ペンは剣よりも強く

日常と世相の記

「痛みの感情史」

 読書会仲間と本を読んでいて、今はやりの「感情史」が話題になり、少し調べてみました。人の「感情」も過去から未来へと歴史的に変移していくだろう、くらいの雑駁なことは予想しますが、全体像をとらえるにはまだ断片的でよくわかりません。これは分厚い本のひとつも読まないとダメかなと思いつつ、ネットを眺めていたら、『痛みと感情のイギリス史』という本の編者・伊東剛史さん(東京外国語大学)が書いた短い記事を見つけ、興味深く読みました。『ピエリア』第9号(2017年4月)より一部引用させてください。

http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/88877/1/pieria2017_29.pdf

……痛みはほぼ誰もが経験する。その意味では、痛みは普遍的かもしれない。しかし、自分の痛みは自分にしかわからないという命題を真とするなら、痛みの本質は普遍性を否定するところにある。だからこそ、どうすれば他(ひと)に痛みをわかってもらえるかという問いが、逆説的にも人の営みを支え、歴史を通して意味を持ち続けてきた。17世紀初頭のイギリスで、ある敬虔な領主夫人は痛みをよりよく死ぬための試練として受け止め、その記録を日記に綴った。痛みは、彼女にとって神との関係性において生きられたのである。あるいは、まだDVという概念がなかった18世紀、夫の暴力に苦しめられた妻が法廷に訴え出た。彼女たちは弁護士を介して自らの痛みを克明に語ることで夫の残忍性を証明し、別居を勝ち取ろうとした。一方、チャリティが貧者の救済を担う19世紀社会では、困窮者は自らの痛みを無心の手紙に綴り、施しを得ようとした。この頃には、生々しい身体的損傷より、それを耐え忍ぶ様子の方が、救済に値する苦痛だと判断された。
 歴史のそこかしこに見られる痛みの愁訴が、やはり痛みという経験の普遍性を提起するなら、その愁訴への応答も普遍性の問題を帯びることになる。たとえば、涙を流すことが窮状にある他者への同情を表現するとしたら、それは種としてのヒトに特有の、人を人たらしめる感情表現なのだろうか。進化論者のチャールズ・ダーウィンは、涕涙を一部の動物にも見られる生物学的現象であると説いた。そこから、果たして動物も苦痛にある他者に共感するのかという新たな科学的探求が始まる。
 2015年5月、この問いに答える神経医学の実験結果が新聞で報道された。共に飼育されたラットのペアは、片方が水責めにより溺死しそうになると、もう片方が溺れる仲間を助け、さらに溺れたことのあるラットの方がより迅速に援助行動をとることから、ラットにもヒトと同じ共感能力があると証明されたというのである。もちろん、ラットとヒトの間に直ちに共感の回路が開かれ、両者が同じ感覚世界を共有したわけではない。この記事を読んで溺れそうなラットの苦しみを我がものとし、ラットを救うべく行動した人はどのくらいいただろうか。
<以下略>


 そう言えば、川で流されている(泳いでいる?)飼育員を、溺れていると思って助けに行く象の動画を見ました。動物にも(当たり前かもしれませんが)情や共感能力はあるのではないでしょうか。
象は大切な人を見捨てなかった!溺れていると勘違いして飼育員を懸命に追いかける象の姿に心温まる【感動】 - YouTube

 逆に、伊東さんも触れていましたが「痛みは本人にしかわからない(自分の痛みは自分にしかわからない)」というとらえ方もあります。究極的にはそうなのかも知れません。小生の父親も、生前、たびたび身体の痛みを訴えていましたが、それをこちらがどれだけ理解しフォローできていたかと、時折思い返します。痛い、痛い、という訴えは、背中や腰や腹など、身体のどこかの痛みを訴えていたというよりも、(それにともなう)心の痛み、悲しみを訴えていたと思えます。

 伊東さんは、別のところ(座談会)では、こう話しています。

 …痛みというのは、ほぼ誰もが経験したことがあって、誰もが理解していることのように感じられますが、 実際には痛みとは何かを定義しようとすると、本当に難しいです。体の痛みもあれば、心の痛みもあり、指先を切ってしまった時の突発的な痛みがあれば、腰痛のような慢性的な痛みもあります。 さらに、痛みとは、「生きる」ことと対になるという考え方があり、最近ではとりわけ他者の痛みに共感できることが、多様な人々との共存、共生にとって重要だと言われます。 しかし、痛みがわたしたちの生に対して根源的な問いを投げかけるという理解は、もしかしたら歴史を通して一様だったわけではないのかもしれません。
<中略>
 …痛みは間主観的な経験であって、痛いということを家族や神様や内なる自分自身といった他者に向かって発信することによって、ひとつの経験として成立したのであり、その成り立ち方が時間とともに大きく変化してきたことが分かってきました。
座談会『痛みと感情のイギリス史』とEEBO

 12月、1月と痛ましい事件が続きました。大阪のクリニックの放火や埼玉の人質立てこもりなど、「なぜこんなことを?」と思います。警察発表で容疑者の動機を聞いても、小生だけでなく、おそらく多くの人にとって理解しがたい話で、とても「共感」できるものではありません。しかし、事件を起こした容疑者には当人なりに感じている「痛み」はあったのだろうと思います。それなら、他人の「痛み」はどうなるんだという話にもなりますが、それが許されるかどうかではなく、個々の人間の感情の起伏と対応を考えることは大切で、それは犯罪を防ぐという意味だけにとどまらないと思います。

 「痛みは本人にしかわからない(、だから…)」という物言いには、どこか自助や自己責任につながる危険性があります。「だから、ほっとけ」とか「だから、自分には何もできない」とか。しかし、伊東さんが言うように、「痛み」の感情が経験として成立したもので、これまで歴史的に変化し、今後も変化していくものであるなら、こうした物言いや視線も変化していくかも知れません。できるなら、自己責任や放置の方向ではなく、「…本人にしかわからないけれども…」と逆接の語でつながる方向に変化していってほしいと思います。「痛み」をすべて引き受けて平静に生きられるほど、個々の人がみな強いとは思えないのです。



↓ よろしければクリックしていただけると大変励みになります。


社会・経済ランキング
にほんブログ村 政治ブログへ
にほんブログ村
にほんブログ村 政治ブログ 政治・社会問題へ
にほんブログ村