ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「プーチンの戦争」から脱するために

 ロシア軍がついにウクライナに侵攻しました。正直なところ「寸止め」でやめると思っていたのでショックです。失望と怒りを覚えました。
 これは真野森作さんの本のタイトルではありませんが、まさに「プーチンの戦争」だと思い、彼についていろいろと調べてみました。たとえば、2月13日付毎日新聞には、外信部・篠田航一記者の記事があり、プーチン氏は東ドイツに駐在していた1989年にベルリンの壁の崩壊を間近で見たことが一種のトラウマになっているのではないかというのです。一部引用させてください。
若き日のプーチン氏がドイツで感じた「トラウマ」とは? 古都で過ごした冷戦末期の日々 | 世界時空旅行 | 篠田航一 | 毎日新聞「政治プレミア」

 ロシアのウラジーミル・プーチン大統領(69)は、なぜ何としてもウクライナを勢力圏に置きたいのだろう。私はベルリン特派員時代の2014年、ウクライナ紛争の取材で現地を訪れるたびにいつも素朴な疑問を抱いていた。
 そんな時、「答えはドイツ時代にあるよ」という人がいた。プーチン氏は冷戦末期の旧東ドイツで若き日を過ごしたが、その時の経験が後の人格形成に影響を与えたというのだ。……

 旧東ドイツドレスデンエルベ川の真珠と呼ばれ、かつては森鷗外も学び、ザクセン王国の中心地として栄えた古都だ。この町に30代の頃のプーチン氏が通った「アム・トーア」というバーがある。プーチン氏は1985~90年、旧ソ連の情報機関・国家保安委員会(KGB)の情報員としてドレスデンの事務所に駐在していた。
 当時のプーチン氏を知るドレスデン在住の男性が14年、匿名を条件に話をしてくれた。
 「ウオッカやワインではなく、彼はビールが一番好きでした。ドイツ語も上手でした」
 プーチン氏のお気に入りは「ラーデベルガー・ピルスナー」という地ビール。私も15年にこの店で飲んでみたが、独特の苦みがくせになる味だった。…

 プーチン氏がドレスデンにいた89年11月、ベルリンの壁が崩壊した。当時37歳だった若き情報員は、ドイツの市民が一夜にして世界を変えた勢いを目の当たりにした。
 「東側諸国が崩壊する時にちょうど東ドイツにいた彼は、市民社会の活力に恐れを抱きました。彼にとっては『安定』というパラダイムが重要だったのです。彼だけでなく(ソ連が崩壊した)90年代に生きた多くのロシア人にとっても、それは非常に大事でした」
 独露関係やウクライナに詳しいシンクタンク「欧州外交関係評議会」のシュテファン・マイスター研究員は14年、取材にそう話していた。
 西側諸国が自分たちの領土に迫って来る。その怖さをプーチン氏は肌で感じた。「ウクライナ死守」は実は恐怖心の裏返しで、原点は若き日のドイツ体験にある。それがマイスター氏の分析だ。
 ウクライナはロシアと西欧の間に位置し、米欧の軍事機構である北大西洋条約機構NATO)加盟を目指している。だがプーチン氏はこれまで、NATOが東方、つまりロシアの方向に拡大しないことを再三求めている。これこそ恐怖心の裏返しなのかもしれない。

 ドレスデン時代のプーチン氏はどんな生活を送っていたのか。
 南ドイツ新聞などによると、住んでいたのはKGBの事務所近くの集合住宅。休日には公園でよくサッカーをした。夜の楽しみはビール。妻リュドミラさん(13年に離婚)はドレスデンで次女を出産し、家族も増えた。後にプーチン氏はドレスデン時代について「人生で最も素晴らしい時期」と振り返ったという。
 そんな穏やかな日々を一変させたのが壁崩壊だった。やがてKGBと協力関係にあった旧東独秘密警察の建物が、自由を求める市民から襲撃される事件も発生。事件後、プーチン氏は銃で武装し始めたという。

