ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「ロシア的人間」像

 2月24日に始まったロシアのウクライナ侵攻戦争は8ヶ月となり、特にロシア側には「弾切れ」が指摘されるなど、物量的に厳しい局面にさしかかり、プーチン大統領の発言にも変化が見えます。1ヶ月前に発した部分的動員令には国内の反発が強く、出国者も激増したためか、最近(表向きだけかもしれませんが)動員終了を示唆したとの報道もありました。
 それでもプーチン大統領の支持率は、どこかの宰相とちがって急降下するわけではありません。ロシアの世論調査機関・レヴァダセンターが9月29日に公表した調査結果によれば、現在の支持率は77%となっていて、多少下がったとはいえ、戦争が始まる前に比べても、なお高いのです。

      支持  不支持  無回答
 1月   69  29   2
 2月   71  27   2
 3月   83  15   2
 4月   82  17   1
 5月   83  15   2
 6月   83  16   1
 7月   83  15   2
 8月   83  15   2
 9月   77  21   2 

Levada-Center : Approval of institutions, ratings of parties and politicians

 もっとも、この数値がどこまでロシアの人びとの真意を反映しているかはわかりません。モスクワ在住の村上大空氏は「モスクワから暴走のロシアを眺めて」と題する10月7日付の一連の記事の中でこう書いています。
プーチンは高支持率…? 真実を報道しただけで逮捕されるロシアの民意はどこに(村上 大空) | 現代ビジネス | 講談社(1/3)

……正直、これがどれだけ実態を正確に反映しているのかについては疑問がある。そもそもロシアでは世論調査機関に対しても圧力がかけられており、レヴァダセンターに至っては、外国から資金援助を受けているということで、「外国のエージェント」として登録されている。ウクライナへの侵攻後、こうした組織はいくつも解散させられた。
例えば、以前ベラルーシのネットの世論調査において、ルカシェンコ大統領の支持率は3%という数字が出回ったことがあるが、レヴァダセンターがこのような数字を出してしまうと活動そのものができなくなる可能性がある。
またロシアではウクライナ侵攻後に「世論調査回答拒否率9割を超える」という旨の報道もあった。そのため、この数値がどれだけ正確なのかについては確証が持てない状況となっている。とはいえ、他に指標となる数字がないのも事実だ。

ロシア社会の中から見ていても、ロシアの民意を把握することは非常に困難な状況になっている。そのため、筆者もロシア人と会う際、よくお互いの周りの人たちの話をして、世論調査が肌感覚と一致しているのかを確認する。
以前メディアで働いた経験のある友人は「2011年の下院選挙の時点で、同僚が街でインタビューしていても回答拒否されまくっていて、国民が何を考えているのかわからないと言っていた」とぼやいていた。この10年でロシアの様子はかなり変わり、状況はさらに悪化している。
本来であれば、正確な民意がわからないと政権運営をする上でも支障が出るはずだが、今のロシア政府にとっては、もはやそんなことは些細な問題にすぎなくなっている。
余談だが、筆者はこの世論調査機関の出してくる数字について以前ジャーナリズムに詳しいロシア人に「どう思う?」と聞いたことがあるが、「ロシアでは真実を報道しただけで逮捕されるのよ? 相手するだけ無駄」と呆れられてしまったことがある。
そんな彼女は以前「ロシア語でパトリオート(愛国者)はイディオート(バカ)の上品な表現」という教科書に乗せたくなるような明言を残していたが、ロシアのウクライナ侵攻が始まってからは、すっかりふさぎ込んでしまい、もはや悪態すらつける状態ではない。……
国の現在と未来を憂いている人がいる一方で、誇らしげにロシア国旗やZの旗を一生懸命振る人たちもいる。それを見て暗くなった人がさらに暗くなっていく。この非日常な状況がすっかり日常に定着してしまっている。

