! お前を入れてやる!」といってチケットカウンターに食ってかかり、しばらくすったもんだの末になんと本当に入れてもらえることになりました。一体、ロシア人というのはこういう調子で、時にめちゃくちゃなことをいってくる半面、味方につけると実に心強い存在でもあります。「将軍」は私を通してくれたあと「じゃあな」といってどこかへ行ってしまいましたが、私はこういうぶっきらぼうなところも含めてロシア人がどうにも嫌いになれません。

(115-118頁)

 統計的な数字だけ見れば、広大な国土面積はさることながら、人口、GDPなど、「大国」として振る舞うにはそれほどの「国力」をもつとも言えないロシアですが、核兵器保有し、国連の常任理事国でもあります。もちろんその責任を果たさなければならないところですが、彼らには、旧ソ連時代の東側の盟主という古き良き時代への郷愁の念だけでなく、ソ連崩壊から立ち直ってここまで来たという自負もあるようです。しかし、その「体現者」であった大統領の判断によって、今、ロシアも世界も大揺れです。著者が前半部で語ったような「嫌いになれない」「憎みきれない」姿に、ロシアの国自体が早くもどってほしいと願うばかりです。

PHP研究所 2022年5月刊 185頁)




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