 その後、母国に戻ったプーチン氏を待っていたのはソ連崩壊だった。混乱の中、一時は個人タクシーの運転手のアルバイトをして生計を立てたというプーチン氏。昨年放映されたロシアのテレビ番組で、「時々、私は個人運転手として副収入を得た。正直、話したくないが、残念ながら事実だ」と振り返った。楽しかったドイツ駐在時に比べ、それは屈辱の日々だったのだろう。
<以下略>

 真野森作さんの本にはプーチン氏の元側近の証言があります。2000年から5年間、経済顧問を務めていたアンドレイ・イラリオノフ氏(取材当時55歳 現在は米国に移住)は、2016年9月、真野さんのインタビューにこう答えています。

 プーチンは非常に賢く、長期戦略を持った政治家の一人だ。はっきりとした目的を持ち、その達成のために複数のプランを同時並行的に用意する。クリミア編入など対ウクライナ戦略についても10年以上前から構想し、チャンスを待っていた。決して実現を焦りはしない。最も条件の整った時に実行するのだ。クリミア奪取は小さな目的だ。二つ目はウクライナ東部の確保。三つ目がウクライナすべてを政治的にコントロールすること。三番目の目的は実現していないが、これこそが最大の狙いだ。
 ……シリア問題についてもプーチンは勝利を収めている。ロシアは史上初めて米国の勢力圏である中東に軍を常駐させたのだ。米国は反対を表明することもなかった。米国の弱体化も影響している。オバマ政権はウクライナ危機に際して『武力介入しない』と明言し、ロシアの行動を許してしまった。
 ……彼(プーチン)はソ連復活などということは考えていない。そんなことは不可能と理解し、欲してもいない。だが、ソ連崩壊後の世界を修正したいと考えている。その一環がクリミアであり、ドンバスだ。彼は『ルースキー・ミール(ロシア的世界)』と呼ばれるものを復興させようとしている。その基本理念は完全に明確ではないが、現在のロシアの国境線を膨張させる考えだろう。…影響圏、利益圏、ユーラシア連合、ルースキー・ミール。これらはみな、より巨大な組織体に関するバリエーションに他ならない。プーチンは常にそれに取り組んでいる。

(真野『ルポ プーチンの戦争』、382-384頁)

 しかし、プーチン氏個人の人格や意図が少しくらいわかったからといって、それが戦争を止める力になるのかという気もしています。彼の命令にしたがってロシア軍兵士はウクライナに攻撃をしかけ、ウクライナ軍側も応戦しています。その結果、人の命を奪うかもしれないし、兵士も自身の命を失うかもしれません。周囲を巻き込めば一般市民の命も奪われます。命を奪う側にも奪われる側にも家族や親しい人はいるでしょうし、直接関係のない人にとってもショックは大きい。こんな悲劇を許してはならないというのが、今の世界の多くの人の声です。昨日の朝、歴史家の藤原辰史さんの記事を読んでいて、自分もどこか為政者たちと同じ「上から目線」でこの戦争を見ていたように思えました。2月24日付毎日新聞より引用させてください。

月刊・時論フォーラム:緊迫のウクライナ情勢/沖縄と奄美/五輪ドーピング疑惑 | 毎日新聞

 いまウクライナ危機関連の記事は北大西洋条約機構NATO)とロシアのパワーゲーム分析の性格が強すぎて、ウクライナとそこで暮らす人びとの生活と歴史へのまなざしが弱い。結局為政者たちと同じ「上から目線」に見えてしまう。
 「国家の名誉にかけて」「崇高な理想」を世界に向けて語れと憲法に書いてある日本は、崇高な理想が語りにくい殺伐とした時代だけにいっそう、知性が試されていると強く意識すべきだろう。これこそ日本らしい国際的平和貢献ではないか。