 大空氏は、ロシア国民が徐々に歪んでいく社会に(適応し、大きな)反発もせずに過ごす中、プーチン政権はますます国際社会とかけ離れた世界に突き進んでいく、と書いています。しかし、どうも一般的なロシア国民には、「国際社会とかけ離れる」ことに対する疑念や不安があまりないか、あっても気にしない、気にするな、という風情(美意識)が見えます。これは一般的なナショナリズム感情と重なるようにも思えますが、イスラム学の泰斗、井筒俊彦さんが『ロシア的人間』の中で、こう書いていることが目を引きました。

 ロシア民族は、その精神的自覚の最初から、敗者の苦悩を深く味わっていた。プーシキン以前の古文学のうちで、ほとんど唯一の取るに足る文芸作品ともいうべき『イーゴル公遠征譚』が、ロシア民族の惨憺たる敗北を抒情する史詩であることは、奇しくも民族の歴史を象徴するものと見得ないであろうか。ロシア文学は、敗北の讃歌をもって始まる。他の諸民族が、古代文学を飾る叙事詩において、それぞれ自分の民族的英雄の勲しをたたえ、異民族に対する己の勝利を誇らしげに歌いつつあった時、ただひとりロシアだけは、自分の惨敗を歌っていたのだから。だから、19世紀文学の主要な主人公達が、見方によればほとんど全部「敗北の人」であることは少しも不思議ではない。……革命に至るまでの19世紀文学は敗残者、失意の人で累々と埋まっていると言っても過言ではないのだが、それは19世紀に突然起こった偶発的現象ではなくて、その背後に数百年の長い歴史をもっているのである。そして、その歴史の端をひらいたのが13世紀初頭の韃靼人侵入であった。
 「韃靼人の侵入は悲痛な、しかし偉大な、光景です」と、1836年10月19日付……手紙にプーシキンは書いている。ロシア精神そのものの体現とも言うべきプーシキンは、「悲痛にして偉大な」この民族の悲劇のうちに、ロシア精神の運命をはっきりと見極めたのであった。諺にも残るほど残酷な韃靼人の凄まじい侵略の前に、平和に富み栄えた往古のロシアはたちまち阿鼻叫喚の巷と変じて行った。……陽気で何の屈託も知らぬロシア人は一夜にして奴隷の屈辱に叩き込まれてしまった。しかもこの韃靼人支配は13世紀、14世紀、15世紀と、三世紀にわたって続いた。文字通りそれは奴隷の三百年だった。しかしそれと同時に、この屈辱の経験は、プーシキンの言うように「偉大な」経験でもあったのだ。何故なら後世の史家がロシア精神の特質として指摘するものの大部分は、正にこの屈辱と困難のうちにこそ形成されたのだから。ともかく、それ以前には、ロシア精神と呼べるものは地上に存在していなかった。本来の意味でのロシア精神は、ロシア民族が「虐げられた人々」となった時から始まるのである。
 地獄の呵責が三百年も続けば、どんな民族でも、その魂に決定的な刻印を受けざるを得ない。しかし、その経験が何か積極的な精神を生むか否かはまたおのずから別の問題だ。屈辱は骨の髄まで奴隷的な、矮小な人間を生むこともあるだろう。ロシアでは、この苦悩の経験から、ある特徴ある巨大な反逆児が生まれ、黙示論的人間が生まれた。……魂の深部で炎々と燃える恐ろしい怨嗟、分恚、羨嫉、嫉妬。……ロシア人について人はよく「謙虚」とか「謙抑」とかいう言葉を口にするが、彼らの慇懃は決してただの慇懃ではない。カラマーゾフ家の私生児スメルジャコフは、この意味でロシア精神の「臭気芬々たる」裏面を象徴している。『永遠の夫』を読んでも、そこにたんなる異常心理の分析や、個人的な嫉妬の病的な状態の描写しか見ない人は、まだロシアというものがよく分かっていない。『永遠の夫』は要するにロシアそのものであり、ロシア精神の一つの重要な基石をなすひねくれ根性の、実に天才的な表示なのである。