ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

SNS・政治・感情

 SNSと政治について、フォトジャーナリストの安田菜津紀さんのインタヴュー記事を読みました。
 2月6日付朝日新聞から部分引用させてください(聞き手は三輪さち子記者)。

なぜ入管法改正案はSNSで広がったのか 安田菜津紀さんに聞いた:朝日新聞デジタル

 ――入管法改正案を振り返り、SNSの力をどう感じましたか。
 法案自体は複雑に見えますが、問われていたことはシンプルでした。国家や公権力が、人の命を線引きしていいのかという問いです。ツイッターではそれを問いかけるように心がけていました。
 ウィシュマさんの死亡事件の直後はあまり報道も投稿もありませんでしたが、遺族が来日し、痛みが伴うけれども、自分の顔で名前で、声で発信しました。そのことがSNSの拡散の上でも大きかった。「入管」「外国人」という大きな主語が、「なになにさん」という血の通った人間の問題だということで迫ってきたのだと思います。
 そんなことが起きていたの?と。この問題に声を上げたことがない人が、ちょっとリツイートしてみようかな、このニュースを拡散してみようかなと思ってくれた。人が亡くならなければ変わらないのだろうかと、もどかしくも思いますが、この1年近くで間口が広がったという感覚はありました。

<中略>
 ――SNSなどで、うねりが生まれるきっかけは何でしょうか。
 一人ひとりの市民の声が集まることが何よりの力ですが、一つ挙げるとすれば、文化人が声を上げ始めた時です。昨年4月、入管問題に取り組んできた弁護士や、難民申請中の当事者とともに、エッセイストの小島慶子さん、お笑い芸人のせやろがいおじさんが会見をしました。その後、俳優の小泉今日子さんも発信しました。「そうか、声を上げていいんだ」と背中を押すきっかけになったと思います。

 ――2020年の国会で廃案となった検察庁法改正案にも似ていると感じますか。
 あの時もツイッターでの盛り上がりがあったが、入管法はさらに進んだと思います。
 検察庁法は国家権力の恣意(しい)的な介入への危機感とともに、一部の人だけがひいきされて不公平だ、という怒りもあったと思います。入管法はこんな不当なことが許されて良いのかという声が多くあがり、人権という軸がさらに深まったと思います。

 ――国会での審議が注目されることはあまり多くありません。国会の中と、外にいる人たちをつなぐにはどうすれば良いのでしょうか。
 法務委員会での審議入り直後に話した野党の議員は、「メディアはそんなに騒いでいないでしょ」と冷ややかでした。ところが、ツイッターで盛り上がり、デモや署名活動もあり、当初あまり関心を寄せていなかった野党議員にもエンジンがかかったように見えました。
 この動きを見ると、声を上げるのって無駄じゃないんだ。ちゃんと届くんだと実感した人たちが多かったのではないでしょうか。
 政治的無気力とか、どうせ押し通されるという空気はありました。でも、大きなうねりになった。
 高校生としてシットインを企画した一人の女性が「I do have a voice(私には声がある)」と語っていたのがとても印象的です。

 ――野党の役割、あるいは一人ひとりの政治家の役割として何を期待しますか。
 政治がSNSだけに振り回されることは望ましくはありませんし、リスクもあります。しかし、今回の問題が、ここまでの盛り上がりになることは、多くの国会議員が予想できていなかったでしょう。外国人の問題は「票にならない」という損得勘定ではかられがちでした。
 でも、時代は変わってきています。外国人や難民は遠い存在ではなくなりつつある。特に次世代の若者たちにとって、「私の友達」であったり、「私の隣人」であったり、身近な問題として迫っているのです。
……


 「(私の)身近な問題」ということで言えば、前回のブログで触れた「感情」と重なるところがあるように思いました。
 私と政治、私と学問、私と宇宙…。つながりがないこともないでしょうが、なかなか実感としては認識しづらいところがあります(それでも、政治は、投票などもありますから、宇宙に比べればかなり近いはずだと思いたいのですが)。しかし、感情(共感)が認識への架け橋、媒介となることがあるのではないかと思います。学問について言えば、学術論文には作法のようなものがあって、本文の合間に論者(書き手)の人間性(感情)が表現されることはまれで、「あとがき」で謝意や苦労談などが触れられる程度です。読み手は、そのとき初めて論者の人柄の一端を知ることになります。これは、歴史家の阿部謹也さんがどこかで書いていた話です。
 総じて、日本の歴史学は、客観的、価値中立的であろうとして、そうした「感情(私情)」を排してきた面がありました。「感情」は文学で扱うべきものだという暗黙の合意です。歴史の教科書などは特にそうです。それは戦前・戦中の「皇国史観」や戦後冷戦下のイデオロギー対立に対するひとつの反省なのかもしれません。でも、その結果、他人事感の抜けない歴史叙述になったことは否定できません。人間が関わる歴史を書けば、書かれる「歴史」の中にも人間の「感情」は働いているはずですし、書き手にも「感情」はあるはずです。文学には「感情」が必要で、歴史には「感情」はいらないというのは、やはり作為的で変です。

 政治はなおさら「感情」と無縁ではないでしょう。政治は人びとの「感情」左右し、たびたび人びとの「感情」左右されてきました。しかし、選挙の投票率などが示すとおり、政治に背を向ける人が少なくありません。歩調を合わせるように政治から「感情」が排され、統治のための統治が淡々と進められていきます。
 そういう中でSNSに「I do have a voice(私には声がある)」というメッセージが現れ、実際に物事が動いたこともあります――よく考えてみれば、著名人でもない一般の人の発信をきっかけにして、世の中が動き政治に影響を与えるなど、“前世紀人” には考えられなかったことです。その「感情」の働き方や示し方、あるいは、もしかしたらその「感情」自体が、過去にはなかった情報媒体の効果により、「変化」しているかもしれないのです。ここに希望をつながないわけにはいきません。




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