ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

『現代ウクライナ短編集』

 藤井悦子さんとオリガ・ホメンコさんの共編訳による『現代ウクライナ短編集』は、元の版が1997年刊で、1980年代から90年代の作品を集めたものです。60代以上の人にとっては自身の若い頃を重ねて「一昔前」くらいの感覚で読めたとしても、30代以下の人にとって、多くは生まれる前の作品群です。それなりのズレはあるでしょうし、ましてや、異国の文学作品です。個々の作家の背景のようなもの、何かウクライナの「国民的記憶」のようなものなどを探しながら読むことで、何とか共感できるものを見出せるかもしれませんが、読み方としては「邪道」な感じがしてしまいます。

 とはいえ、読んでいて「んっ?」と思う作品や箇所は、確かにあります。作家個人の体験とこの「国民的記憶」がどう絡んでいるのかはわかりませんが、たとえば、この短編集の中で最も「長編」である「天空の神秘の彼方に」は、不気味な贖罪と救済の物語で、1930年代のウクライナを襲った(というよりソ連中央の政策的故意、人災なのですが)大飢饉(ホロドモール)が下敷きになった話であるのは、当事者でない者にも伝わります。これはウクライナの人にとっては苦難の歴史としてずっと語られてきたことなのでしょう。あるいは、「脱出」という作品にも1986年のチェルノブイリ原発事故によって離散を強いられた人びとの苦しみと社会の荒廃が感じとれなくもありません。
 編訳者の解説にはこうあります。

 80年代を代表する作家の一人であるヴャチェスラフ・メドヴィヂは現代ウクライナ文学について、「心底明るく楽しい作品はウクライナではまだ書かれていない」と私信で述べている。
 飢饉、大虐殺、戦争によって潰滅的な打撃を被ったウクライナ人は、民族の受け継ぐべき遺伝的な記憶までも喪失していて、共通の体験として残るものは悲しみしかない、という認識はメドヴィヂだけのものではないだろう。何百年ものあいだ独立の国家を持つことができず、政治的にも社会的にも文化的にも地球上で占めるべき己の地位と役割を見出せなかった鬱屈した思いがウクライナの人びとの意識の底に沈んでいて、明るい作品にも滑稽な作品にも通奏低音のようにかすかに響いて消えることがないのは否定しようのない事実である。

(同書、263-264頁)

 他方、「国民的記憶」なるものが定型化・標準化し、逆に、それがウクライナの文学作品の必要要件のような空気が漂えば、「反動」というか、作家の側からそうした風潮にとらわれない自由な作風が生まれ出てくるのもまた自然なことと思います。小生のように軽薄さの脱けない人間からすれば、例えば、腕のいい医者に難病の母親の手術を頼みたいがために、医者の要求に従って自分の妻を「差し出す」ことになった夫とその妻の悲哀を語った短編「新しいストッキング」や、バスの隣に座った女子高校生の魅力に取り憑かれてしまう30代の男の話である「トンボ」などは、「民族の記憶」とか「通奏低音」の重さから離れた日常のコミカルさが感じられます。
 おそらく、それは編訳者も同じで、本書の短編の最後に、元々の1997年の「作品集」とは別個の作品であった「彼と彼女の話」(2001年)を持ってきたのは、型に収まらないウクライナの作家の軽妙な秀作を紹介したいという意図があったと思います。

 しかし、2022年の今また、ウクライナの人びとに苛烈な苦難が押しつけられるなか、「平和な世界」のこちら側から、ウクライナの作家の過去の作品群を読むことにどういう意味があるのかと。また、こうしてブログに書くことが何になるのかと、やはり考えないわけにはいきません。素朴な興味や関心だけではもう済みません。千葉の田舎から停戦を祈りつつ、何かできるのでは、と考えているところです。

群像社刊 2005年 270頁)




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