謂れなくしてあまりに残酷な暴行、拷問、折檻を受けた敗者の恨みは、頑固な、恐るべきひねくれとなって内攻する。しかもこの怨恨だけが、一切を剥奪されてしまった赤裸の魂の、最後に残った一点なのである。怨恨は外に向かって爆発せず――爆発したくとも外面への途は固く閉ざされているのだ――深く深く内面へこもって行く。ひと思いに恨みを返し仇をうってしまえば胸もせいせいするだろうに、そうする代わりに、誰も知らないような薄暗い部屋の片隅にひっそりと身を隠して、そこから四六時中じっと相手を見つめている。そしてまた、そうしていることが当人にとっては死ぬほど苦しいと同時に、その裏では身顫いが出るほど劇しい快楽でもあるのだ。こんな非合理的な、根深い反逆はロシア的人間だけのものである。
……<中略>……
(その後、ピョートル大帝の改革によって奴隷精神は叩き潰され)韃靼人の侵入以来、先祖代々奴隷状態にあったロシア人ははじめて解放された。だがあまり急に解放された彼らは、身の幸福を喜ぶより先に、このいわば無理やりに上から押しつけられた「自由」のもてあつかい方に戸惑いし、周章狼狽した。奴隷状態は屈辱的で苦しいが、しかし、見方によれば、この上もなく呑気で気楽な状態だ。何を為すべきかという問題は一切向こうまかせで、厄介至極な自由意志を少しも働かす要がない。自由がなければ責任もないのだ。こういう呑気な生き方も、ある意味ではすこぶるロシア人の趣味に合っている。(ドストエフスキー『未成年』で)「ねえ、アルカージー君、私達は、……お互いに共通なロシア的運命ってやつに襲われてしまったわけですよ。貴方もどうしたらいいかわからない、私もどうしたらいいかわからない。ロシア人という奴はね、習慣がちゃんと制定してくれた公定の軌道から飛び出すやいなや、たちまちどうしたらいいかわからなくなっちまうんですよ。軌道に乗ってる間は何もかもはっきりしている。ところがちょっとでも何か変わったら最後、さあ大変だ、まるで風にでもあそばれる木の葉同様で、どうしたらいいか途方に暮れてしまう」とソコーリスキー公爵が「未成年」に述懐する。ところがその「未成年」のアルカージーはまたこんなことを言うのだ。「我々は韃靼人侵入を経験し、次に二百年の奴隷状態を経験したわけですが、それというのも実は両方とも我々の好みにかなっていたからなんですよ。今や、自由が与えられています。そしてこの自由を持ちこたえて行かねばならない。しかし一体我々にそんなことができるでしょうか。自由も奴隷状態のように我々の好みにぴったりとくるでしょうか、そこが問題です。」
(井筒『ロシア的人間 新版』 中公文庫 42-45/82ー83頁) 

 韃靼人(モンゴル軍)の「侵入」時の戦いの惨さについてはともかく、その後のモンゴル支配(=タタールの軛)は、一般に考えられている程、苛烈だったわけではなく、実は互いに協調しながら共生が図られたという方が史実に近かったようです。しかし、異民族支配を脱する際とその後における、「タタールの軛」という標語の刷り込み効果は絶大で、ロシアの国民的記憶として長く継承されたものと考えられます。
 しかし、今となっては、70年以上前の1950年代前半に、井筒さんが主に19世紀のロシアの文学作品から導き出した「ロシア的人間」像、ロシア思想の深淵にかかわるある種のパターンを、2022年のロシア国民に無前提に当てはめるのは、さすがに躊躇します。井筒さんの説明には腑に落ちるところが多くて驚くばかりなのですが、やはりそこは留保が必要です。むしろ、読んでいると、これはロシアにだけあてはまる話ではないのでは、と思える方が不気味です。






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