 私は危機から現実逃避をしたいわけではない。1938年9月の世界史の転換点を思い浮かべているのである。ヒトラーチェコスロバキアズデーテン地方を要求し独軍を国境付近に集中させたとき、この事態を話し合うミュンヘン会談では戦争回避と引き換えに英仏伊はズデーテンをナチスに差し出した。それから半年後にヒトラーチェコスロバキアを丸ごと併合したが、このとき当該地域の生活と文化と歴史への理解が西欧の政治家には決定的に欠けていた。ヒトラーの資質や性格ばかりが話題となり、パワーポリティクスにのっとり、小国をいけにえにささげる大国意識が、ヒトラーをつけ上がらせた面もあったと思う。

個人還元主義
 今の国際世論もあまりにプーチン個人に焦点を当てすぎではないか。その最たる例が世界中で人気の歴史家ニーアル・ファーガソンだ。彼は「クーリエ・ジャポン」で、プーチンスターリンの独裁を目指しているというよりは、ウクライナスウェーデンの連合軍を1709年の「ポルタバの戦い」で破ったピョートル大帝が理想だと説明している。
 この議論から学ぶことはあるが、見方がやはり個人還元主義だ。これでは国際世論は1938年を再現してしまう。パワーゲームにうつつを抜かすプーチンたちの政治を骨抜きにする歴史的社会的観点の大事さこそ80年前に学んだ教訓だと思う。この意味で、朝日新聞の国末憲人記者の現地取材記事は興味深い。首都キエフから西部に逃げる準備を整えている29歳の公的機関の職員は「明日は美容院に行きます。殺される時は美しいままでいたいですから」と答えたという。サイバー戦による情報網切断に備えてか、トランシーバーも購入した。他方で、真っ先に標的になると言われている国境の村で47歳の看護師は、5階の窓から見えるロシア側には「兵器なんか全然ない」と言い「米国よりロシアの方が信頼できる」と断言する。ロシア人が少数派のこの地域では、近年高まるウクライナナショナリズムは脅威にほかならない。

 モスクワは、古都キエフを中心とするルーシ(ロシアの古名)の辺境だったが15世紀から力を増しルーシの諸公国を併合した。ウクライナはそのモスクワを中心とするロシア帝国ポーランド・リトアニア共和国ハプスブルク帝国オスマン帝国のはざまで分裂と統合と戦争を繰り返した。やっとウクライナ人民共和国として独立したあともボリシェビキと戦争、結局ソ連の一部に組み込まれ、ようやく独立を果たしたのは1991年のこと。ウクライナ議会の名「ラーダ」は、コサックの参加者平等を原則とする会議の名が由来だ。
 「土の皇帝」と名高い黒土チェルノーゼムが西欧の胃袋を満たしていたがために独ソ双方の欲望が露骨に向けられたこと、ソ連穀物の強制徴発で数百万人が餓死した歴史も見逃せない。なお、現在のような世界的な土壌劣化の時代にウクライナが焦点になる意味はもっと考えられてよいがそんな報道も少ない。

…… 
日本独自の世論を
 そして、そんな歴史の中で生まれたハイブリッド文化に危機克服のヒントはないだろうか。世界的ピアニストのホロビッツウクライナユダヤ人である。チャイコフスキーウクライナ・コサックの血筋で、交響曲第2番は採譜されたウクライナ民謡が取り入れられている。ニジンスキーからポルーニンまでバレエダンサーも輩出している。ゴーゴリウクライナ中部の小地主の出身だ。
 こんな危機の時だからこそもっと非英語の情報を、歴史や文化や生活や科学も含めて集め発信すべきだろう。欧米が過剰に危機をあおっていないかと一歩引いてみる記事は独立系メディアを除いて日本で少ないのが気になる。歴史や文化にはその冷静さを保つヒントがある。幸いにも日本の中東欧史・スラブ史の研究レベルは高水準だ。専門家の知性に耳を傾け、日本独自の国際世論形成を試みたい。

 戦争をプーチンの手から我々の手に――などというのは誤解されそうな言い方ですが、為政者のパワーポリティクスの語りから我々の非戦・平和・文化の語りにすることで、戦争を止めることにつなげたいと今は思っています。みんなで声を上げないと。




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