ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

早尾貴紀『希望のディアスポラ』を読んで

 イスラエルガザ地区での戦闘を再開させてから、ほぼ一方的にガザの住民の死傷者が増えています。イスラエルハマスを根絶やしにするまで戦うと言っていますが、最初に攻撃を仕掛けたのはガザ地区ハマスだったとはいえ、これは本当に「自衛行為」と言えるのか。あまりに傲慢不遜というか、とても神と向き合って生きている人たちの発する言葉や行為とは思えません。イスラエルの人びとが信ずるユダヤの神はこうした蛮行を許す神なのでしょうか。

 実はこんなイスラエルのあり方を非難する人はユダヤ人世界の「内部」でも少なくないようで、イスラエル政府の行為をもってユダヤを代表させるのはたぶん間違いなのだと思います。
 古代ユダヤの王国が滅んで各地に離散し、差別され、苦難の道を歩んできたユダヤの民が「安住」の地としてパレスチナの地に国家(民族の郷土)をつくる――そんな「理念」のもとに建国されたのがイスラエルという国です。これはアメリカ合衆国の建国や「西部開拓」とよく似ています。もともとそこに住んでいた人たちとどう折り合いをつけるのかという問題が完全に(乱暴に)無視され、結局は暴力によってかたがつけられてきたからです。各地に離散して暮らしながら、惨い暴力被害を受けてきたユダヤの人びとが、民族としてのアイデンティティーを失わずに生きてきた歴史はそれとして、その民族がパレスチナに国家建設をしてからは、「被害者」から「加害者」に転じ、今もアラブ系住民たち相手に惨い暴力を繰り返しているわけです。

 最近読んだ、早尾貴紀さんの『希望のディアスポラ』(春秋社 2020)では、敬虔なあるユダヤ人の所説が紹介されています。( )内は小生の補足語です。

 ……古代のユダヤ王国が戦争で(ローマに)滅ぼされユダヤ人が亡国の民となったことの意味を宗教的に解釈すると、神がユダヤ人の傲慢さを罰したものであり、離散・流浪は神が与えた試練であるということになる。異教徒・異民族と武力で争い支配を強めようとしたため、神の逆鱗に触れたというわけだ。それがいわゆるユダヤ人のディアスポラ(離散の意)の始まりである。それゆえ、その神に赦しを求めるならば、敬虔に生きて反省を示すことしかない。そこでユダヤ人の宗教指導者らは解釈に解釈を重ねて、ユダヤ人が守るべき戒律を体系化していった。これが「タルムード(律法のこと)」であり、それはいわば歴史の教訓でもあるのだ。たとえば異教徒・異民族と争わないこと、異教徒・異民族を支配しないこと。これは、傲慢な戦争で自ら国を失った、つまり神から罰せられたことから得られた教訓だ。そうしてユダヤ人は、自らの国をもたなくとも、異教徒たるキリスト教の支配するローマ帝国のもとで、ムスリムの支配するオスマン帝国のもとで、その他各地で、権力に逆らったり異教徒と争ったりすることなく、しかし同化されることもなく、適度な距離を取り、ときには協力もして、そしてユダヤ人の文化やアイデンティティを守り発展させてきたのであった。このディアスポラ文化こそがユダヤ文化の真髄である、とボヤーリン兄弟は言う。……  
                (早尾『希望のディアスポラ』 225-226頁)

 ユダヤの人でなくとも、「異教徒・異民族と争わない、異教徒・異民族を支配しない」というのは大原則であり重要な心得です。アメリカ合衆国は19世紀のあいだ中、先住民との戦闘に明け暮れ、1890年に「西部開拓」の終了を宣言しましたが、20世紀になってからアメリカ先住民への蛮行は間違いであったと公式に認め、謝罪しています。イスラエルも「終結宣言」をしてからでないと、自らの罪を認められないのでしょうか。神に罰せられるかどうかはわかりませんが、それでは遅すぎます。



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