ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

ゴルバチョフ氏のこと

 8月30日、旧ソ連の指導者ゴルバチョフ氏が亡くなりました。振り返ってみると、同時代を生きた政治家の中で、最大の敬意を表したいと思わせる唯一の政治家かもしれません。

 調べてみるとたぶん1980年頃なので、当時、小生はまだ学生だったと思うのですが、ブレジネフ政権末期のソ連の後継指導者について書かれた新聞記事(読売)があり、ソ連の政治局員の一覧に48歳のゴルバチョフの名前を見たのを何となくおぼえています。他がだいたい60代・70代の中にあってひときわ目を引きました。もちろんまだ素性はわかりませんでしたが、直感的に、この人の名前は記憶しておかなければならないと思いました。

 1980年頃のロシア(ソ連)は、「長期停滞」の時代と評されるブレジネフ政権の末期にあたります。メディアが取り上げる当時のソ連市民の日常は、食料品を求める人々の行列、行列……でした。そして政治指導者は高齢者ばかり。実際、ブレジネフが1982年に75歳で亡くなると、後継のアンドロポフは就任時68歳、続くチェルネンコも73歳で、政権はいずれも1年数ヶ月の短命に終わりました。遠く離れた日本の若輩にも、明らかに行き詰まりと混迷を感じさせる国と政治指導者の姿、それがソ連のイメージでした。そんな中、新しい指導者としてトップに立ったのが54歳のゴルバチョフ氏でした。

 彼は人々のあいだに積極的に出て行く、今までにないタイプのソ連の指導者でした。待角で最高指導者と市民がガチンコで討議する(場合によっては言い争う)など、ブレジネフ時代にはあり得なかった光景です(日本はもちろん、他国でもそうはありません)。それが、彼が目指した「民主主義社会」の方向と姿だったことを、今さらながらに思い返します。
 残念ながら彼の「改革」(ペレストロイカ)は6年で潰えました。その成果について、詳細は省きますが、ソ連邦を消滅させた張本人として、ロシア国内の評価は今でも低いままです。その一方、核軍縮と冷戦終結など、国際舞台で果たした業績についての国際的評価は今でも揺らいでいない感じです。日本との関係について言えば、あと戻りはできませんが、「北方領土」問題も、彼の時代に交渉して道筋をつけていたら、今とは全然違った方向へ進んでいたかもしれません。

 去年JNNゴルバチョフ氏に宛てて書面インタビューをした記事があり、彼は、こう言っています。長くなりますが、引用をお許しください。
「このままでは大惨事になりかねない」ゴルバチョフ氏(91)が生前、JNNの取材に訴えていた警鐘【インタ全文】 | TBS NEWS DIG (2ページ)

……私は、ペレストロイカが歴史的に正しかったと確信しています。ペレストロイカは必要でした。私たちは正しい方向に進んでいました。なぜなら、ペレストロイカには1つの「ライトモティーフ(=オペラなどで繰り返される主題・動機)」があったからです。これはすべての段階において、一貫して、我々の「模索」を導く“赤い糸”でした。ペレストロイカは国民に向けられたものでした。その目的は、国民を解放し、自らの運命と自らの国の「主役」に据えることでした。ですから、ペレストロイカは大規模な人道的プロジェクトでした。何世紀にもわたって、国民が専制国家、全体主義国家に従属していた中で、それは過去との決別であり、未来への突破口でした。これは現代にもつながるペレストロイカの真理です。異なる方法をとれば国が行き詰まることになりかねません。
 グラスノスチは、改革そのものだけでなく、国民をそこに参加させるためにも、最も重要な手段でした。この言葉がペレストロイカとともに、ほとんど毎回、言及されているのは偶然ではありません。あなたも質問で言及しています。グラスノスチは古いロシアの言葉です。社会の開放、言論の自由、そして、国民に対する当局の説明責任など多くの意味を持っています。他の言語に翻訳することが不可能だというのも不思議ではありません。私は、グラスノスチこそ、自分の最大の協力者だとみなしていました。いまも同じ意見ですが、グラスノスチを批判する人たちがいつの時代も一定以上います。私は、国の状態と周りの世界について、国民に真実を伝えることが、私の役目だと思っていました。グラスノスチは、当局への批判を含め、自分の考えを自由に言えるようになった人たちからの声でもありました。つまり、国民が真実を知る権利です。……

 私を批判する人や、時代の本質を理解していない人は、ソ連崩壊がペレストロイカの最終的な結果だと、今も主張し続けていますが、決してそうではありません。勿論、間違いもありましたが、ペレストロイカは大きな成果を収めました。冷戦の終結核武装解除に関する前例のない合意、さらに言論の自由、集会、宗教、国を離れる自由、政権選択が可能な選挙、複数政党制など、国民が獲得した権利と自由です。最も重要なことは、改革が後戻りできないところまで進めることができたということです。
 しかしながら、現在においても、定期的な政権交代や、国民が政府の決定プロセスに関わることができる体制づくりは整っておらず、改革の当初の目標はまだ実現していません。私はこれまで、時には厳しく批判的に、時には前向きに評価しながら、ペレストロイカの理想と価値観を持ち続けることを求めてきました。それが道しるべであり、それなしでは迷いかねません。
 では、ロシアはどこへ行くのでしょうか?私はよくこの質問を受けます。そこには真の民主主義に到達するロシアの能力に疑問があるかのようなトーンが含まれています。彼らは時折、ロシア政府が採択する法律や決定が民主主義に即したものなのか尋ねます。私はいつもこう答えます。我々の国民はあなたたちが思っているより民主的です。……
我々は、過去から何を拒否すべきか、何を受け入れることができるかを学ぶ必要があります。時間はかかります。しかし、ロシアの未来は1つしかありません。それは、民主主義です。

