ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「他人に迷惑をかけない」という「美徳」

 毎日新聞に連載されている「私が思う日本」という外国人記者によるリレー・コラムを興味深く読んでいます。今回は朝鮮日報の崔銀京・記者が、日本の美徳とされる「他人に迷惑をかけない(ようにする)」という美徳とその変化について、「好意的」な記事を書いています。5月8日付記事より一部引用させてください。

私が思う日本:変わる日本の美徳 「他人に迷惑を掛けない」以上に大切なこと | 毎日新聞

 外国人に広く知られている日本人のイメージを一つ挙げるなら、「他人に迷惑を掛けないよう努力する」ではないか。韓国でよく耳にする日本人の全ての特徴は結局、他人に迷惑を掛けないという精神から出発しているように思われる。日本人は約束の時間を必ず守るし、大勢が集まる公共の場でも騒がず整然としている。幼いころから韓国社会も隣国に見習うべき点としてよく聞いていた特徴だ。
 ところが、いざ実際に日本で暮らしてみると、現実は異なると思うことも多い。代表的なのは路線バスの遅延だ。韓国にいた頃は「日本ではバスですら遅れない」という話をよく聞いた。バスの運行は道路状況に左右されやすいにもかかわらず、日本では定刻通りにバスが来る。それぐらい時間厳守が徹底されているとされていたのだ。しかし平日の午後に東京の住宅街でバスを待つと、定刻よりも1、2分はおろか、5分以上遅れることもざらにある。3年前に文京区に住んでいた頃はもっとひどかった。バスの運行間隔が完全に乱れ、同じ行き先のバスが数珠つなぎのように来ることもあった。
 当初は予想外の遅延に驚いたが、今は違う。「遅刻バス」の背景にあるいくつかの原因のうち、高齢化の進行が特に影響しているのではないかというのが私の個人的な考えだ。
 昼間の時間帯に車内を見渡せば、乗客のほとんどが高齢者だ。実際に国土交通省全国都市交通特性調査の統計(2015年)を見れば、70歳以上のバス利用率がひときわ高い。ほとんどが高齢者や障害者に配慮した「ステップバス」で、座席の半分以上が交通弱者のために確保された優先席だ。車椅子利用者が乗り降りする時は、運転手がバスを降りて手伝ってくれる。乗車する時は席を安全に確保するまで停車して待ってくれる。降車する時は「バスが停止してから席を立ってください」というアナウンスが流れる。走行速度も韓国に比べると遅い。そうこうして時々遅延するが、とがめる人を見たことがない。「老人大国」となった今の日本は、時間厳守で他人に迷惑を掛けないことよりももっと大切な美徳があることに気が付いたのだ。

 日本で暮らしながら新たな美徳とマナーを発見するケースはこれ以外にもよくある。他人に迷惑を掛けたがらない日本の人たちは公共の場でも静かだとされるが、最近では「聞こえないふり」をすることはもっと重要な美徳になったようだ。子供が泣いたり騒いだりしても、適当に聞かないふりをしたり、気にしていないように振る舞ったりすることが大人のマナーだという空気が読み取れるのだ。
 最近、JR京都駅の一角で、赤ちゃんは「泣いてもいいよ」と書かれた「WEラブ赤ちゃんプロジェクト」のポスターを発見した。ウェブマガジン「ウーマンエキサイト」が16年に発足させた「WEラブ赤ちゃんプロジェクト」は、電車など公共の場で泣き出してしまった赤ちゃんを一生懸命にあやそうとするママ、パパが過度に周囲に気を使ったり、萎縮したりすることのないよう温かく見守って励ますという趣旨の活動だ。昨年11月には京都府が賛同を表明した。
 私は19年に東京・世田谷区がこのプロジェクトに賛同した際に関連する取材をした。その時は「このプロジェクトは長続きするのだろうか」と思ったりもしたが、3年たった今も日本の各地で共感を集めて活発に展開されていることにとても喜ばしい思いだ。

……
 韓国に先立って少子高齢化社会に突入した日本社会を見れば、時代の変化に従ってその時の社会が重視するマナーと美徳がいくらでも変化し得るということが分かる。
……

 路線バスが遅れる理由に、高齢者や障害者など「交通弱者」への配慮を見る崔さんの視線にはホッとしますし、赤ちゃんの泣き声に「聞こえないふり」をするのを「美徳」と解釈してくれる優しさ(リップサービス)もありがたい感じがします。しかし、実相はどうなのでしょうか。

