ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

教育の「不確実性」

 教育社会学者の広田照幸さんの新刊が出るようです。それにあわせて、ほんの「味見」程度ですが、一部がネットで公開されています(2022年5月9日付更新の「ちくまWeb」)。

そもそも「教育」とは何か? 3つのポイント「意図的に」「他者」「組織化」|ちくまプリマー新書|広田 照幸|webちくま(1/2)

 ほとんどの人が日頃から「教育とは何か」を考えて生活してはいないでしょう。学校で教員が授業をしながら、生徒たちが授業を受けながら、そういうことを考えている……わけではないし、それは家庭の親と子でも同じだと思います。けれども、漠とした疑問をたまには考えて、ことばにするのもいいかなと思います。ここに掲載されている広田さんの文章は、著書のほんの一部ですから、全体を読まないと何とも言えませんが、その「補助線」は引いてもらえる気がします。

 一読して、小生にとって印象的だったのは、教育には他者がいて、教育は他者を変えようとするお節介な営みだという下りです。学校で教員の立場になった人なら、多かれ少なかれ必ず直面するであろう「事態」について、広田さんはこう書いています。

……他者という点で重要なのは、教育する側にいる自分が望ましいとか必要だとか思うものを、他者、つまり被教育者がそのように思ってくれるとは限らないということです。私がシャガールの絵に感動して、「これを見せて感動させよう」と考えて子どもに見せたとしても、「ゲッ、下手くそな絵」と言われてしまうかもしれません。
 他者が存在するということは、教育関係とは、ある人と他者との関係だということになります。その場合、教育者の意図とは別の状態にあるのが、被教育者です。教師が何かを教えたいと思っていても、生徒がそれを学びたいと思っているとはかぎらないのです。教育には、ここに根本的な不確実性が存在しています。
 実際、教育を受ける側は、常にやり過ごしや離脱の自由を持っています。私が高校生のとき、クラスのS君という友だちが、日本史の担当のN先生の授業が大嫌いで、時間中はいつもずっと窓の外を見ていました。ある日とうとう、N先生が怒り出してS君に何か言ったのですが、S君の方は「あんたの授業が下手くそだから、聞く気にならないんだよ!」と言い返して、S君の圧勝になりました。新米のN先生の授業は、私の目から見ても下手でした。
 まあ、そこまで露骨でなくても、教師の方をぼうっと見ながら、「今日のお昼ご飯、何食べよう」とか、「夜のテレビは何がいいかな」と考えたりすることは、皆さんにもよくあることだと思います。そんなときは、だんだん眠くなりますね。教科書を見ているふりをして、私もときどき居眠りしました。……

 最近は新米教師でも無難に授業をする人が多くて、小生も在職中は、今の若い人たちはすごいなあとたびたび思ったものです。それにひきかえと、新任の頃の自身を振り返ると冷や汗ものです。くたくたになって帰宅して、ろくに翌日の授業準備もせずにそのまま寝てしまい、夜中に教室で立ち往生する夢を見て、ガバッと起きて、慌てて授業準備をした…などということが何度かありました。そんな個々の教員の事情など、生徒は知るよしもありません。逆に、教員も、個々の生徒が、たとえばその日の朝に親にどんな不愉快なことを言われたかとか、学校に来てからどんな不愉快なことが起こったかなど、たぶん気づくことはないでしょう。そんな両者(1対多)が教室で会しているわけですから、片想いの悲劇というか、教える側と教えられる側の双方だけでなく、教室に集まる人間たちに様々な「齟齬」がある中で「成立」しているのが学校であり授業だと言ってもいいくらいです。広田さんが引いた上のN先生とSくんの「衝突」にも、そんな「背景」がありはしないかと想像してしまいます。

 広田さんの言う、教育の根本的な「不確実性」は避けられないことだと思います。しかし、「不確実性」ゆえの豊穣性というか、可能性の広がりもある気がします。
 広田さんの高校時代のエピソードについて言えば、担当の先生からしたら、たとえ授業が下手だという「自覚」があったとしても、教室で公然とこんなことを言われたら、それはショックです。その場に居合わせた人にとっても、当時の雰囲気はわかりませんが、「よくぞ言った」と思う者、「いくら何でも言い過ぎだ」と思う者、いたたまれずに耐える者……等々、その反応は一様ではなかったと思います。当事者の二人はもちろん、その場に居合わせた人たちに、その後どういう影響があったのか、なかったのかは、調べようがありませんが、おそらく「続き」はあるのだろうと思います(実際、広田さんは40年以上も昔の高校時代のこの一場面を記憶しているのですから)。

 これは前にブログで書きましたが、この春、映画監督の是枝和裕さんが早稲田大学の新入生に向けた話が話題になりました。是枝さんはこの「続き」に類する話をしているように思います。是枝さんの場合は、授業ではなく個人面談の折に「(先生の)授業はつまらない」と言ったようなので、状況は異なりますが、高校卒業後、仕事をしながらいろいろと感じることがあったのでしょう、後で自分が間違っていたと先生に手紙を書き、その後先生との交流が始まったと言っています。

是枝監督の祝辞のこと - ペンは剣よりも強く

 当事者が気づかないうちに、過去の経験や言葉が心のどこかに引っかかって徐々に「発酵」し、次の行動を縛ったりすることは十分考えられます。批判を突っぱねたからといって、突っぱねた人がその後も同じ認識のままとは限りません。次に同じことがあったら、前とはちがって突っぱねないので、あれ?何で?と思うことがあるかも知れません(実際、よくあります)。Sくんから「つまらない」と言われたN先生も発奮して、その後どうすれば授業がおもしろくなるか、工夫と研究に邁進し、のちに別人のような授業をする教員になったとか(いや、わかりませんが)。あるいは、Sくんの方も、是枝さんのように、さすがにこれはひどいことを言ってしまったと、その後反省し、手紙は出さないまでもN先生には申し訳ないことを言ってしまったと後悔したとか(いや、まったくそんなことはないかも知れないし、それはわかりません)。しかし、その可能性は当時だけでなく、今でもあるわけです。

 広田さんがこの「不確実性」についてどんなオチをつけるのかはわかりませんが、学校も授業もそのときだけでは完結しない、いつ「爆発」するかわからない「時限爆弾」に似たところがあります(それはいいにつけ、悪いにつけ、ですが)。教員は自分ではいい「時限爆弾」をセットしたつもりでも、往々にしてそれが不発弾であることが多いというのが教育の宿命でしょう(ウクライナの戦争中に穏当な比喩でなくて申し訳ないです)。
 でも、セットするのをあきらめない。「発酵」するのを気長に待つ、教育はそういう営みでいいのではないかと思います。この十数年、費用対効果や成果主義にだいぶ毒されましたが、20年かそこらで人間や人生が決まってしまうような強迫観念の方がまちがいだと思います。人生も教育も、もっと豊穣です。「教育とは何か」の答えにもなりませんが…。



↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村