……現代の国際政治において、ロシアと欧米の信頼関係の再構築ほど、重要かつ困難な課題はありません。ロシア抜きで深刻な国際問題を解決することは不可能であるため、欧米もその必要性を認めています。しかし、欧米は現在の状況に対するすべての責任をロシアに負わせようとしています。ロシアの方から歩み寄ることだけを待っていて、すべての争点に関し、欧米の立場に同意することを求めています。これではロシアと話ができないことを理解すべきです。ましてや、ロシアと他の国との関係を悪化させてまで、ロシアを孤立させるべきではありません。
 ロシアには、何世紀にわたる豊富な外交経験があります。それは対話と建設的な協力の形を示したペレストロイカによって、さらに豊かなものとなっています。冷戦を終結させたのは、再び冷戦の“足音”を聞くためではありません。
 近年起きている信頼の崩壊は、致命的で取り返しがつかないものだとは思いません。挫折や失敗、過ちの一種だと考えています。過ちであれば修正できます。過ちを正すには、時間、忍耐、常識、交渉など多くのことが必要になるでしょう。しかし、最も重要なのは、我々は同じ地球に暮らし、将来の世代に対し、この壊れやすい惑星の運命に責任を持っていることを理解すべきです。

……私がソ連の大統領として公式に来日してから、30年以上が経過しました。「新思考外交」に基づく日ソ関係の新たな局面の始まりとして、私はその訪問を受け止めていました。「新思考外交」は、冷戦終結東西ドイツの統一、国際紛争・戦争の終結、パリ憲章(=90年、欧州における冷戦体制の終結を宣言)の採択、集団安全保障の議論など世界で大きな成果を上げていました。
 ですから、私の立場は、協力関係を築き、互いの国民の認識を変え、さらに、地域・国際情勢の変化によって、問題解決のための最適なアプローチを探すことでした。日ソ関係においても、このようにして両国の関係を新しいレベルに引き上げようとしました。訪問の結果、私と海部首相は、日ソ共同声明と一連の分野に関する15の文書に署名することができました。
 しかし、ペレストロイカが中断し、残念ながら私たちの関係発展は行き詰まってしまいました。新しい政権は、我々とは異なる彼ら自身の政策とビジョンを持っていました。私は今でも、大きな成果を上げるためには、あらゆる分野での協力発展、それに首脳、閣僚、専門家レベルでの協議が必要であると確信しています。これが相互の信頼を醸成できる唯一の方法であり、それなくして、困難な問題の解決につなげることはできません。議題を拡大することも必要です。 たとえ難しい時でも、対話を中断すべきではありません。交渉を恐れずに、最も困難な問題を議論の俎上に載せなくてはなりません。
 古代インド・ヴェーダの格言があります。ラテン語の文書や聖書、世界の古典作品など、世界中で使われてきた言葉です。
「歩かなければ目的地にはたどり着かない」

 1999年にライサ夫人を失ったとき、肩を落としていたゴルバチョフ氏の姿は悲痛で、忘れがたいものがあります。それから23年、打ち拉がれながら自らを鼓舞し奮い立たせる場面もあったろうと想像します。
 二人はモスクワ大学の学生のときに出会って学生結婚するのですが、初めて出会ったときのことを、彼はこう回想しています。「堅物」の恋愛として微笑ましいので、最後に、これを引かせてください。

 (学生)クラブでは時々、ダンス・パーティが開かれた。私はたまにしか出かけなかった。本を読む方がよかった。ところが、同級生の中にはしょっちゅうダンス・パーティに出かけ、帰ってくるとそこに来ていた女子学生の品定めに熱中する仲間がいた。
 ある晩、私は机に向かって本を読んでいた。ワロージャ・リベルマンとユーラ・トピリンのふたりが私の部屋をのぞいた。
 「ミーシャゴルバチョフの愛称)。素敵な女の子が来ているんだ。初めて見る女子学生だ。さあ、行こうぜ」
 「わかったよ。先に行ってくれ。すぐ行くから」と私は答えた。
 仲間は出ていった。私は勉強を続けようと思ったが、パーティをのぞいてみようか、という気になった。私も学生クラブに出かけた。この時、私はまだ、自分の運命に出会うことを知らなかった。
 クラブのドア越しにのっぽのトピリンの姿が見えた。いつものように、軍人出身者らしく身なりを整えた彼が、見たこともない女子学生と踊っていた。音楽がやんだ。私はふたりに近づき、自己紹介した。
 ライーサ・チタレンコは哲学部学生だった。哲学部の校舎は法学部と同じだった。彼女の寄宿舎も私のいたストロムインカだった。しかし、彼女の顔を見るのはこれが初めてだった。なぜかはわからなかった。
 モスクワに上京した時、私は心に誓ったことがあった。モスクワ大学での五年間は勉強一筋に打ち込む、という決心だった。恋愛にはいっさい関心を持たないことにしよう。この点で、私の同級生だった女子学生たちは“目が高かった”。というのは、彼女たちは、どう見てもゴルバチョフには“婿さん候補”の可能性はない、ということを短時間の内に直感的に見抜いていたからだ。私自身も、決心は守り通せると絶対的な自信を持っていた。ところが、である。
 彼女と出会ったこの日から、私の幸せと苦悩の日々が始まったのだ。……
(『ゴルバチョフ回想録』上巻 新潮社 90頁)

……続きも面白いのですが、まあ、「最初」の出会いだけにとどめます。

 ロシアの人は相手に敬意を表するとき、姓名を省いて、個人名と父称をつなげて呼ぶようなので、それにならって……。
 ミハイル・セルゲーエヴィッチ、政治への希望をつなぎとめてくれたあなたを、遠い島国の一辺境から深く哀悼します。どうか安らかにお眠りください。





 
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