ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

15のとき

 皇室スキャンダルに加担するようで嫌なのですが、去年の3月、北九州市の「第12回子どもノンフィクション文学賞」の佳作に選ばれた秋篠宮悠仁さんの作文に、すでに発表されていた他の文章と酷似する箇所があると指摘されています。誰が気がついたのか知りませんが、宮内庁によれば、これは(剽窃ではなく)引用で、出所を書かなかった本人の不注意という話なのですが、どうなのでしょうか。

悠仁さまの文学賞入賞作文の一部が他の人の文章と酷似 宮内庁は参考文献の記載漏れを認める|NEWSポストセブン
悠仁さま、作文コンクールで引用元明記せず 宮内庁「不十分」 | 毎日新聞

 それで思い出したのですが、小生には腹の底から笑えないエピソードがあります。中学校の国語の授業か何かで、一人最低1つ標語をつくらなければならなくなり、小生、面倒だったので、参考資料として配られた過去の優秀作品の文言を切り取って適当にアレンジし、標語に仕立てて提出しました。ところが何と数ヶ月後、これが優秀作品に選ばれて、表彰されることになってしまったのです。もう、恥ずかしいやら、戸惑うやら、ですが、担任の先生は喜んでるし、親も賞状を額に入れて飾ると言い出して、真相を告白するわけにもいかず、クラスの仲間はみんな黙っていてくれて(ニヤニヤして)、この話、「時効」になるまで何十年もお蔵入りでした。そんなわけですから、全校生徒の前で表彰されても、いまいち嬉しくもありません。過去の作品を見もせずに審査するなんて、大人ってのは実はいい加減だなあと思ったものです。

 入賞した悠仁さんは、どうだったのでしょうか。まさか表彰されるとは…、でも、周りが喜んでくれて…と思ったかどうか。小生の場合、剽窃だらけの作品であることに大人は気づきませんでしたが、仲間の子ども同士の間では周知のことでした。悠仁さんの場合、剽窃かどうかはわかりませんが、外部からの指摘があって、かりに「やっぱり」と思ったとしても、(おそらく)大人の指示どおりに対応しないといけないわけで、背負わされているものが大きいだけに、何か可哀想な感じがします。

 しかし、その一方で、宿題を他人にやらせ、授業に出ないで単位を認定され、挙げ句に、国会で嘘をつきまくるような大人になってしまった人の例もあります。それを思うと、「菊のご威光」があれば、世の中こんなもんだと思うのか、それとも、自己を省みながら物事に向き合い、世の奥深さを学ぼうとするのか、両者には雲泥の差があります。後で振り返って笑い話のひとつになるかどうかはわかりませんが、15歳の子どもにとって、周りの大人が考えているよりも重大局面かもしれません。

 毎度引用しているトルストイの『文読む月日』の昨日2月17日の欄に、趣旨はちがいますが、こうあります。

 (五) 子供たちほど、その生活のなかで真の平等を実現している者はいない。それなのに子供たちに、世間には王侯とか富豪とか名士とかいった敬わねばならない人々と、僕婢とか労働者とか乞食とかいった蔑んでいい人々がいると教えることによって、子供たちの神聖な感情を破壊する大人たちの罪はどんなに深いことであろう! “この最も小さき者の一人を躓かす輩は…”(「マタイ伝」第十八章六節)

 (六) ……幼児に学ぶがよい。幼児のように誰とでも愛情と慈しみをもって接し、万人に差別なく振る舞うがよい。ある人々に “君(トゥイ)” と言うなら、みんなにもそう言うがいい、もし “あなた(ヴィ)” と言うなら、みんなにそう言うがよい。自分で自分を持ち上げる人たちを見ても、ほかの人たち以上に敬わぬがよい。また、もしみんながある人々を卑しむのを見たら、そうした悪い手本に従わないために、ことのほかその人々を尊敬するように努めるがよい。
                   (『文読む月日(上)』、180-181頁)

 渦中の人となったフィギュアスケートのカミラ・ワリエワ選手も15歳です。子どもたちを真っ白なキャンバスに見立てる気はありませんが、この後どういう絵を描いていくことになるのか、大人たちに責任があるのは確かです。




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