ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「戦争機械」と「反戦放送」

 先日久しぶりに大きな書店に行って本を買いました。ロシア史研究者の和田春樹さんの自伝というか回顧録『回想 市民運動の時代と歴史家 1967-1980』(作品社)という新刊本に目が留まりました。和田さんと「同時代」を生きたというには、和田さんの方が年齢が上過ぎるのですが、この時代の話なら何とかついていけます。
 1960年代後半、ベトナム戦争アメリカの攻撃)に反対を訴える声は世界的に拡がっていて、日本で普通に生きていても、当時反戦の空気を肌で感じることができました。学生運動などもありましたし、当時は社会全体がそんな雰囲気だったと思います。イスラエルに即時停戦を求める今の国際社会の空気も、幾分似たところがあるかも知れません。当時、和田さんの自宅の上空を、ベトナム戦で負傷した兵士を朝霞の米軍基地(野戦病院)に運ぶヘリコプターが頻繁に行き来していて、和田さんは毎日やりきれない思いでこれを見つめていたそうです。何とか反戦の意志を示さなければと思い、和田さんは賛同する人たちと一緒に、1969年6月から「朝霞反戦放送」なるものを始め、金網越しに基地の兵士に反戦を呼びかけます。以下、引用です。

 ……日本にある(米軍の)野戦病院は、負傷の程度が一か月から三か月の治療を要するもので、基本的に治療が終われば、兵士はベトナムの原隊に復帰する。戦争機械の一部として兵士を修理する、もう一つの戦争機械である。これを攻撃することは、負傷者をふたたび兵士に戻すことを妨害するところに向けられる。そのために反戦の呼びかけを系統的にやることを考えた。「反戦放送」というネーミングは誰が考えたかわからない。市民の知恵というべきか……。もちろん、英語放送である以上、すべてアメリカ専門家・清水知久の豊かなアイデアの賜物であった……。……
 一九六九年六月は、一日の日曜日から八日の日曜日まで、毎朝一〇時半と午後五時半の二回、反戦放送を行った。……反戦放送は何よりも効果が目に見える運動であった。言いたいことを語ること、声を出すこと、歌を歌うこと、旗を振ることが、巨大な戦争の機械の中にいる兵士の心に直接働きかけ、何らかの反応を呼び起こすことが実感できたのである。それがこの運動の大きな魅力であった。
 兵士たちも、MP(引用者註:米国陸軍憲兵隊 military police の略)も、さまざまな反応を示した。猛烈に石を投げられたのは一回だけだが、当初は反発が強かった。兵士が私たちから受け取ったビラに火をつけて燃やしたこともあった。だが、その兵士と話していた将校がそのまま私たちに近づいてきて、「この戦争は良くない」と言ったのである。MPが監視していないところで、柵のところまで来た兵士の一人は、ビラの主張は「出ていけ」というのだろう、「おれたちだって出ていきたいよ」と言った。もう一人は「もう少し同情してもらいたい。手や足をなくした、かわいそうな連中ばかりなんだから」と言う。「二度と戦争機械になるな」と話すと、「わかった」とうなずいた。……
                 (和田、同上書、59-61頁。一部略。)

 ベトナム共産主義者から守るためという「大義」のために、遠くアジアに出兵した米兵たちは、世界中からの非難に晒されて徒労感ばかりがふくらみ、自らのよりどころを失っていきます。現在ガザ地区で戦闘を続けるイスラエル軍の兵士はどうでしょうか。昨日はイスラエル人の人質を誤って殺してしまったというニュースが流れ、非難はいっそう高まっていますが、「俺たちだってやりたくないのに(我慢してるんだ)」という想いで前線に立っている兵士もいるでしょうし、中には大なり小なり負傷した者や、命を落とした者もいるはずです。

 そんなイスラエルの兵士たちに「戦争機械」になって「機械」を回すのはやめてくれと、この日本の片隅から声が届くかと言えば、それはほとんど無理なのですが、アマゾン川の蝶の羽ばたきが北米に巨大ハリケーンを引き起こすという「理論」もありますので、単なる悲観はしないでおきます。自分の日常とベトナム戦争が線でつながったとき、何もしないではいられなかったという和田さんの心境には、通じるものを感じたのでした。「通じる」というのもおこがましいので、「共感」でしょうか。



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