ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「歴史の真実」と「数字の政治学」

 「歴史の真実」とは何なのか。そしてまた、「真実」は自分の側にだけあるという思考は、結局どこに向かうことになるのか。
――昨日の朝、毎日新聞を見ていて、栗原俊雄さんの記名記事が目に留まりました。関東大震災から100年を迎える今年の9月1日。それは震災被害で亡くなったたくさんの方々と、当時いわれのない流言卑語によって日本人自警団などに虐殺された朝鮮人、あるいは「朝鮮人」と疑われて犠牲になった人びとを追悼する日です。これまで各地で慰霊式や集会が開かれ、小生もむかし県内の集まりに参加したことがあります。ところが、この日、東京・墨田区横網町公園で行われた追悼行事では怒号が飛び交う事態となりました。「真実の関東大震災朝鮮人犠牲者慰霊祭」を開くとする団体は、公園内に立つ朝鮮人犠牲者の追悼碑に刻まれた「犠牲者6,000人余」という数字は捏造であり、虐殺された数字は「233人」だと主張。追悼碑の前で自らの団体主催の「慰霊祭」を行おうとしましたが、これに反対する人びとと一触即発の事態に至ったというのです。「233人」という数字の出所は、記事にあるとおり、刑事立件された被害者の数で、実態からは大きく乖離しています。「数字の政治学」という語がありますが、同じ件での犠牲者数は、比較上、多い方が同情される度合いが高まるために、(偽装や捏造かどうかの評価は百歩譲って留保するとしても)意図的(政治的)に多い数字や少ない数字になるような根拠(典拠)の「切り取り」がなされる可能性があります。(専門的)知識があるわけではない部外者の多くにとっては、それが「真実(真の数字)」であるかどうかはわかりません。
現代をみる:9・1犠牲者追悼の場、再建を=栗原俊雄 | 毎日新聞

 今イスラエルハマスの戦争でガザ地区の住民の死傷者の数は増え続けています。もちろんきっかけはハマスによるイスラエル側に対する攻撃と拉致でした。しかし、戦闘が始まって数日でイスラエル側の死者よりもガザ地区側の住民の死者数が多くなり、以後今日まで、ガザ地区側の死者数だけが一方的に増え続けているのです。11月2日時点で、イスラエル側の死者数は推計1,400人、ガザ地区は死者数9,000人超。この数字はだいたい正しいとは思いますが、「数字の政治学」が働いていないとは限りません。しかし、当初はともかく、最近はほとんど一方的にイスラエルが攻撃しているようにしか解釈できません。毎日毎日、破壊尽くされたような光景を見るにつけ、これはいいも悪いもなく、とにかく戦闘(イスラエル空爆)を止めなければならないと世界の多くの人が思っています。しかし、この戦いはイスラエル側の「自衛」であり、これを明記しない決議案にアメリカは賛成できないとし、国連は戦闘中止を求める決議も上げられません。先日、イスラエル軍参謀総長でしたか、記者会見で「病院の下にハマスの本部がある(から攻撃が必要)」と言っていましたが、だからって病院を攻撃していいということになりえないのは自明です。もはやこんな「理由(理屈)」で自らの行為を「正当防衛」と言いはるのは無理があります。イスラエル側1,400、ガザ地区側9,000――イスラエルの人びとはこの数字をどう感じるか。少し冷静になって考えてほしいと思うのは、やはりこちらの身勝手なのでしょうか。

 人は一人だったら絶対にできないことが、集団になるとやれてしまうことがあります。しかし、よくよく考えてみると、そのきっかけは集団内の一個人(ないし数人)の自己顕示や憂さ晴らしに過ぎないことがけっこうあります。誰かが(あるいは何人かが)「これは止めときましょう」と言って思いとどまれば、こんなに多くの犠牲をともなわずに済んだはずと思えることが、あとから考えるとあまりに多い。しかし、その止める「お鉢が」自分に回ってきたときに、そう言えるかどうか、言わないといけないと思えるかどうかが問題です。これは世間に棹さすことをよしとしない人には大変苦しい事態(選択)です。「無知」だと、「棹」さえ持ち得ませんので、「選択」の余地なく流されていくでしょう。我々は権力に近い個人ではないから、数の力でも何でも、止める努力をするだけです。

 今朝の毎日新聞には、池上彰さんが映画「福田村事件」の監督・森達也さんにインタビューした記事が掲載されています。前日と内容的に重複する記事に、無知・不勉強の怖さを改めて感じます。
池上彰のこれ聞いていいですか?:負の歴史、忘れようとする日本 森達也さん「自分のために記憶を」 | 毎日新聞



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