 「他人に迷惑をかけないようにする」「聞こえないふり」をするという「美徳」が一般にどうして守られているのかというと、それは、他人に不快な思いをさせてはいけないと、相手を思いやるという面も確かにあるとは思いますが、相手に何か働きかけると、その結果、何か文句を言われたり、反撃にあうことがありはしないかと怖れている面があるのでは、と思います。トラブルになると面倒だからと、相手よりもむしろ自分のことを思いやっているわけです。

 どうして、そう感じるかというと、戦史研究家の山崎雅弘さんの5月8日付のTweetにはこう書かれているのです。引用をお許しください。

山崎 雅弘 on Twitter: "「どうして?」「これがルールだから」

日本の学校はOECD加盟国の中でも断トツで「批判的思考を養う教育を行っている」という教師の回答が少ない。

意味や理由を考えさせず、「ルールだから」で思考停止。学校でも社会でも、従順な下僕を大量生産する工場型の教育システム。
https://t.co/29l6OA2l9u"

「どうして?」「これがルールだから」
本の学校OECD加盟国の中でも断トツで「批判的思考を養う教育を行っている」という教師の回答が少ない。
意味や理由を考えさせず、「ルールだから」で思考停止。学校でも社会でも、従順な下僕を大量生産する工場型の教育システム。

(続き)その一方で、強い力を持つ者、例えば総理大臣が「決められたルール」を破りまくってもお咎めなしで、審判も笛を吹かない。そこでは「強い立場の者は、決められたルールを破っても許される」という「明文化されていないメタルール」が優先される。結局、従っているのはルールではなく力の秩序。……

 人と関わって生きている限り「批判的思考(否定だけでなく肯定・賛同も含む)」が失われることはないと思います。それがなくなるとしたら、それは人への関心を失ったときです。
 「他人に迷惑をかけないようにする」というのが社会で当たり前のことになっていたら、ことさら「美徳」「美徳」と子どもに強制的に教える必要はないかもしれません。親が黙っていても、いろいろな場面に接しながら、子どもは世の中はそういうものだと思うでしょうし、同じように「社会のルールを守りなさい」というのも、相応な場面で言われれれば、子どもも納得するでしょう。しかし、あえてくどくどと、こういう「徳目」を子どもに言わなければならないとしたら、その子どもがどうのというよりも、他人に迷惑をかけ、社会のルールを守らない「不徳」な者が実際は少なくないからでしょうし、彼らによってトラブルに巻き込まれた人びとの映像が毎日のように放送されつづけ、恐怖心や自己保身があおられるからでしょう。となると、「他人に迷惑をかけないようにする」というのは、ますます他者との関わりを遮断し、自己の殻に閉じこもるように仕向けることになっていく可能性があります。その方が無難だと。
 もっと言えば、たとえ迷惑をかけても相手が怒らない、迷惑をかけても大丈夫だとみなした瞬間にたがが外れて、とんでもない迷惑行為に走る者まで出てきかねない。それは公然と嘘は吐き散らかしても国民から怒られもしない(選挙で落選しない)と思っている政治家(あえて複数形にはしません)が、責任をとることもなく今でも堂々と政治家をやっているのを、我々が目にしているのと同じところがあります。要は、山崎さんが言うとおり、「美徳」というより「力の秩序」ではないのか。

「時代の変化に従ってその時の社会が重視するマナーと美徳がいくらでも変化し得る」という崔さんの結びの言葉はその通りだと思います。人びとが何を「迷惑」と感じるのかも変化してきたし、今後も変化していくでしょう。しかし、そこにも「力の秩序」が「空気」のようにスッと入り込んで来るかもしれません。デモやストライキは迷惑行為だといった具合に…。そこには、この人たちはなぜデモをしているのか、なぜストをしなければならないのか、と理由を考えようとすることも、他者に共感する姿勢も見えません。危うい感じです。

トルストイ『文読む月日』の本日5月9日の言です。

 (六) 徳は絶えず前進し、しかも絶えず新たに出発する。
 (七) 鳩の温和さは――徳とは言えない。鳩が狼よりも善良なわけではない。徳ないし徳への一歩は、努力の始まるときにはじめて始まるのである。

(北御門二郎訳『文読む月日 上』 540頁)

 個人としてはそう心がけるだけです。でも、他人との関わり、社会との接点を忘れるわけにもいきません。




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